Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

リアル・タイム・マシーン展行ってきました。

 そんなわけで、四日の月曜にid:dotimpactさんの個展「リアルタイムマシーン」展に行ってまいりました


Real-Time-Machine for Arcade


 コントローラー一個で、ゼビウスの基盤二枚に指令を出し、別々のディスプレイで動作がわかるという代物。本当は同じゲームのはずなのに、コントローラーから出される指令のズレが蓄積してゆき、次第に双方の動きを別々に統制することが必要とされてくる。だけれども、脳みそを二つに分割することのできないプレイヤーは、チュドーン、と2,3分ぐらいでおっちんでしまう。


Real-Time-Machine for TVgame


 こちらも、コントローラー一個で複数のRomに指令を出すという代物だが、こっちの場合は、意図的に時間が1/60〜2/60秒フレームずつぐらいずらされており、コントローラーから一番遠くにあるモニターに映し出されるマリオはコントローラーの動きに対してほとんど遅延なく動作するが、プレイヤーが見つめるコントローラーの近傍にあるモニターでは、コントローラーからの操作の入力とディスプレイへの出力が、0.1秒〜0.2秒程度の遅れを演出する。
 外付けTVチューナーを持っている人はわかるかもしれないが、ちょうどTVチューナーにステレオケーブルをつないでゲームをやろうとしたときに生じる遅延がちょうどこんな感じである。アクションゲームはおろか、ほんの0.1秒や0.2秒といった遅れによってRPGすらまともにプレイすることができない。


PONGed


 目に映る見え方としては、プロジェクターによって隣室に対戦相手のフィールドがうつしだされ、それと対戦しようとしているだけなのだけれども、部屋と部屋をまたいで球が打ち返されてくる間の処理には、実は地球の裏側あたりにある複数のサーバーが経由されている。
 サーバーA、サーバーB、サーバーCを経由した球が2つ、3つと同時に打ち返され、「地球」という物理的空間を介した「リアルタイム」の限界が、狭い空間のモニター上に顕在化する形で提示されるという仕組み。


 「リアルタイム」概念について何か書こうかと思って検索してみましたが、とりあえず「リアルタイム」でざらっと検索してみて、リアルタイム風呂沸かしゲーム「風呂」を考えた人は神だと思いました。

ゲーム中の時間はすべてリアルタイムで進み、浴槽に水をいっぱいにためるには本当に30分以上待たなければならない。お湯を沸かすのも、約20分ほど必要だ。操作は「水を入れる/止める」「湯を沸かす/止める」のみといたってシンプル。根気よくやればクリアは簡単だ。


↓以下、感想など。

というのはさておき、もう少しちゃんと書きます。

(↓以下3日後。つまり7月8日に追記)

 「もう少しちゃんと書きます」などと書きかけで放置してから、数日が経過してしまいました。

 しかも、待ってくださったみなさんには申し訳ないのですが、「もう少しちゃんと」などと言っているほどにヒマな時間が再来週ぐらいまで、あんまりないことが発覚してしまい、とりあえず何を書こうとしていたのかをメモ書き程度に記しておきます。*1

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 id:dotimpactさんが、言わんとしているように<リアルタイム>というのはhttp://www.atmarkit.co.jp/flinux/embedded/rtos01/rtos01a.html とかによれば、「レイテンシ(遅延)」「デッドライン」「ソフトリアルタイム」「ハードリアルタイム」みたいな様々な道具たてを媒介にしてできあがっている人工概念であって、我々にとって一見すると自明すぎるがゆえに問われることがほとんどないような「リアルタイム」という「時間」が人工的にデザインされているっていうことを、dotimpactさんの今回の試みは改めて気づかせてくれた。

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 <PC/ゲームの中の時間>というのが、<PC/ゲームの中ではない現実>の時間と比較される中で、その「リアル」概念が形作られているよーな感じもすばらしい。dotimpactさんいわく「<雷の光>(ピカピカッ!)に対する<雷の音>(ドッドーン!)の遅延が許容されて、ゲームにおける<時間>が許容されないのはなぜなのか」みたいな話ももっともで、ベタな話だけれども、人型ロボットが「人間になりたい」などという話がくだらないというのと同じような意味*2で、「PC/ゲームにおける時間」を「自然の時間」の劣化コピーとして捉えようとしてしか捉えられない価値感はもっと相対的に捉えられていいのかもしれない。

