Critique of Games メモと寸評

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遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるのだろうか―

 モバイル社会研究所刊行、『Mobile Society Review 未来心理 vol13 遊びのパラドクス』(http://www.moba-ken.jp/theme/msr)にて、「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるのだろうか―」を書きました。冊子版はどうやって手に入れるのかよくわからないのですが…たぶん、もうそろそろウェブ上で、pdf公開がされるかと思います。
 他のみなさんの記事を読んだら、きちんとみなさんモバイルに絡めて書いているのに、ぼくはなんだか、一人で書きたいこと書いてしまったようで、ちょっと反省。
 まだ、きちんと読んでませんけど、松田恵示先生の原稿がけっこう面白かったです。西村清和の議論を、特に「時間性」の連鎖の問題として読み直した上で、読む行為を「意味」と名付け、テレビゲームのプレイを「反応」として、「意味」とは別の領域の現象として記述しましょう、と。
 「反応」と「意味」との差異をどう記述可能か、というのがぼくの最近の悩みの一つなので、問題意識が共通するようなところもあり。

#2008/10/02 PDFが公開されました。
http://www.moba-ken.jp/theme/msr/msr_cover/msr_013

2008/12/09 追記メモ

 いくつかいただいた突っ込みについて。
 自分脳内言語で答えます。突っ込んでいただいた方の読解能力の高さに勝手に期待。ごめんなさい。

1.にらめっこの訓練可能性

 俳優などの自己の対他者イメージ制御を日常的に、強烈にやっている人々だとぜんぜん違うのではないか、とのお言葉をいただいた。
 その通りだと思う。そういう人たちが社会のマジョリティになったら、議論を撤回する必要は在ると思う。でも、いまのところマジョリティじゃないだろうと思うので許してほしいところ。

2.アーキテクチャ概念の定義がよくわからん

 あー、これは、正直すまんかった感じです。
 文章内では、プレイステーションのコントローラーとか、プログラムとか、そういった形の外部の物理的なモノの形式に焼き付いた形で存在しているものだと思ってもらってけっこうです。
 「Ruleなどといった形のものは、内的な認知プロセスに当初あるわけでもなく、物理的なモノの中にあるのでもないじゃん」との指摘をいただきましたが、それはまったく正しい指摘。当初は、物理的なモノと、individualな認知の間の中に立ち上がる中間的なものではあります。それは、在ると信じられることによって在るというようなタイプのものですわ。間主観的な形で存在するRuleの問題と、code(レッシグ)の問題は別。
 で、どっちかというと、「アーキテクチャ」として私が名付けていたのは、間主観的なRuleの問題ではなく、code(レッシグ)的な意味です。

3.「普段やっていたことの外側に出ること、適応から離れること」というのは物語と類似の現象では

 あー、いや、そこは今回は踏み込まなかったけど。それは違うと思っている。
 まず、物語と遊びでなくて、物語とゲームの違いについて書いておくと、両者は、共に因果的な解釈を通して成立する情報形式である、という点において両者は共通すると思ってる。
 でも、物語という概念が、「単一の時間」観の中に成立するものであるとすれば、ゲームという概念は「繰り返しの時間」観の中に成立する。

 で、「物語」を日常的予測から一歩出ることをもって「物語」というのであれば、それは、僕の中の概念で言うと「物語のおもしろさ」のことであって、「物語」のことではない。物語、というのは単に「複数の事柄を単一の時間軸の中で因果的に解釈する情報処理形式」のことだと思っている。情報処理形式の中にはおもしろいものもあれば、おもしろくないものもある。で、おもしろさのあり方が、日常的予測の範疇から出ることを指すのであれば、それは、「物語」のことではなくて、物語のおもしろさのことであると思う。おもしろい物語を「物語を遊ぶこと」と言うのは可能だと思う。でも、遊びは物語ではないと思う。

参照:西田谷 洋『認知物語論とは何か?』

#2010/10/02 追記:この問題についての暫定的な回答につながる話としては、『Planets' vol.7』http://wakusei2nd.com/?page_id=19 のうしろのほうに「ゲームと物語のスイッチ」というDQN原稿を書きましたので、ご興味の在る方はお読みください。

4.対応する言葉の問題はなぜ二次的なのか

 正確に言うと、「この原稿においては、いったん二次的なものとして扱って論をすすめます。そこはこの論の主目的ではないので」ということになります。対応する言葉の問題が<常に>二次的だ、などと言ってしまったらそれは確かにDQNだと思いますし、それは本旨ではございません。言葉の問題こそが、もっとも重要な、中央なハブとして機能するシステムになることもあれば、そうでないこともある。…というあたりで、ご納得いただければ。

5.カイヨワのルドゥスとパイディアの記述がいい加減

 すみません…。
 いや「間違いではない」と言い張れる程度の記述はしたつもりですが、間違った解釈を与えうる程度の記述にはなっていたかもしれません。。。
 ルドゥスとパイディアの概念は、国内だと言及する人が少ないので誤解されやすいですが、ルドゥスとパイディアという対比こそがカイヨワの考えた概念系の中でもかなりイケてる二項だ、とはぼくもおもっています。

6.二つのシステムが作動…あたりがさっぱりわからんかった

 1.プレイヤーの心的システム
 2.モノというシステム

 の二つの間が相互作用するよね、というはなし。
 モノがシステムというのはわかりにくいかもしれない。。。
 「ブランコ」や「シーソー」も一つのシステムだし、プレイヤーの心的処理システムは疑いようもなく一つのシステムなわけで、それが相互に作用するよね、と。
 で、ついでに、わかりにくかったかもしれないであろうところを書いておくと、モノのレベルで「ゲーム」と思われているモノと、プレイヤーの現象としてのレベルで「ゲームだと感じる」ということの両者を区分けして論じたかった、ということなのですよ。で、両者はまったく無関係かというと、そうではなくて、一方が一方のあり方に影響をあたえることで、ゲームでないモノ(たとえば、本棚)が「ゲーム」の対象として見いだされることもある。し、一方で「ゲームであるはずのもの」(たとえば、ドラクエ)が、ゲームとして感じられなくなってしまうこともある。
 また、さらに言えば、対象/環境/アーキテクチャ自体が、人の心に働きかけて、ゲームをさせるような装置もある。それは例えば、マリオのチュートリアル/レベルデザインのような技術なわけです。それは、2006年6月にユリイカで僕がかいた話と同様。

7.その他記述がわかりにくいところの諸々

 建設的な誤解をいろいろとしていただいたようで、それはそれで、おもしろい誤解だと思ったのでノーコメントで