Critique of Games メモと寸評

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「シリーズ化」と「オリジナルタイトル」についてのメモ:新奇性の消費プロセスから考えてみる

twitterでのつぶやきメモ

  • オンラインゲームのようなサービス型モデルと、パッケージ型のビジネスモデルを比べた場合、パッケージ型のビジネスモデルのほうが、ユーザーのニーズをくみ取った、セグメンテーション&ターゲティングはしにくい。売り切り型だから。ユーザーのフィードバックを活かすには継続的サービスが必要。
  • しかし、そうなるとオンラインゲームのようなサービス型モデル最強、という議論にもなるけれど、オンラインゲームは、ネットワーク外部性が効き過ぎる世界なので、特定のプラットフォーム内における、ビジネスプレイヤーの新陳代謝が起こりにくく、新規参入が難しい。
  • パッケージ型のビジネスモデルを取ろうと思ったとき、ユーザーのフィードバックを活かしつつ、ゲームの作り方をリファインしていこう、と思うと必然的に「シリーズ化」という選択が合理性をもってくる。ユーザーからのフィードバックも活かせるし、インクリメンタルな改良のできるスタッフがいれば足る
  • というわけで、マッデンシリーズや、ウィニングイレブンのような、1.ゲームエンジンの漸進的改良+2.ユーザーフィードバックの反映+3.タイムリーな価値の提供といったものを満たした完成度の高い「シリーズ化」のビジネスモデルが出てきたわけだけれども、
  • 「シリーズ化」のモデルにとっての最大の問題は、ユーザーの新規性に対する満足度曲線が時間を横軸、満足度を縦軸にとったときに山型を描いてしまう、という問題じゃなかろうか。一つの作品を終えるときには、山型のピークが一度あがって、落ちているサイクルを完了してしまう。
  • 刺激の種類がまったく同じものだと、この新規性に対する山型ピーク、の問題に対処できない。なので、刺激の新奇性にバリエーションを付けたり、ある種のアディクション構造を実装する(つまり、新規性ではない構造)を用いることで、対応することになる。
  • なので、新奇性だけを頼りにすると、「ユーザーのニーズをフィードバックして、次回作を作ります」と言ったとき、「次回作」に対するユーザーのニーズはすでに消滅している、ということになる。「次回作」などいらない、ということになる。しかし、それではマーケットへのより精緻な対応などできない。
  • つまり、シリーズ化を見越した「一作目」はユーザーを[案A].飽きさせてはいけない あるいは [案B].飽きさせてもいいが、二作目ではある程度まで別種の刺激をあたえなければいけない(つまり半オリジナルタイトル) ということになる。
  • 「シリーズ化が悪」というユーザーの声を「ユーザーが二作目、三作目に飽きているから、だ」と解釈するのだとすれば、なかなか事態をうまく運ばせるのは難しい。フィードバックを開発側が実装するタイミングと、実装されたフィードバックの便益を受け取るユーザーはズレ続けることになる。
  • 「シリーズ化を見越したオリジナルタイトルのリリース」というビジネスのやり方は、ある種の理想ではあるのだけれども、下記のようなことを考えると、「シリーズ化」という手法は常に一定の矛盾を抱えつつ、走っていく手法ではあるので、ほんと難しいな、などと思った。
  • 「海の物とも山の物とも知れないオリジナルタイトルばっかりぼこぼこ出すべき」みたい話世界は、ほとんど博打に近い話でしかないので、ゲームが「ビジネス」として成熟していくためには、シリーズ化のほうがはるかによい。しかし、シリーズ化ばかりだと、市場が腐る。保守化する。
  • オリジナルタイトルを作るためのイノベーションパイプラインみたいなことを、インディーズ市場の活性化と一体にして考えるような、トータルなモデルを発想していかないと、どうしようもないよなあ、などと、そして改めておもうのであった。誰がそれを担うべきプレイヤーなのかは謎なわけだが。
  • …ということを、野島さんの『人はなぜ形のないものを買うのか』を読み直しつつおもったのでメモ。
  • イノベーションパイプラインみたいなもののの、「パイプライン」だけ引いてるのは、「C.A.M.P」とか、「ゲームやろうぜプロジェクト」だよなあ。ただ、ラインだけ引いて、インディーズの活性化にはポジティヴな影響があったかどうかというところで疑問が残るのがとても手痛いのだけれど。

新奇性―飽きモデルの単純さについて

  • んー、しかし、野島さんの本のP48注釈 「飽きは心理学において馴化(habituation)と呼ばれる」と描かれているけれど、habituationと飽きって、繋がりはある概念だとは思うけれど、これイコールであるかのように言ってしまってよいのだろうか。
  • @teruyoishijima ありがとうございます。単に「馴れ」といった場合、飽きる、という手前では、「操作に習熟する」みたいな、ゲームを楽しむための前提条件をインストールさせることでもあると思うので、二面性のある事態かと思いました。心理学プロパーの人の用語法は違うのかな、と。
  • あと、まあ、やはり単純な「新奇性―飽き」とういうモデルでは、ドラクエのシリーズ化+レトロ回帰傾向も、風来のシレンとかぷよぷよへのアディクショナルなプレイも説明することができない。前者は、新奇性のモジュールを切り分けて考えなければいけないし、後者は新奇性というよりもズレの問題。
  • 言い換えると、ドラクエは「ゲームシステムと世界観モジュールはほぼ同じ+物語のモジュール/グラフィックのモジュールが別」という構造。FFは「ゲームシステム・モジュールも含めていろいろ新規+世界観だけなんとなく一緒」という構造。
  • あるゲームのどこのドメイン(モジュール)が<新奇>なのかを期待するようにユーザーが振る舞うか、というフレームのほうが大事で、あるタイトルがざっくりと「新規」である、という言い方をするのはけっこう難しい。あとバリエーションの問題と、ズレの問題は新奇性とは何が違うのだろうか、と。
  • 風来のシレンなんかは、延々と調整不可能なズレの範囲を、ゲームプレイをすすめていくうちに漸進的に小さくしていくゲームでしかなくて、プレイのたびに新奇性が生まれるわけではない。リスクヘッジが上手くなっていくゲーム。リスクヘッジを上手くしていくっていうことは何なのだろうか。
  • しかし、やっぱり忘却は重要だよな、と思った。うちの母親は、また10年ぶりにファイアーエムブレム聖戦の系譜を引っ張り出してきてやってるけれど、「面白さを忘却する」タイミングで出していくことも、飽き、の問題に対する重要な対処法の一つでもある。

評判のシステムのズレ生成と、状態定位のためのサブシステム整備

  • 別のはなし。ニコ厨やネットgeek的な人々の「評判」の構造は常にずれ続けますよね、という話をこの前した。これは、ニコ厨だとかネットの構造的な問題――再帰的な観察がぐーるぐーるとまわりやすいアーキテクチャになっている、というのもあるけれど、
  • 評判のメカニズムを定位させておくためのサブシステムを持たないよな、ということもおもった。青木さん風に言うと。メインシステムを維持するために、その他のサブシステムを構成させるみたいなことをやれば、もうちょっと「評判」メカニズムのズレ生成速度は遅くなるかも。