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Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

井上明人/2015年度・業績リスト

2015年度やったこと、はっときます。

公開できないものや、チームで関わったプロジェクト等についてはけっこう省いています。

 

 

■書いたもの

1,井上明人,「中心をもたない、現象としてのゲームについて」,2015年10月よりPLANETS/第二次惑星開発委員会にて連載中

2,井上明人,「Game Reviewers can’t notice innovation」,2015年5月,Replaying Japan 第3回大会 Proceedings,pp.112~114,査読有,
3,井上明人,「ゲームレビューのイノベーション評価能力について」,2015年8月,DiGRA Japan2015年 夏季大会 予稿集,pp.92~94,査読有,
4,井上明人福田一史、梁宇熹、辛注衡、向江駿佑、細井浩一,「CEROレーティングと売上からみた家庭用ゲームソフトの開発方針の合理性について」,2016年2月,DiGRA Japan2015年 年次大会 予稿集,,pp.177-182,査読有
5,井上明人,「遊びと真面目はなぜ分化しつぃまうのか―融合と分裂をめぐる仮説構築の試み―,2016年2月,コンテンツ文化史学会 2015年度大会 予稿集,pp.18~20,査読無,
 
■研究発表等
1,井上明人,「Game Reviewers can’t notice innovation」,2015年5月,Replaying Japan 第3回大会,
2,井上明人,吉永大祐、山口真一,「ウェブ社会とゲームに関わる定量的研究のこころみ」,2015年8月,DiGRA Japan2015夏季大会,
3,井上明人,「ゲームレビューのイノベーション評価能力について」,2015年8月,DiGRA Japan2015夏季大会,
4,井上明人,「カイヨワ的な遊び論を議論する~どう学際的に捉え直すか~」,2015年9月,多元化するゲーム文化研究会,
5,井上明人,「遊びと真面目はなぜ分化してしまうのか―融合と分裂をめぐる仮説構築の試み―」,2016年2月,コンテンツ文化史学会 2015年度大会,
6,井上明人,福田一史、梁宇熹、辛注衡、向江駿佑、細井浩一,「CEROレーティングと売上からみた家庭用ゲームソフトの開発方針の合理性について」,2016年2月,DiGRA Japan2015年 年次大会,
7,松永伸司、井上明人福田一史、細井浩一,「研究マッピング(ゲーム領域)プロジェクトの実施状況と課題」,2016年2月,DiGRA Japan2015年 年次大会,

■ほかに関わった出版物
1,角川アスキー総合研究所『ゲームってなんでおもしろい?』,2016年3月,,PP.136~155についてインタビュイーおよび、年表作成補助

■その他の活動(報道発表や講演会等)
1,#denkimeter,第一学習社、高校三年生向け英語教科書『Vivid Communication』にて#denkimeterが掲載,2015年4月,
2,「Gamificationの最新動向」,株式会社Akatsuki社内勉強会にて講演,2015年6月10日,
3,「ソーシャルゲーム先行者利益はいかにして破られたか」,GLOCOM ERPセミナー,2015年7月3日,
4,「ゲーミフィケーションとは何か」,立命館大学土曜講座 於 立命館大学,2015年7月11日,
5,「Cool Japanとは何か」,高崎高校の学生さんへの講演,2015年9月7日,
6,スーパーマリオはなぜ流行ったか/マリオ30週年によせて(コメント),NHK News Web および、NHK Worldにて2015年12月に放映,2015年12月,
7,ゲーミフィケーションとは何か(インタビュー),聖教新聞に掲載,2016年3月,
8,ビジュアルノベル「地方病(日本住血吸虫症) Wikipedia 日本語版より」を発表,2015年10月

■担当した授業
1,立命館大学 先端総合学術研究科 特殊講義IV(ゲームの現象論/春学期のみ/大学院生向け)
2,関西大学 総合情報学部 特別講義(ゲーム産業論)(春/秋)
3,関西大学 総合情報学部 テーマ別研究(ゲーミフィケーション)(春/秋)

 

 

 

むかしの業績リストはこちら

 

*2014年度分

2014年度/井上・業績リスト - Critique of Games メモと寸評

 

*2011年まで

Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―: work アーカイブ

 

2012年~2013年は多すぎてめんどくさかったので、雑なのしかつくってません…

吉田寛「規則と自由の弁証法としてのゲーム――<ルールの牢獄>でいかに自由が可能か」へのコメント

 

吉田さんのペーパーに敬意をこめて、簡単にコメントをまとめておきます。

 

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_26-1/RitsIILCS_26.1pp.19-27YOSHIDA.pdf

 

1.コンピュータ・ゲームにおいてルールに逆らうことは本当に不可能なのか?

