Critique of Games メモと寸評

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『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』遥洋子

 書評を書いていたらamazonの規定を超える長さになってしまったので載せます。ゲームには何も関係ないですし、あまり万人に「面白いから!」とすすめるような本ではないですが。

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東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ

 数年前に話題になった、タレントの遥洋子が東大上野ゼミで経験を書いた本。あまりのり気で読んだわけではなかったのだけれども、これが意外と面白かった。この本に対する評価は、数パターンあるが、総合的にいえば色眼鏡をつけないで読んでみてよかったな、と。

 まず何よりも評価できるのは(1)
 「タレント」といういわば東大の社会学の大学院ゼミからすれば、まさしくエイリアンともいえる存在である遥洋子という存在が社会学とであったときに、それを自らのタレントとしての実生活といかに折り合いをつけながら、受容していったのか、というドキュメントとして、本書は大変に素晴らしいと思う。
 ソシュールのソの字も知らず、「ヘゲモニーって何?」というような、社会学などは同じ日本の中にいながら全くの異文化としてしか受容できなかったであろう著者が、タレントと学生との二重生活を送りながら数年間の間にこれだけの勉強をこなした、というその単純な勉強量と努力の姿勢について素直に尊敬の念を抱くだけでなく、関西の芸能界という、およそ上野ゼミのフェミニズムなどからすれば無理解、無知な信じられない世界のような場所の中にいながら、それを成し遂げている様子を書いていることが素晴らしいのだ。
 (1A)両極ともいえる二つのコミュニティの中で、常識以下のレベルで通用している倫理基盤がこれほど異なるにも関わらず、それをどのようにして折り合いを付けていくことを彼女が個人として実践していったのか。そして、そこで折り合いを付けていく過程で、著者である遥洋子は、徐々に関西の芸能界のタレントという文化の中を生きるだけの存在でもなく、だがしかし東大の上野ゼミの文化の中を生きるだけの存在でもなくなっていく。ほとんど重なることのない二つの極を同時に生きてしまった彼女は両方の文化の中でエイリアンとなり、どちらにとってもエイリアンであるというどこにも属すことのない立場を手にしてしまう。だからこそ彼女の苦悩は、彼女の苦悩としての独自の魅力を放っているし、そこまで極端でなくとも、社会学的な知を手にしながら実社会の中に偏在する偏見に対してイライラした思いを経験したことのある人にとってみれば共感可能、想像可能な苦悩の言葉だ。
 (1B)また、それは苦悩の独自性という魅力のみならず、その特殊なエイリアンとしての立場が半ば必然的に関西の芸能界という場所の特殊性と、東大の上野ゼミという場所の独自性の双方を同時にあぶりだす。
 東大上野ゼミに準じるようなコミュニティに属する者や、関西の芸能界に属する者にとってみれば、<エイリアンの目から光を当てられた自己の姿を確認する>という極めて刺激的な自己認識の経験となる。上野千鶴子本人が本書に「これは、私の知らない私です」という言葉をよせているが、おそらく本書の中で最も中心的に語られている上野当人にとってみれば、自分の知らない自分を書かれることは目をそらしがたいぐらい興味深い体験だったのではないだろうか。

 だが(2)
 議論の仕方のノウハウ本としては私はこれを支持しない。そもそもの前提からして支持することができない。(2A)「議論」の範疇を、勝負というメタファーでしか捉えていないことに対して、そして、(2B)その「勝ち負け」判定をめぐる捉え方があまりにもナイーブであるという二点に関して私は本書を支持しない。
 まず(2B)に関しては、上野も言うように、アカデミックな根拠をめぐる妥当性の論争などの、勝敗の判定基準が論者間およびその聴衆にとっても予めある程度了解された限られた場でも無い限り、その勝敗を決めるのはその議論に関わった論者およびその聴衆であると言うことできる。その立場においていかなる形が「勝ち」であるのかは、その場その場ごと、人ごとにアドホックに決定される種類のものでしかない。確かに遥洋子が提示するような議論の方法が、「勝ち」に見える状況を作りだす場合が多いことは否定しない。だが、遥洋子の提示する方法が、時には全くピントの外れた状況を生みだしかねないこともまた考慮されてよい。
 (2A)に関しても、本書はあまりにもナイーブだ。本書は「議論」という行為を「ケンカ」との延長でしか考えいない節がある*1。議論はケンカであるとは限らない。「議論」という言葉で括られた現象を捉えるモデルは様々だ。例えば「議論」をとらえるメジャーなものの一つに勝ち負けではなく、「互いの合意を形成する行為」とか「論者が互いにより妥当な結論に至るための相互協力行為」といったモデルがある。そういったモデルで「議論」を捉えているものにとってみれば、本書は「はぁ?捉え方があまりにも一面的すぎるんだけど」と一顧だにされずに終わるかもしれない*2。あらゆる観点から書くべし、というのではないが、せめて「議論」をめぐる捉え方が数種類あることを前提として、自らの観点が限界をはらんでいることを自覚して欲しいと思う。

 そして(3)
 いきなり下世話になるが、本書から濃厚に滴り落ちてくる「上野千鶴子への憧れエキス」のようなものが、強烈で面白い。上野千鶴子を高く評価している人間は多くいるが、その多くは2chで言われるような「信者」であるわけではない。私は、プライベートの上野千鶴子はちょっと…という感じだし、著者のような信仰の感覚とは程遠い。それは学者としての上野への評価とは別問題として「気が合いそうかどうか」「個人的に好きになれそうかどうか」とかそういうレベルの話としてだ。
 だが、著者の上野を語る口調は、「神様との食事会」「神様に…」という表現を恥ずかしげもなく用いる。もちろん、それは文章の上での比喩としての「神様」ではあるのだが、だとしても、著者の上野信仰はあまりにも眩しい。何といったらいいのだろうか。教会の中で、信者と神との邂逅の風景―――神におそるおそる告白する信者と、それに暴力的に教え正す神の姿が展開される情景を描いているような。芸能界と東大上野ゼミという両極が接触したときに、東大の中にいきなり宗教的空間が発生してしまったのを見ているような感触だ。その異様な風景に、「なんじゃこりゃ」と立ち止まり思わずまじまじと見入ってしまう。

 最後に(4)
 本書は上野千鶴子ゼミで勉強したフェミニズム関連の記事についても多くのページが割かれており、フェミニズムのお勉強本としても機能するだろう。もっとも、その紹介は整理されて提示されているとは言いがたく、はじめは日常語ばかりでがんばっていたのに、後半になるにつれて言葉が一般読者向けではなくなってしまっていったり、雑多な問題意識や論点が不安げに並べられている風景を指して「未熟」ということもできるだろう。人文・社会科学系の教養のない読者はもしかすると後半になって読むのをあきらめた人もいるかもしれない。だが、その雑然としたした文章こそが彼女自身の苦心した感触が生々しく伝わってきて素敵だった。

*1:あるいは、書籍として流通させるためのマーケッティング的な戦略としてそのような短絡的ともいえるわかりやすさを採用したのかもしれないが。

*2:私はそれで本書を敬遠していた。