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Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

「死の表現」をめぐって#02

ビデオゲーム 漫画 映画

1.『人間ども集まれ!』

人間ども集まれ!

 テンパりつつも逃避する井上です。
 9日の研究会関連の話題で。死の表現に関するネタとして人とだべっていて、「手塚は死のリアリズムにむきあっていた、とかって話があるけど、手塚にとっての<死の表象>つっても実は手塚ってダークな死の欲望というか、なんか、人間狩りとかそういう死の話を書くのが大好きな人でもあるよね」とかそういう話を今日の晩飯くいながらしてました。
 そんなわけで以下、晩飯での話+ちょっと発展版。

 手塚の死の表現に関して話すとそれこそ、死ぬほどネタがあると思うんですが、話していた人は順当に『ブラック・ジャック』とかがいいよねと。ぼくが特に思い出したのは、手塚中期の傑作『人間ども集まれ!』。
 なぜに『人間ども集まれ!』がいいのかというと、あれって性の話でもあると同時に、死の話でもあって、大量にひとが死んだりするのをガンガン描く話なんですよね。手塚にとって、差別と人間狩りみたいな話を書いた比較的初期の傑作と言う点では『ロック冒険記』とかもすばらしいといえばすばらしくって、『ロック冒険記』は、「鳥人間」という亜人種の宇宙人をガンガン殺して奴隷化して狩っていく話なんですよ。だけれどもあそこで描かれる人間狩りの問題というは、どちらかといえばアウシュビッツ的な記憶の再生産に近い。差別という問題の枠組みの中で描かれる悲劇の問題だと思うわけです。だけれども、『人間ども集まれ!』における「人間狩り」の問題が決定的に新しいと思えるのは、そこで「戦争ゲーム」というものをイベントとして興行してしまおうという話が盛り込まれていることなんですね。
 この作品中で語られる「戦争ゲーム」というのはネタとしては本当にいまでも斬新だと思うのですが、たしかにそもそもは、亜人種に対する差別問題と言うのを発端にはしています。だけれども、ここでは「人間狩り」の問題が単に差別の問題じゃなくて、快楽の問題として提示もされるわけです。それは、「戦争ゲーム」イベントの興行屋の書いていたパンフレットか何かにでてくるんですけれども、「戦争こそが最大の娯楽なんだ」というようなことをものすごく自覚的に言って見せる。悪魔のような所業をなす興行屋がそういうことを言うわけです。そこでは、それこそ「リアルな死」があり、同時に「数字的にカウントされていく死」もあり、「快楽としての殺人」も全部一挙に混在しているんだ、と。
 で、そうした、「死」のありようを「娯楽」として眼差す視線が世界には強力に成立しうるんだ、ということを手塚は示すわけです。リアルな戦争のゲームを、「イベント」として開催されうるのではないかという想像力を提示して見せることで、単に死がリアルであるとか、リアルでないとかゲーム的である云々という批判とはまったく別の水準において、われわれは人の「死」をめぐる事態を娯楽として楽しんでしまうのだという、死と快楽の問題をものすごく明瞭に提示してみせる。
 それはもちろん単純には肯定できるようなものではないけれども、逃れられないものである、として提示してみせる。

 そんなわけで手塚の「死」をめぐる表象はブラックジャック的に、(こんなことを言ったら叱られるかもしれないけれど)、ある意味ベタに、死をめぐる倫理を扱うような方向性を描く。それと同時に、「死」をめぐる倫理が決定的に崩壊する世界も描く。手塚が「死のリアリズムを描いていた作家だ」という言うとき、それは手塚が、個人個人の換えがたい生命を丁寧に描く作家だという意味での「死のリアリズムを描く作家だ」というような議論は、非常に一面的なものでしかなくて、「個人の死のリアリティというものが失われるリアリティがありうる」ということを描くことについての情熱を持つ人だったという意味において、手塚の描く死のリアリズムとはリアルだったのだと思います。そして、それが十全によく描かれているのが『人間ども集まれ!』という作品だったのではなかろうか、と。

2.『City of God』

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 そういえば、これに似た話として、おととしから僕がものすごくプッシュしている『City of God』というリオデジャネイロのスラム街という社会を描く話があるんですが、同じくブラジルのスラム街的なものの延長にあるブラジルの刑務所を描いた『カランジル』という映画をみました。『カランジル』は一人一人の囚人の生き様を丁寧に描いて、それが大量虐殺されたという実話(?)を描く話でテーマ自体は大変に重い話だったのですが、『City of God』と比べると別にこれといって、「いい」思えなかったも同じ理由であるような気がします。
 死の表象というのが、単に個々人の尊厳をリアルに描いたものであってもそれはものすごく不謹慎な言い方になるけれども、「ベタ」といえばベタで、実はそういう死はもう描かれすぎてきたといってもいい。『City of God』がすばらしさを僕は前に「『蠅の王』の実話版」という言葉でいっていたのですけれども、それは何かといえばまさに死の固有性のリアリティが崩れる世界を説得力をもって描いていたことです。
 そこでは実は人種差別だとかそういうタイプのありがちな道具立てすらない。僕らは人種差別とか、そういうものはとりあえず捨て去った―――とか、そういうことになっているけれども、そういう典型的な種類の「人間」を「非人間」として扱う概念装置である「差別」とか「戦争」とかというものから逃げ去ったとしても、まだ。それでもまだ、固有の死のリアリティとかいう言葉で呼んでいるものが崩壊する瞬間を迎えてしまいうる世界がある。それは圧倒的な日常の中にある。
 そういう形の恐怖を、まさに現在のブラジルのスラム街という場所から描きえていたという点において『City of God』は圧倒的に傑作だったと僕は思っているのだと思います。