「コンピュータ・ゲーム」においてルールに逆らうことは、可能か不可能かと言われれば、可能と思われます。たとえば、オンラインゲームにおけるRMTはその際たるものですし、中沢新一が「ゲームフリークはバグと戯れる」において指摘したゼビウスをめぐるゲームフリークたちの行動などもまた、ゲームプレイヤーが、ゲームのルールをある意味で無視するような事例だと言ってよいかと思われます。
 もちろん、RMTも、ゼビウスのゲーマーたちも、そもそものオンラインゲームのルールや、ゼビウスのゲームのルールがまず前提として存在しており、ゲームのルールがゲームプレイヤーの振る舞いを規定する前提として機能していることは確かです。その意味で、コンピュータ・ゲームのルールは強力な制度ではあります。
 コンピュータ・ゲームを遊ぶということもまた、アナログゲームを遊ぶことと同様に、ゲームプレイヤーから、積極的にルールに従おうという「合意」を経由しなければ、その通りに遊ばれることはないメディアだという側面は確かにあると思われます。
 また、この点については、もう10年前になってしまいますが…増田泰子さんが、コンピュータ・ゲームのプレイにおける広範な性質の一つとして、Rule Breakingというものがあるのだという議論もされていらっしゃいます。
http://www.4gamer.net/news/history/2006.08/20060803142459detail.html

 ただし、吉田さんが書いていらっしゃることも確かに、言いたいことはよくわかるわけでして、類似することは僕も何度も言ったことがありますし、いろいろなひとが似たようなことを書いているのを読んだ記憶があります。なので、これは、僕らがここらへんのことをうまく言い表す言葉を開発できていないというタイプの問題なのだと思っています。(>もしかしたら、うまい言い方を知っている人がいたら教えてほしい)
アナログゲームと、コンピュータ・ゲームがそれぞれにルールへの合意をどの程度まで実質的に必要とするかという程度問題は確かに違うし、コンピュータ・ゲームの場合は、アナログゲームと比べて「フォーマル・ルールの自動執行」がなされることが多いというのも、概ね事実といってよいとは思います。ただし、アナログゲームが「コンピュータ・ゲーム」になることによって備えている性質が全部変わってしまうわけではないので、言い方が難しいという話だな、と思います。
少なくとも、「論理」的には、アナログゲームと、コンピュータ・ゲームはやはり連続した性質をもっていて、そこを論理的に性質が分けられるのだという議論をするのは、結構こまかな手続きを得ないと反論を許してしまいやすく、面倒なものだというように思います。
一方で、論理的にくっきり区別されるというよりは、観察されるその実態や傾向の問題として、アナログゲームとコンピュータ・ゲームを別種のものとして整理しようとする議論であれば、もう少し受け入れやすい話になるようにも思います。
 いずれにせよ、「コンピュータ・ゲームにおけるフォーマル・ルールの自動執行」のようなことを、適切に扱える概念枠組みが何かあると良いかなと。

 

2.「言語の牢獄」はどこまで牢獄か

サピア=ウォーフ仮説の妥当性について、いろいろな疑義が呈されている状況があり、言語が人々の思考を成立させている前提の一つであることは確かだけれども、前提の一つでしかないのではないか、と考えています。言語を含めた思考を構成する環境の全体は確かに、人の思考の幅を制約しているように思いますが、多様な環境のなかでも「言語」の特権性を強調する議論は、更新されてよいのではないかと考えています。
この点についての議論はたとえば、(1)今井むつみ『ことばと思考』岩波新書2010、(2)Steven Pinker ”The stuff of thought”(2007)〔『思考する言語(上巻)』pp247~pp291、NHKブックス、2009〕などを参照していただけると幸いです。


