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Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

ジットレイン話の続き。この人は汎用品信者なんじゃ疑惑。

book


 ちなみに、さっきのジットレインの「生みだす力」のツールの例は、ゲーム/おもちゃ以外には次のようなものが挙げられている。












生みだす力が強い例生みだす力が弱い例
工具/建築ダクトテープ、金づちアンカーボルト、携帯用削岩機携帯用削岩機は解体作業で絶大な威力を発揮するが、それ以外の用途にはまず使えない。これに対して金づちはさまざまな用途に使える。順応性とアクセシビリティが高いほか、習熟性にも優れている。
四角いタオル模様タオル四角いタイルは、色違いのものを並べてさまざまなパターンが生みだせる。特殊な色と形をした模様タイルは、一定の組み合わせしかできない。
塗料転写印刷
キッチン用品ナイフポテト用ピーラーこのようなピーラーは作られた目的の食べ物にしか使えない。それに対してナイフは皮をむく以外にも使える柔軟性を持つとともに、料理以外にも使える順応性を備えている。
電気コンロポップアップ式トースターポップアップ式トースターは一般にパン焼き専用である。電気コンロはパンも焼けるし、その他の食品を加熱することもできる。
ヤカンコーヒーメーカーポッドと呼ばれるコーヒーマシンは消耗品もメーカー指定のものしか使えない。一般的なコーヒーメーカーもコーヒーしか淹れられない。それに対してヤカンはお湯をわかし、さまざまな種類の温かい飲み物を作ったり、オートミールやスープなどの食べ物に使ったりすることができる。
スポーツダンベルトレーニングマシントレーニングマシンは高価なものが多く、アクセシビリティが低い。一台のマシンで行える運動もマシンによって規定される。これに対してダンベルは組み合わせてさまざまな負荷の運動が行える。ただし、トレーニングマシンの方が安全であるし、特に初心者にとっては抵抗感が少ないと思われる。
料理/食べ物"ウォッカ
米、塩"
"ワインクーラー
スシ"
スシの方が高価であるため、アクセシビリティが低い。米と塩は主食であり、さまざまな料理と組み合わせて食べることができる。
コーン電子レンジ用ポップコーン


2chふうに表現すると、つまり

  • ナイフ>>>>>(超えられない壁)>>>>ピーラー
  • ヤカン>>>>>(超えられない壁)>>>>コーヒーメーカー
  • ダンベル>>>>>(超えられない壁)>>>>トレーニングマシン


 とかって、アナタ、どんだけ汎用品マンセーなんだって。


 ゲーマー的に言うと、この超絶汎用品マンセー的な姿勢っていうのは、けっこう微妙な話をはらんでいる。ジットレインの話だと、単なる紙とペンのほうが、塗る絵帳よりも、「生成力に優れた」ツールだ、ということになるわけだけれども、ツールの段階的デザイン・習熟速度の高い初歩的ツール、としては実は汎用品なんかよりも、専用品のほうがよっぽど使いやすくて、わかりやすい場合が多い。ここは、けっこうトレードオフ構造をはらみやすい。

 これについては最近読んだものから孫引きしてくると、佐伯胖が〈使いやすさ〉(=オハシ型)と〈わかりやすさ〉(=ナイフ・フォーク型)のトレードオフとして、まとめている。*1

 佐伯(佐伯1992a)は、わたしたちがインタフェースについて望むものには、〈オハシ型〉と〈ナイフ・フォーク型〉があるのではないかという問いを立てる。オハシ型/ナイフ・フォーク型というのは、もちろん食事をする時に使われる道具における代表的な二つのものである。では佐伯はそこに何を代表させているのか。それは、〈使いやすさ〉(=オハシ型)と〈わかりやすさ〉(=ナイフ・フォーク型)である。日本人にとって、オハシは明らかに使いやすいものであろう。オハシさえあれば、煮付けた大根を切ることもできれば、炊いたごはんを掴むこともできる。肉に向かって突き刺すような使い方もできる。しかし、「肉をキレイに切り分ける」や「アイスクリームを丁寧にすくい上げる」といった高度な動作までは保証しない。