3.ゲームにおける「人間」の「非人間」化装置の問題

エースコンバット04 シャッタードスカイ PlayStation 2 the Best

 で、これまで描いてきた話は人間であるはずのものが、非人間化されて死が快楽として機能してしまったりする瞬間があるよね、と。だいたいそんな話でした。*1
 「人間が、非人間化される」という世界。
 これはでも、一般的な小説とか映画の物語の世界だとこれを描くことが一つの重大なテーマになりえたりするわけですが、ゲームだとこの話は実は逆転してしまう。

 なぜか。

 理由は明確で、はじめからゲームにおいてはNPCとかモンスターというのは、ものすごく非人間的なものとして配置されているからですね。別にそれを殺すことにためらいを覚えるゲームプレイヤーはものすごく少ない。だけれども、だからこそ、逆説的にここで問題になるのはものすごくベタな固有の死を描くということになるのかもしれません。
 つまり、小説や映画においては「人間の非人間化という恐怖」を、人間的なものが非人間的なものになってしまう瞬間を描くことで表現する。だけれども、ゲームにおいてはそもそも登場するキャラクターたちは、はじめからものすごく非人間的な存在として成立している。だからこそ、ここで必要とされるのは、はじめから非人間的なものを非人間的なものとして描いてもどうしようもないので、「非人間的なはずのものが人間的なものに思える瞬間」を描くことになってくるのかもしれないな、と。
 たとえば、それは茂内さんじゃないけれど、やっぱり『ACE COMBAT04』のラストとかがものすごく秀逸で、あれはまさにそういうものなんですよね。それまでほぼ完全に非人間的なものであったはずの敵の戦闘機が、いきなり人間的なものとして現出してくる。
 そこにおいてはじめてプレイヤーは自らが残虐な虐殺者であったことを認知しうる。自分のみつめる世界における人間と非人間的なものとの境界が極めてあやうげにうつろうものであることを自覚する可能性がそこで与えられる。

 もちろん、こういうことを言うと暴論だという言う人がいるのかもしれない。

 それはたとえば次のようなことだと思います。同じエースコンバットについて話せば、「『ACE COMBAT03』をみてくれ」と。「『ACE COMBAT03』は最初から複数の人間をちゃんと描いていって、それが死ぬ話じゃないか。」と。人間ははじめから非人間的ものとして登場するのじゃなくて、ちゃんと人間の面をしてるじゃないか、と。あるいは、エースコンバットじゃなくてもいい。最初から敵がきちんとした人間の顔をかぶっているものなら別になんだっていいと思います。

 でもこういう反論は本当にそうなのだろうか、と。いうことも同時に思うわけです。

 具体的に言うと、はじめから人間の顔をかぶっているゲームこそ、次第に相手が人間であるということに頓着しなくなってくるのではないか、と。ゲームの中の人間が何度でも生き返ることがわかってるし、相手が人間である、というのは<物語設定>上の問題であって、戦闘中に相手に一撃をくらわせたりすることはまったく問題ないんじゃないか、と。次第にそういう感覚が蔓延してきて<物語設定>の問題と、戦闘行為との問題の分離というのがただ単に横たわるだけになってしまう。*2

 コンピュータ・ゲームというのはこうした形でものすごく人間を、非人間的な水準で扱いつつもそれを解離的にどうにかしてしまうような、きわめてややこしい装置になってます。僕が話したいことはこの解離的な状況というのがいいか/わるいかという問題ではなく、こういう先に挙げた『人間ども集まれ!』とか『City of God』のような意味での死の恐怖を書きうるならば、それはどのようなものなのだろうか、と。
 そういう話なのかなー。と。これを書きつつ。

 いま手元に用意してるのは、べつの話なんだけど…

 4月9日の研究会はこんな感じの話になるかどうかわかりませんが、とりあえず、興味のあるかたは申し込みしてウェルカム。

*1:もう少し正確にいったら、ほんとは、人間的な死が非人間的なものに変わってるから、殺人が快楽になるんじゃなくて、人間的な死が人間的な死であるからこそ殺人は快楽なのかもしれないけれど、その話にまで言及すると、話の軸がブレそうなのでやめます

*2:でもまー、こういう話をいいはじめると、ACE04だって似たようなもんだという、ところがないでもない。ややこしー。この感覚の分離の問題は、9日の研究会でとりあげます。あと前に書いたhttp://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050717#p1とか参照