3.ビデオゲームのプレイヤーが経験する「自由」とは何か

 「自由」概念をめぐる整理は、本気で整理しようと思うと、拾集がつかなくなりますので、このコメント自体が半端なものになってしまうかとは思いますが、
 前段の話とも関わりますが、前提として「自由」だという感覚の成立自体が、いくつかの人間の認知モジュールの合成的な振る舞いによってもたらされる概念だというように私は考えています。吉田さんが指摘されているように、言語を習慣化することを通して、その言語を通して考えるという自由が成立したり、ある環境に適合することでその環境内でうまく振る舞うことができるようになるという自由が成立したりするということがあると思います。そして、またゲームの習熟を通して成立する自由もあるように思います。
 また、「自由である」という感覚の問題と、形式的にある状態を自由とみなすかどうかという問題を別様に論じることが可能であるということが問題をややこしくしており、選択肢が多様である、または実質的に選択できる程度に選択肢が多様である、選択が可能であるといったような、選択の形式の問題を通じて「自由」という問題を論じることもできる。
 それぞれに複雑な問題を抱えており、それぞれが組み合わさることで、複雑怪奇な問題構成とあらわれてくる話だろうと思います。

 で、上記の話を前提としたうえで、
 吉田さんの話のなかで、この点をどう扱うのか、難しくなるだろうなと思った点として、「ゲームに習熟していくプロセスにおける自由」をどう扱うのか、ということが挙げられます。
 松永くんの指摘とおり、a.ゲームをはじめる自由/ゲームをやめる自由 b.ゲームに習熟したのちの自由/ゲーム内で自在に振る舞えるという自由 という問題系は少し別の議論で、その二つが別々のレベルで成立してしまうのが、ゲームに習熟していくプロセスにおける自由という問題だと思います。


 まだゲームが下手なとき、ゲームにむきあうことはしばしば自らの技能が不自由だという感覚を与えます。しかし、そのようなときも「ゲームにコミットする」という意味においては、そのプレイヤーは自らの選択において、ゲームに参加している。ゲームを遊ぶときに、自らのゲーマーとしてのスキルに問題を抱えていても、ゲームをやめることは自由である。「私たちはゲームの規則でのみ遊ぶ。私たちがゲームの規則の強制をうけて遊ぶことをほっしないならば、遊ぶことをやめる」というニーチェの指摘のような意味では、ゲームが下手なときのゲームプレイヤーは、自由です。しかし、ゲームを思いのままに遊ぶということはできません。
 このように「自由」の多層的に存在していることで、ある状態が「自由」といえるのかどうか、いまひとつよくわからないという事態がゲームを遊んでいるときにはしばしば訪れます。では、どのような状態をもって我々はゲームにおいて「自由を経験している」と言いうるのか?

 

『中心をもたない、現象としてのゲームについて』連載第四回

「ゲームとは何か」をめぐる交わらない答えたち (井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第4回)

 

更新されました。

 

なお、いままでの連載四回分については、下記ページから、いずれも原稿の前半部分についてご覧になれます。

 

wakusei2nd.com

ご案内:今週末のコンテンツ文化史学会&DiGRA Japanでの井上の発表予定につきまして

 今週末の、芝浦工業大学大宮キャンパスにて、コンテンツ文化史学会と、DiGRA Japanが合同開催となります。

 私自身が発表するものが2件、セカンドオーサーのものが2件、セッションチェアーが1件になります。

  下記、私の予定メモになります。

 

■2016/02/27

 

10:30-11:00 コンテンツ文化史学会にて発表

発表:井上明人立命館大学)「遊びと真面目はなぜ、分化してしまうのか―融合と分裂をめぐる仮説構築の試み―」

場所:5号館2階5274教室

http://www.contentshistory.org/2016/02/11/1550/

 

14:30-15:50

セッション3(ゲーミフィケーション)セッションチェアー

場所:5241教室

http://digrajapan.org/?p=2730

 

17:00-17:50

インタラクティブセッション(ポスターセッション)

「研究マッピング(ゲーム領域)プロジェクトの実施状況と課題」

発表者:松永伸司(+井上明人福田一史、細井浩一)

場所:イコバ

 

18:00-20:00

懇親会

場所:生協食堂

 

2016/02/28 

 