 それに対して、豪華レストランのテーブルに並べられた多種多様なナイフとフォークは、習熟コストがかかる、複雑なものである。しかし、ひとたび覚えてさえしまえば、「まずどんなことをやってもできないことはない」ようなものになる。レストランのマナーをじっくりと学べば、長期的にはモトが取れるだろうという発想がここでは可能だ。


 もちろん、ジットレインは、汎用品と、習熟のしやすさが別々の指標として重要である、という視点には気づいているのだろうが、この人の文脈だと、習熟のしやすさ、よりもツールの汎用性のほうがだいぶ強く重み付けされているような印象を受ける。ここらへんは、洋ゲーマーが「ルナティック・ドーン最高!Oblivion最強!JRPGとか、カス!」とか言ってるような文脈に近い印象を受ける(笑)。


 また、特にコンピュータ・ゲームの、典型的な作り方として、Sandboxタイプのゲームを作るにせよ、当初のゲームのゴール設定みたいなことをやる、というのは常套手段だ。ゲームというのは、多くの場合、「ゲームである」ということそれ自体が、道具の使い方の状況設定をもつ。コスティキャン的に言えば、これがゲームgameとおもちゃtoyの違いだということになる。「おもちゃ」はそれを使用する目的を明確に与えられたとたんにgameになる、という。ジットレインの区分だと、toyの生成力の高さは認めても、toyをgameとしてあつかったとたんに、それは生成力が「低い」ということになってしまう。


 だけれどもgameという、状況を与えられるということは、ツールや状況へのコミットメントをブーストするという点において極めて大きな意味をもっている。ゲームとしての明確な構造を与えられれば与えられるほどに、ゲームへのコミットメントのしやすさは、上昇していく。明確なルール/フィードバック/努力可能な範囲の段階的な拡張…こういった、ゲームプレイヤーの状況に対する動機付けをうまく与える仕掛けは、道具の中に秘められた豊かさみたいなものを大きく花開かせることに貢献する。

 たとえば、単に「ナイフ」を与えられて「さぁ、使いなさい」と言われるよりも、「ナイフ」を与えられたあとに、よくデザインされたアナログゲームで、リンゴの皮むきから、千切り、輪切り、みじん切りといった使い方を覚えるチャンスを的確に与えられたプレイヤーのほうが、「ナイフ」に関わる微細な感覚を習得していく速度は極めてはやいだろう。ゲームとはそういうものなのだ。

 gameである、ということは、toyである、ということと大きく隔たっている。gameである、ということをいかに構築できるか、によって「生みだす力」のアーキテクチャの議論はまったく違う側面を見せることになる。


 そんなわけで、ジットレインは、「ゲーム」というものをわかってないなー、もー。ということを思ってしまったわけだけれども、こういう話は日本語圏では、すでに濱野くんとかが、ニコ動とかについてはある程度きちんと書いている。ツールアーキテクチャがゲーム的構造を持つ、ということが「生成力」についてのキーポイントである、ということは、ある種の前提として共有しておきたいなー、と。


 まあ、あと、ゲームとは、という問題だけじゃなくて、ここらへんの各要素のトレードオフみたいな部分は、もう少しきちんと論じられておきたいよね。とか、おもった。


 なんか、われながらひどく適当な文章をかきなぐってしまったけれど、あとで少し文体だけ修正しよう…

追記:2010/02/18 0:07 twitter経由で id:inflorescenciaさんと、stshnrhrさんにコメントもらった。上記のような、generativityの理解は大概にミスリーディング気味なんじゃないか、とのことです。申し訳ない…


