Critique of Games メモと寸評

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主にゲーム研究を中心とした研究関連のメモです。

 

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伊藤朋子,2013,子どもの「遊び」に関する教育人間学的考察,四天王寺大学紀要 第56 号,pp121-140

伊藤朋子,2013,子どもの「遊び」に関する教育人間学的考察,四天王寺大学紀要 第56 号,pp121-140

https://www.shitennoji.ac.jp/ibu/docs/toshokan/kiyou/56/kiyo56-09.pdf

 

主に、デューイの話を論じている。

 

J. Dewey; How We Think, 1933, p.210.から引用されている、下記の部分

「遊戯性(playfulness)は、 遊び(play)よりも、 より重要な観点である。 前者は、 精神の態度である。 後者は、 この態度が一時的に外部に現われたものである。 事物がたんに示唆の道具として取扱われるとき、 そこに示唆されたものは、 事物をのりこえる。 ここからして、遊びに満ちた態度は、自由(freedom)の態度である。」

ここらのplayfulness概念は、B.Suitsのlusory attitudeとどこまで違うのか、みたいな検討とか誰かやってないのだろうか。

 

 

 

竹野 真帆(2015)『オンラインゲームは若年層に悪影響をあたえるのか?』夏目書房新社

 著者の博士論文である 竹野真帆. (2014). オンラインゲームの訴求力とその若年層への影響を出版したもの。オンライゲームのポジティブな側面を示そうと、いろいろと悪戦苦闘している論文である。本のタイトルは売れ行きとかを考えて、ちょっと変えたということだと思うが、もとの博士論文のタイトルのままのほうが内容に対する誤解は少ない。

 タイトルからして、渋谷先生とか、坂元章先生ライン系の内容だと思っていたのだけれども、そういう内容とはけっこう違った。

 

■「研究I」

序盤の「研究I」ではだいぶ長々とジュネットの話をしたり、ジェンキンストドロフ、ブレモン、バルト、レヴィ・ストロースなどへの言及が続き、物の構造分析手法を応用して、『どうぶつの森+』、MMORPGの『テイルズウィーバー』の分析、『アトランティカ』の三作品が分析される。

■「研究II」

調査1で、インタビュー調査として、小学校1年~6年生までの25名に対して半構造化インタビューを実施し、主に『アメーバピグ』についての調査をしている。

調査2では、同じく『アメーバピグ』を対象にした調査だが、こちらは、中学生に対する非構造化インタビューを実施している。

■「研究III」

最後の研究IIIでも、ひきつづき『アメーバピグ』を主な対象に、チャットデータのログを収集し、テキストマイニングをしている。数量化III類のようなタイプの対応分析として、ここではLSAが用いられている

■「研究IV」

ひきつづき『アメーバピグ』を主な研究対象として据えつつ、公立中学校11校に在籍する3517人にアンケート調査をしている。

 

その他、内容的な要約は、フェリスの機関リポジトリでも公開されているものが読めるので、ご確認いただきたい。

ferris.repo.nii.ac.jp

 

 1987年生まれの著者の2014年時点での博論(フェリスの人文科学研究科)ということを前提でいえば、大学院生の博士課程の論文としては、方法論的にはとても野心的で、人文学的な議論と定量的な議論を接続させようとする意志が感じられる点はとても良いと思う。ゲームの研究分野にこういう若手が出てきているということ自体は、個人的にはとても歓迎できる。

 一方で、指導的なコメント……などというと恐縮なのだが、やはり、こういった内容だと、単純に渋谷先生や、坂元先生のような先生の指導をもうすこし、がっしりと仰いでもらったほうが、ディシプリン的にはクリアーな論文になったかな、という印象は正直なくはない(たとえば、「研究IV」などでは、もう少し先行研究で用いられている尺度をベースにするだとかはできたのではないか、とか、そういう細かなポイントでコメントしたい点はいろいろあるにはある)。

 ……とはいえ、序盤の文学理論系の話とかが混じった話というのは、実験心理系教員の指導ではむしろ難しいものがあるだろう。なので、その意味では、独自路線で論文を書こうという意志を感じる点はそれはそれとして好感を抱くので、ぜひ問題意識を今後、洗練させていって欲しいと思う。

 