15:00-16:00

セッション10「CEROレーティングと売り上げからみた家庭用ゲームソフトの開発方針の合理性について」

発表者:井上明人(+福田一史、梁宇熹、Shin Juhyung、向江駿佑、細井浩一)

場所:5251教室

 

セッション11「家庭用ゲームソフトのネーミングについてのマーケティング的観点からの分析」

発表者:福田一史(+井上明人、梁宇熹、シン・ジュヒョン、向江駿佑、細井浩一)

場所:5242教室

 

 

 

新連載『中心をもたない、現象としてのゲームについて』

 こんばんわ。本日より、下記の新連載のほうを開始させていただきました。

 基本的には「ゲームとはなんぞや」的な話を、私なりに答えようとするものです。タイトルは煽りとか釣りということは考えておらず、けっこうベタにそれなりに複雑な現象としてのゲームというものを、真正面から考えていきましょうという話を書きたいと思っております。

 ただし、最初の数回は、明晰なものを目指すというよりは、問題提起的な文脈を、整えていくということにしようと思っています。興味深いが、やや曖昧性を残すトピックの紹介という形を予定しています(なので、細かな反論については、当面は意識せずに書く感じです)。

 「ゲームとはなんぞや」ということを考えようとしている方にとっては、少なくとも日本語圏で読めるものとしては、それなりのクオリティのものを準備したいと考えております。よろしくお願いいたします。

 

ch.nicovideo.jp

 

 

地方病(日本住血吸虫症)のWikipedia記事をビジュアルノベル化しました

地方病(日本住血吸虫症)のWikipedia記事がにわかにバズっておりますが、

こちらのWikipedia記事を、nScripterビジュアルノベル化したものを作りました。(いうほどゲームゲームはしてませんが)

動作環境としてはWindows環境であれば概ね動くと思われます。

 

配布ページ

http://www.critiqueofgames.net/chihobyo/

 

作業としては、昨年2014年11月ごろに行い、その後、各種の権利関係をもろもろと調査し、こういったことがウィキペディアの権利を継承するかたちで可能であるかどうかなどをゆるゆると確認していたら今になったという感じです。

 

この記事のすごいところは、もちろん、記述の圧倒的な分厚さ、迫力でありますが、この記事のサウンドノベル化をしながら、なぜこの記事が可能になっているのかということをつらつらといくつか考えました。

 

1.さかおり氏のすごさ

 

 一つは、むろん、この記事のさかおり氏の圧倒的な力量と熱量によっていると思われます。調べ物のクオリティがすごいのはもちろんのこと、この記事の画像データのおよそ半分はパブリックドメインのものを、残りの半分ぐらいはさかおり氏がみずから足をつかって、撮影し、アップロードしたものが占めています(その他のものも少々)。

 重要な資料であってもWikipediaに掲載可能なように権利処理をしうるもの「のみ」を使って記事が構成されており、これは、下手をすると、普通に商業的な仕事をするよりも大変だと思いました。

 また、こういった歴史資料的なものを書いていくと、淡々とした記述になりがちですが、さかおり氏の記述は、Wikipediaの要綱を守りつつも、物語的な構成に歴史を記述しようという意図にあふれており、ノンフィクションの書き手としてすばらしい力量であると思われます。

 

2.(ベタだけど)Wikipediaによる協業

 

 また、この記事がWikipediaという媒体のうえで展開されたことは、記事の書き方に「しばり」をつけているだけではなく、良い影響も与えています。

 たとえば、この記事の「ノート」の部分をみてみると

ノート:地方病 (日本住血吸虫症) - Wikipedia

 さかおりさんを中心としながら色々な方が、込み入った調査をされているのがわかるかと思います。

 

3.地方病をめぐる山梨県および関係者のアーカイブ構築をめぐる努力

 

 地方病(日本住血吸虫症)についての啓蒙的な資料が、つくられたのは何もこのWikipediaの記述がはじめてだというわけでありません。

 記事中にも外部リンクがはられていますが、1959年にも「いかにも当時の啓蒙映画」っぽい、『人類の名のもとに(モノクロ30分)』というものが作られていますし、1978年にも、ドキュメンタリー作品の『地方病との斗い』という二部構成の作品が作られています。特に78年のドキュメンタリー作品の大筋はWikipediaの記事構成にけっこう近いものです。さかおりさんの凄さはもちろんとしても、先行する作品のうえに拠って立つことで成立した仕事でもあります。

