先日の記事の続き、(http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20120824)。
ハクティビズムとは何か ハッカーと社会運動 (ソフトバンク新書)
- 作者: 塚越健司
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2012/08/20
- メディア: 新書
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またパラパラとめくっておりましたら、
P148から、拙著引用いただいていたようでありがとうございました。
ゲーミフィケーションの話をご紹介いただいたあと、slacktivism(怠け者でも参加できる、政治・社会運動)の話へつなぎ、slactivismへの評価の難しさに言及。そして、アノニマス内部の運営プロセスにも一種のゲーミフィケーション的な側面があるのではないか、というご指摘。
*
論旨としては、
- ウィキリークスが「ジュリアン・アサンジ」という象徴的、カリスマ的なリーダーを必要とする形で運営されていたという、20世紀から脈絡と続くタイプの大衆動員の方法(本書では「人称的動員」と呼ばれる)だった。
- 一方で、アノニマスは、アサンジの代わりに「仮面」のキャラクターによって運営がなされ、抗議活動はネットにおけるある種の「祭り」として行われている。
という文脈なので、ぱっと読んだ限りは、ゲーミフィケーションというよりかは、「祭り」による社会運動論みたいな話として位置づけられてらっしゃるのかな。という気がいたしました。
ただ、「祭り」云々という方向性だと、それは鈴木謙介さんのカーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)でも、本書の中に挙げてらっしゃる、北田さんの嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)でも参照先はいいわけで、ゲーミフィケーションとういワードをご参照いただく必要はないのかな、という印象を持ちました。
ゲーミフィケーションは、そのテクニックの一つとしてネットの「祭り」を利用することはあるにはあるわけですが、それはかなり脇道という感じです。自然発生的な祭り、だけだと一過性で終わってしまうので、そういのは、たしかに「楽しさを介した社会運動」ではあるのですが、継続性や、再現性をもたないものになってしまう場合、「楽しさ」ではあっても、「ゲーム」とはちょっと違うかな、という感じがします。ゲームの設計者の意図との関わりがかなり薄くなりがちな社会運動になってしまうきらいがあるので、スラックティヴィズムではあっても、ゲーミフィケーションと呼ぶのはちょっとニュアンスが違うかもな…と。
「ゲーミフィケーション」という言葉は、「ゲームの要素を持ち込むこと」ですので、要素を持ち込むための主体がいる、ということを多くの場合想定していると思っています。つまり、一種の設計主義的な話なわけです。
ですので、「祭り」を意図的に生み出したり、祭りの再現をするようなメカニズムを内部に持ち得ていたら、ゲーミフィケーション、という表現をしてももうちょっとしっくり来るかな、という感があります。たとえば、ねとぽよ第一号(http://www.netpoyo.jp/sample/01/)で、2chの大規模OFF主催グループがいかに意図的に、うまく大規模OFFを演出するためのノウハウを溜め込んでいるか、という話がありますが、そういう話であれば、けっこう、ああゲームっぽく運営してんのかもな、という気にはなります。
おおざっぱな言い方で恐縮ですが、ネラー風に記述させていただくと、
「ネット上の「祭り」ヤベーwww。これ社会を変えるんじゃね?wwww」
というのが、ちょっと前までの「祭り」論だとすれば、
「>>1 ポテンシャルはあると思うけど、うまく祭りをマネージできなけりゃ、ただの現代的大衆運動でしかないだろ」
というノリがゲーミフィケーションの話には、ちょっとあります。
#「ゲーミフィケーションで儲かる!」とか言ってると、なんか、そういう社会思想的な文脈とかと切り離されて、また別の世界観になってますけどね)
#まあ、こういうことを言うと、むろん、2chであれば、「設計主義乙ww」みたいな返しがかえってくるわけです……が、極端な設計主義者disみたいな藁人形叩きは、ご勘弁願いたく。