 あと、素直に、この著者がすごいなあ、と思うのは、このあとスクエニで『拡散性ミリオンアーサー』『ヘブンストライクライバルズ』などの大変そうなタイトルのディレクターをやっているということで、とてもではないけれど、私などはそういう働き方はできないので、素朴に尊敬してしまう。

 今後のご活躍を期待したい。

ダニエル・キング、ポール・デルファブロ『ゲーム障害 ゲーム依存の理解と治療・予防』(2020,福村出版)

下記は、ダニエル・キング&ポール・デルファブロ(2018)の翻訳についてのメモ。

 

 

 非常によく調べられていて勉強になる箇所と、センシティブであるべき論点について、説明が雑になってしまう記述が混じっている本ではあるが、基本的には、労力をかけて書かれた本である。このテーマについて興味があり、研究についてのある程度のリテラシーのある読者に対しては、他のリソースと併せて読むこと込みで、一読をおすすめする。他方で、特に統計的な処理を伴う研究を行ったことがあまりない読者や、あまり注意深く読むつもりのない読者に対しては、あまりおすすめしない。

以下、「#」から先は内容紹介ではなく、私のコメント。IGDはInternet Gaming Disorder(インターネットゲーム障害)の略である。

■特筆すべき点

本書の良い点はかなり多い。いくつか挙げる。

  • 多数の研究についてのメタ研究を行っている点が挙げられる。これは、本書全体を通しての極めて優れた点である。#この水準の本を「まったく科学的な手続きに則っていない」本だとは私は思わない。もちろん、ツッコみたいところはたくさんある
  • まず、第二章では、複数のモデルの比較を行っている.Davis 2001のPIUのモデル、Dong & Potenza 2014のIGDのモデル、Brand et al., 2016のI-PACEモデルを紹介している#私もI-PACEモデルは因子レベルでは、重要な因子をかなり挙げられているとは思う。Dong & Potenzaのモデルは、比較的素朴な報酬系のモデルという感じだが、Brand et al., 2016は、社会的サポートや、生得的な因子等も組み込まれている。もっとも「個人の中核的特性」という潜在変数の設定については、今後仮説の更新はありうるだろう。
  • p69「ゲームはそもそも不健康な活動ではなく、先に述べたような利点のある活動なのである(Przyhbylski, Weinstein, & Murayama, 2016)」など、ゲームを遊ぶことの全体を問題としているわけではないことは繰り返し記述されている。
  • 第三章では、ゲーム障害に関わる多数の因子が細かく記述されている。
  • 第四章は、ゲーム障害の特徴ギャンブル障害と、ゲーム障害では病気の機序がかなり違っていることについて述べている。ゲーマーは金銭にこだわったり、運による勝利という点について興味を抱かないことが多いと整理されている。
  • 第五章は、重要な議論をしている。明確なゲーム障害のガイドラインによって偽陽性の診断がくだる率は上昇するのではなく、いい加減な診断されるよりも偽陽性は減るのではないかという指摘がある。これは重要な指摘ではある。
  • 第六章は、事例定式化ということで、IGDが対象としている患者の典型例がいくつか示されている。この点については、世間的なーー新聞レベルの雑なゲーム障害への報道レベルーーと、IGDの想定する「患者」の差を明確に示している箇所であり、ただの「長時間ゲームをやっているだけの子供」とのIGDの想定事例の違いみたいなのは、ここを読んでくれればわかるだろうと思う。抑うつ状態で、自尊心が低く、認知の偏りが強くあり、社会的な孤立感のある状態で……そこにゲームをやりつづけている状態というようなのが入り込んでいるケースが想定されている。 