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 で、なにゆえにdotimpactさんは「リアルタイム・マシーン」と題して「遅延」というものを前面に押し出してきたのか、というと、それはたぶん人工的に形作られ、人力の努力に支えられて発達してきた「リアルタイム」概念のそのような性質をもっともあらわに、わかりやすく見せつけるのが「遅延」なのだ!…たぶん!
 それはたとえば、リアルタイムの定義「(コンピューターのOSの場合)一定時間以内に処理を終了させることができる性質のこと。」(Byはてなキーワード)というような言い方があらわすように、「リアルタイム」の成否は、「遅延」の成否によって測定されるという性質を持っているからなのだ!…たぶん!

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 ということを含めて、ゲームの話にもって行きたかったわけですが…いまひとつゲームの話とじかに接続する方向性をあんまり思いつかず放置。なお、意味不明に掲載だけしておいた右の画像は、昭和54年10月30日発行『マイコンプログラム全集1』(電波新聞社)の目次ページです。「リアルタイム」ネタですぐに思いついたのがこれだったわけですが、これ、1979年の段階で*3便宜的にゲームジャンルを分類しているもので、「反射神経ゲーム」(おそらく、今で言うアクションゲーム)の下位ジャンルとして「リアルタイムゲーム」という位置づけで「もぐらたたき」「ブロック崩し」といったものが紹介されております。その下位ジャンルがどういう基準で設定されているのかは正直よくわからんのですが、まあ、こんな昔から「リアルタイム」という概念がゲーム界隈でなかなか意味不明な雰囲気で使われており、わけはわからんが面白いかもね。と。

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 なんて、うだうだしていたら、id:ABAさんがすっごいまとめてるYO!↓

遅延を活かしたゲーム、実はたくさんあった

 この話も面白いけれども個人的に、今回のdotimpactさんの試行にフィットする話はシューティングゲームの「処理落ち」を利用してプレイヤーの技術向上を錯覚させるような部分の技術とかかな、とちょっと思った。
 たとえば、「退場させられたゲーム」さんのところの『怒首領蜂』評

怒首領蜂では、通常のシューティングを遙かに凌ぐ量の弾が画面上を覆い尽くす。しかしこの弾はスピードが非常に遅く、これも計算か弾がダンゴ状に重なり合うこともあまりなく、実際避けるのはさほど困難ではない。プレイヤはこの弾幕を避けることに恍惚を覚える。

 ここで言われているように、処理落ちによる錯覚によって『怒首領蜂』ゲームの中の時間のリアリティが、モニターの外側でゲームに接するプレイヤーの意識を逆転して支配し始めている。これはたとえば、あからさまに『マトリックス』ばりのスローモードを実現してみせた『ビューティフルジョー』すらこの境地には追いついていなくって*4、処理落ちがあったのかなかったのか、その明確な境界線の不在こそがかえって「現実の時間 > ゲームの時間」ではなく、「ゲームの時間 > 現実の時間」みたいな逆転を演出するのに一役買ってるよね、っていう。*5

 だいたい、こんな感じで。

*1:ってか、このブログのタイトルはそもそも「メモと寸評」なんだった。忘れておりました。

*2:「人型ロボットが常に人間にあこがれる」などという発想は、それってあまりに素朴な人間中心主義じゃない?というような意味で。

*3:http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050412#p1 でも書いたように、「アクション」とかそういったジャンル分類の名前がゲーム誌レベルで急速に普及しはじめる1983年以前のもの。

*4:「ゲームの中の時間のリアリティが、モニターの外側でゲームに接するプレイヤーの意識を逆転して支配し始める」という観点から言えば、ということです。

*5:ビューティフルジョー』の場合、<通常速度>と<スロー速度>の間に明確な境界線が存在するというだけでなく、両者の切り替えはプレイヤーによって操作可能なものとして成立している。それゆえに、ゲームの中の時間に対する支配はどこまでいってもほとんど絶対的と言っていいぐらいににプレイヤーの側の意思に委ねられている。そのような「明確な境界」と「操作可能性」との間で、時間はコスティキャン的の言葉でいえば「資源」として常に意識されてゆくことになる。そのような「資源」としての時間ではないような「時間」を成立させている、という点でいえば『ICO』とかなんかもこの話の行き着く先として面白いかも。