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Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

ZOEさんのコメントについて(1) 

ビデオゲーム

>「名作ゲームとは面白いゲームではなく良いゲームのことだ」

 この指摘から言いたいことを類推するに

  1. 「面白さ」が「良さ」の全てではない、ということ。「面白さ」は「良さ」の部分集合に過ぎない
  2. 「面白さ」という一般的な基準とは別途に、ゲームというメディア独自の「良さ」を見出せるのではないか。

 という二つの方向性を想像しました。前者は、わかりやすぎて面白くないので、後者のセンで勝手に妄想して応答してみます。(笑)

 後者の指摘だった場合、何が面白いのか、というと「ゲームメディア独自の良さ」なるものを抽出しようというある種のゲーム原理主義みたいな方向性ですね。「面白さ」というようなゲームを測る際のとても一般的な基準をシャットアウトしてしまって「ゲームメディアそれ自体」の自立的な「良さ」を想起するとすればどのようなことになるのか。

 強引に想像してみると、ゲーム=フォルマリズム*1のようなものを想定しているのかな、と。*2こういったゲーム原理主義って今までにもあるにはありましたが、「面白さ」を取り込むのではなく、排除してしまおうという方向までつきすすむとなるととても珍しいものになります。
 
 さて、どんどんとZOEさんの議論からはずれていき、勝手に話を展開させてしまいますが、「優良なゲーム」をめぐる議論はこのような「ゲームというメディア独自の価値」とそれ以外の「良さ」の基準――例えば「面白さ」でもいいし「社会的な道徳性」といった点でもいいですが――それらとの対にして考えたとき、これは古典的な議論へとつながるかもな、と思いました。*3

 じっさい詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考えかたは、ふるくからある。すでにプラトンは、詩や絵画といった模倣の術は、もともと真実在であるイデアの写しでしかないわれわれ人間の経験世界を、もういちど影像として写しとることで、真理をゆがめいつわる仮象として、これを断罪した。これに対してアリストテレスは、人間には模倣をよろこぶ本能がそなわってえおり、しかもこのよろこびは、模倣をつうじて、それが模倣している現実のものがそもそもなんであるかを推論するという、人間に固有の知と認識のよろこびに由来するとして、模倣の術の価値を、現実認識の真理性にもとめる。ヘシオドスは、「われら、ほんとうらしい多くのいつわりをあまた語るを得、はまたまねがわくば、真実を語るを得」というムーサイの言葉をつたえているし、また詩のもつ認識機能の教育的効果については、ホラティウスが、すぐれた詩人は「快楽と有用をいっしょにして、読者を楽しませ、同時に教えをあたえる」と述べている
 このような考えかたは、近代において、芸術がそれまで社会に対してはたしてきた宗教的・共同体的、イデオロギー的効用から独立に、それに固有の価値を主張しはじめたとき、いっそう純粋なかたちで強調されることになる。というのも、すでに見たように、「美しい芸術」というあたらしい概念が、まずは美的な快楽をその共通項として成立したにせよ、それだけでは、これまでの社会的効用に取ってかわる自己主張としては不十分だからである。フランス古典主義による「有用の快楽」説も、このような文脈における自己弁明であった。それがドイツ・ロマン派および観念論による精神の美学のなかで体系化されて、芸術は人間精神による真理把握の特権的な一領域となる。
 現代のわれわれもまた、いぜんとしてこの伝統にたっている。
(西村清和『現代アートの哲学』P74)

 さて、ここで、もう一度振り返って東京都の認定基準を見てみましょう。

>(1)社会の良識と倫理観念のかん養に役立つもの
>(2)正しい知識と教養を深めるもの
>(3)人間的愛情を豊かに育てるもの
>(4)美に対する感覚を洗練し、豊かに育てるもの
>(5)健全な娯楽作品として優れたもの
>(6)思考力、批判力又は観察力を養うもの
>(7)前各号のほか健全な心身の成長に役立ち、福祉の向上に資するもの

 すると、この基準はいかにも西村清和の言うところの「近代」の「伝統」にたっているような気がしてきます。
 (4)や(5)あたりは「美」あるいは「娯楽」といった独自性の範疇ですが、(1)(2)(3)(6)(7)あたりは社会的・道徳的価値であったものが芸術の中にゴリッと融合してしまってる感じですね。

(だからなんだ、という話ではありますが)

*1:フォルマリズム:「1910 年代半ばから 20 年代末にかけてロシアの若手研究者や言語学者を中心に展開された文学運動。…(略)… 〈文学ではなくて,文学性,つまりある作品をして文学作品たらしめているもの〉こそ文学研究の対象とすべきであると主張した。…(略)…彼らは,それまでの文学研究が文化史や社会史,あるいは心理学や哲学に依拠していることを批判するとともに,文学作品を自立した言語世界としてとらえ,言語表現の方法と構造の面から文学作品を解明しようとした。すなわち,〈何が〉書かれているかではなく, 〈いかに〉書かれているかがまず問題とされた。シクロフスキーの言を借りれば,芸術の目的は事物を異化・非日常化することにあり,知覚を困難にし長びかせるのが芸術の手法である。すなわち〈手法こそが唯一の主人公〉であった。」(平凡社、世界大百科事典より引用)

*2:あ、でも「科学的・理論的にゲームの評価を誤解無く行うことは不可能だと思っている」とおっしゃっているので、そういうことはないのか。

*3:普通は、「面白さ」をシャットアウトしてまで「ゲームそれ自体の良さ」を主張するという方向性は稀有なのでこんなところにつながったりしないのですが