     また、p161で、認知行動療法(CBT)がおそらく有効と思われる可能性を示しつつ、その証拠については「依然として充分とは言えない」と注意深い言及がなされている。
  • 第七章は、臨床家にとっては、もっとも重要な章だと言えるだろう。Young(1998)の剥奪的な治療に対する、適度なツッコミもある(p202)。
     そして、RCTの行いにくさについて実感を込めて論じている(#これは事情がよくわかる)。
     また、現在のIGD研究の問題点を挙げている点は有益な指摘である。「多くのIGD治療研究には、基本的なデザインの欠陥が見られる。その改善策として、次の4つを挙げることができる。(1)追跡調査の期間を1か月から3~6月に延長する(2)症状スコアの平均値の差ではなく、診断に関する(つまり臨床的な)変化の評価を組み入れる、(3)より広範囲に及ぶ治療アウトカム(生活の質など)の評価と、CBT研究での認知評価を行う(King & Delfabbro, 2014を参照)、(4)社会的変化や環境的変化など、治療後の適応状況を調査する。また、臨床試験に登録することにより、事前にアウトカムの評価方法を定義して、報告バイアスの発生を抑える必要がある」(p191)
     治療法としては、心理教育(ゲーム使用の標準化など)、個人にあわせた治療の実施、行動アプローチ(自己モニタリング、活動スケジュール法、随伴性マネジメント、暴露反応妨害法)、認知アプローチ(ソクラテス式問答法、日常思考の記録)などが紹介されているが、この章の結論としては、「臨床試験で最もよく用いられているCBTを含め、IGD治療の「ゴールドスタンダード」はいまだ存在しないということである」(p214)と結ばれている。
  • 第八章は予防について述べられている。ほとんどの人は「安全な」レベルでのゲームプレイにとどまっていることをきちんと確認(p220)した上で、少数の問題のあるプレイヤーがいることを述べる。それは、Fergusonら2011でゲーム人口の3%、Przybylski2016でゲーム人口の0.5%~1%として紹介されている。そして、IGDの発生リスクをさげるためには(単一の手法ではなく)「複数のシステム(家族、知人のネットワーク、教育など)が協力して断続的に取り組む必要があるということである(Chambers, Tayloar & Potenza, 2003)」としている。そして、残念ながら、予防についての研究は、介入実験として充分なものはほとんどないことが述べられる。一件、RCTと言える研究としてWalther et al., 2014が挙げられるが、複数の研究を横断的に評価しても、予防プログラムの効果について一貫した効果は充分には観察できるとは言えない状況だという。
     この章の終わりに、このような研究状況を前進させるための前向きな提言がなされている(p253)に、ゲーム業界との産学連携で、「(1)ユーザー行動の共有(2)調査を目的としたユーザーへの連絡と、ユーザーアカウント情報との照合。(3)ゲーム内での安全対策の施行(ポップアップ通知など)(4)ゲーム内機能の心理的影響の調査(5)開発中のゲームのデザインとテストに関する研究者との協議」の5点が挙げられている。
  • 第九章では、反論者として、Ferguson et al., 2011のメタアナリシスや、 Przybylski et al.,2016については本書の著者らも高く評価をしている。Fergusonや、Przybylski らの議論あたりが、議論可能な経路として示されているのは有益な態度の開示と言えるだろう。