http://twitter.com/inflorescencia

  • この文章を読んで、"generativity" に「生成力」や「生み出す力」という訳語があてられてしまったのは、かなりミスリーディングだという危惧が現実化してる気がしてきた
  • 私の理解するところでは、ジットレインのいう"generativity"は、魅力あるコンテンツがぽこぽこ生まれてくることやアプリケーション層の話だけをしているのではなく、より下位のレイヤに関する自由度と設計の話も、憲法的価値と絡めて提示している(たぶんエリクソンのとも違っている)
  • つまり、構築できることの多様さとか、コミットできる対象の豊富さを確保できること、プラットホームみたいに利用できるか否かの指標であって、その自由の領域で何かにコミットしたり設定を組み込んでいく自由を謳歌するのが目的となっている。
  • そして、この世では「ナイフ」は調理にも凶器にも手品にも使えるけれど、サイバースペースでは様々な用途のうち「凶器」を禁止するということが、コードと法によって可能であるということを提示したのがレッシグで、ジットレインはその問題意識を承継している。
  • 彼のいう"generativity"が「汎用」性の重視に見えるというのは、コードと法によって規制され、限定されてしまいがちな情報環境において(キャリアによる公式サイト・フィルタリング・ネットワークの中立性などと関連)、自由を残すとはどういうことかを考えているから。
  • というわけで、魅力あるコンテンツの土壌の話をするときに、"generativity" を「生成力」とか「生み出す力」と訳すのはいいのだろうけれど、ジットレインのいうところはもう少し広範。メインである自由のプラットフォーム的なニュアンスが零れおちてしまう点が心配。
  • お時間があるときに "A History of Online Gatekeeping" などを読まれると理解しやすいかと思います http://technewsreview.com.au/article.php?article=350

http://twitter.com/stshnrhr


  • ZIttrainのいうgenerativityというのは、自由で多様な生成を可能にするプラットフォームの性質のことなので、generativityの高さは、そこから優れた創造の連鎖が行われることやそれがプラットフォームとして成功することを必ずしも約束するものではないんだよね。
  • ある製品なりサービスのgenerativityが(相対的に)低くても、それを使って面白くて優れたコミュニケーションなり創作の連鎖が生み出されることは(創造の自由の幅が限定されているとはいえ)ありうるし、その製品なりサービスがビジネスとして成功を収めることも十分ありうるはず。
  • 逆に、ある製品なりサービスのgenerativityが(相対的に)高くても、それを使ったコミュニケーションや創作が盛り上がらずに、ビジネスとして失敗する可能性も十分あるはず。


 ということで、「ジットレインに対する批判としてはぜんぜん成立しないよ!」という、的確なツッコミをいただきました。

 こういうコメントを、書いた直後にさらっといただけるのはありがたいですね!

追記2:しかし…

 ヒッペルとジットレインを並べるというのは確かに、ミスリーディングな文脈を誘うけれど、

 しかし、ジットレインのXboxが「生む力generativityがない」という批判は、もちろん文脈はわかるけれど、ぼくの「ゲーム」概念理解の問題とは、やはりいろいろな意味でスレ違うのよね。批判はわかるけれど、そういう批判に対する対抗策もぼくとしては、そりゃ「ゲーム」だろう、的な発想になるからなあ…まあ、一周して言いたいことは同じなのかもしれない。 

 ナイフの例でいえば、「十徳ナイフ」と「最高級の中華包丁」のどちらをよしとするか。アフォーダンスの例としてしばしば引き合いに出される<椅子>で言えば、多種多様な座り方を支えてくれる「アーロンチェア」と、すわりごこちが本格派な「ソファ」。そして、それらの「使用目的の多様性」「使用方法の多様性」の問題の違いとかを考えてみるとよいのではないか、と…。

 あと、まあ、いろいろあるけれど、もうちょっとまとまったところで、きちんと書こう。

*1:高橋志行,2010,「状況への適応、不問、再編――意味論的転回以降における人工物と社会」一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻人間行動研究分野 2010年提出修士論文