 また、風土伝承館 杉浦醫院、宮入慶之助記念館 、山梨県立博物館といった博物館、記念館があることによって豊富な画像資料が展示できているものだと思いますし、小林照幸『死の貝』、林正高『寄生虫との百年戦争』、山梨地方病撲滅協力会編『地方病とのたたかい』などといった資料の存在によって可能になっているものかと思われます。

 

 

 手短ですが、本記事のビジュアルノベル化に快くご対応いただいたさかおり氏をはじめ、本Wikipedia記事の作成に関わった多くの方に感謝をさせていただきます。

 なお、本ビジュアルノベルのテキストもCC-BY SAライセンスを継承しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム』展に展示していただいております

 本日より、新国立美術館で開始となる『ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム』展ですが、こちらに#denkimeterを展示していただいております。

 http://www.nact.jp/exhibition_special/2015/magj

 …と書いたものの、私自身も予定の調整がうまくいかず内覧会には行けずじまいでして、まだ展示の現物を見ておりませんので、どなたか六本木/乃木坂にお立ち寄りの際には、見てきていただければ幸いです。
 あと、展覧会の書籍にもご掲載いただいております。

 しかし、「展覧会の準備って大変なのかなぁ」とかぼんやり思っていましたが、やはり大変ですね。展示スペースの構成を考えたり、書籍への掲載原稿やらで、けっこう何度もやりとりして、展覧会スタッフの皆様方には、いろいろとお手数をおかけしました。
 何しろ展覧会への出品などはじめてのことでしたので、いろいろと戸惑うことも多かったですが、展覧会スタッフの皆さま方を含め関係者各位に、改めて御礼申し上げます。

 

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 しかし、よく考えると、研究者の立ち位置としては自分のつくったものが展示されるとかじゃなくて、展覧会で、何がどのように展示され、どのような言説によってそれぞれの作品がポジショニングされているか、ということのほうが気になる(というか、気にすべき)ことなわけですが、展覧会のキュレーション・プロセスってなかなか複雑で、展覧会や美術展のような場所で書かれている解説の「言葉」というのが誰の言葉であるのか、というのはよくわからんものですね。

 

 

 今回の例だと、

  1. 展覧会全体のキュレーションをしていただいた方
  2. ゲーム分野のキュレーションをしていただいた方
  3. 展覧会の展示構成をまとめあげ仕上げていく管理スタッフ
  4. 展示の構成を仕上げるデザイナー
  5. 展覧会書籍の編集・ライター
  6. 展示対象作品の作者本人

 と、少なくとも6人ぐらいの作業が介在しているわけですよね。私の展示に関しては、対応する展示対象作品の作者本人が対応して書籍の文章とか、展示の構成案に直接に赤を入れたり、案をだしたりしましたが、これは私が零細企業的なものだからという特殊事情で、ほかの作品に関して言えば作者本人ではなく、アシスタントや作者付きの編集者等のスタッフがこういった展覧会などへの対応をしていると思われます。ですので、関係者はさらに増えて、全部で、8人ぐらいでしょうか。

 まあ、大企業とかが、公式に出している文書とか、お役所の文書とか、もはや「誰」の意思によって書かれたかわからない文章になっているものではありますが、展覧会の文章というのもなかなか不思議な状態にあるものだなというように感じた次第です。

 もっとも、一般的な書籍や出版物であっても、

  1. 著者本人
  2. 編集者
  3. 校正担当者(編集者が兼任することも多い)

 と、まあ、3人ぐらいで作っていて「著者本人」が書いたといえるかどうか微妙なところが0.5%~2%ぐらいあるのが普通ではありますが。

 言説分析、内容分析、テキストマイニング的な研究をするときに、テキストの性質と、こういった作者の多層性を前提に議論を組み立てるみたいな話って、誰かやってそうな気はしますが、どういう議論になってるのでしょうね。まあ、ざっくり言えば、法人格の文書と、個人の署名で書かれた文書の違いということになるのかもしれませんが、そこのところのグラデーションをめぐる議論ですわな。