 

■問題のある点、論争的な点

下記はほぼ、私(井上)のコメントである。

  • p57で紹介されている Kardefelt-Winther(2014)の「補償モデル」あたりの議論に対して、筆者らは反論している。 Kardefelt-Wintherらは、「病的」という概念を否定し、問題のある行動嗜癖に対する提案を行っている。Kardefelt-Wintherらの議論に対しては一定の評価を下しつつも、Kardefelt-Winterらのモデルについては 1.定義の範囲が広すぎること 2.臨床的に意味のある弁別性のあるモデルになっていないことから退けている。この点については、5章で詳しく論じられているので、後述。
  • 全体に注意深く書かれている箇所のほうが多いのだが、第三章での多数のゲーム障害に関わる因子の紹介のされ方が、しばしば媒介変数や、同時性を考慮しないような記述になっている。#これは正直、記述の仕方として残念である。せっかく二章では、Brand et al ., 2016のような、パス解析的な関係図を用いた説明を紹介し、他にも階層的な分析を多数紹介している箇所が多いのに、ところどころ、雑な説明になっている。具体的に言うと、たとえばp75の記述だけ読むとかなり問題がある。「低い自尊感情は、アイデンティティとグループへの帰属欲求を満たすための過剰なオンラインゲーム使用につながる危険因子になりうる。」というだけで説明が終わっているが、こう読むと、オンラインゲームはコーピングの手段としての価値が一切ないかのように読めてしまうが、このコーピングとしてのゲームをどのように評価するか/しないのかについての議論はかなり離れたところにいくつか分散した形で記述が見られる(例えば、p192などでは、「コントロールされたゲーム使用」を一つの治療の目的とすることを検討している)。研究者向けの書籍としては、これでも良いが、一般の人も一応想定していると冒頭にうたっているので、こういった記述はせめて、関連する記述を注で参照できるようにするなど、丁寧に行ってほしいと思う(3章全体のまとめをしているp86-87の記述などは、概ね注意深い記述になっていると思うが)。
  • 第四章 p109の表4.1に関わる話は、丁寧なレビューをしたということはわかったのだが、著者らの主張しようとしている内容が単純によくわからない。
     同じく第四章の「図4.1 禁ゲームの後に見られた、ゲーム使用に関連する信念の弱化」(p115)という図表説明あたりも、本文を注意深くよめば、誤解はないのだが、図表名の付け方などにもっと注意を払ってもらいたい。紹介されている King et al. 2017では、<本人の同意のもと>ゲームを絶ったという9人の被験者とそれ以外の被験者を比較実験して、ゲーム断ちをすることでゲームに対する認知の偏りが変化したということを示している研究である。しかしだが、図表の記述を短絡的に読むとだ、雑にゲームを取り上げるような剥奪型の治療が臨床的に有効であるかのような誤解を与えかねない。
  • 第五章p123の「「偽陽性」の出る確率は低下するのではないだろうか。優れた臨床家であっても間違えることはあるが、基準を満たしていない事例に疾患を押し付けるケースはあまり見られない(Saunders et al., 2017)」あたりの話は、評価が難しい。私は基本的には、多数の診断基準が乱立しているよりは、統一されたほうがいいという主張には賛成している(そうでないと研究がすすまない、というのはよくわかる)。しかし、Ferguson(2017)などでは、これに対立する結果が出されており、この論点については、著者らはより強い証拠を示す必要があるだろう。
  • 第八章の予防の話は、予防について充分な研究結果がないと認めているのは重要な論点だろう。予防について充分な研究結果がない、というのなら、やはり、ゲーム障害をめぐるモラル・パニックとの間のトレードオフを考慮しつつ、予防措置は過剰にならないように慎重に実施されるべきという論点がもっと検討されてよいだろう。
  • 第九章、pp263-266あたりで、Aarsethら(2016)などの「ゲーム障害の概念は、モラル・パニックを引き起こしているのではないか」という主張に対しては、充分な証拠が示されていない(p264)と反論している。だが、そのすぐ後にp269あたりで、Ferguson(2015)や、Ferguson&Colwell(2017)において、専門家の予測が、エビデンスによらないゲームに対する否定的バイアスをもちうること(つまり、ゲームの経験がない年長者はゲームに対してネガティブ)などを紹介していて、証拠がないと先程言っていたのは、何なんだという感じがある。その後にFergusonらの議論について「特筆に値する興味深い発見を含んでいるが、これらの結果だけで、IGDに関する研究や臨床実験に固有の体系的バイアスを示す証拠になるとは限らない。ゲーム使用に対する否定的な態度が強硬であっても、それが常に、臨床家と研究者の客観性を保とうとする意欲や能力、あるいはそれに関連する修練や行動規範を無効にするわけではない」(p269)と、Fergusonらの議論について論評しているが、この論評は正直、肯定しがたい。確かに、いままでのIGDに関する研究を全て無効にするとまでは言えないかもしれない。しかし、この論評はFergusonらの議論を過小評価しすぎだろう。順当に考えたら、Fergusonらの研究について「否定的なバイアスが成立するメカニズムを解明し、否定的なバイアスによって過剰診断されてしまいかねないケースをきちんと除外していく必要があるだろう」と結ぶのならば、まあ順当だと思うが、本書の著者らのこの態度は、自分の立場を正当化するための強弁と受け取られかねない記述であるように思う。これは単に不注意というよりも、不誠実な主張の組み立てだろう。(これで、Fergusonを紹介すらしていなかったら、cherry pickingだと思うが、Fergusonにきちんと言及しているのは、評価されるべきだろうとも思う)
  • なお、モラル・パニックについては、正直なところ、我が国における香川県の事例とか、モラル・パニックなのでは……?としか思えない。アルコール依存などと比べても、まあ社会的な「誤解」の状況は我が国でデータをとっても示すことができるだろう。

 
 以上、本書は首肯しかねる点もあるのだが、ゲーム障害について根拠が不十分である点については、根拠が不十分であることを積極的に認め、今後の研究の前進のための前向きな議論をしている研究書である。私にとっても、傾聴すべき指摘も決して少なくない。こういった研究者を香川県の条例と同列に扱ってしまうような批判には、私は賛同しない。
 この論点は、非常に論文が多くなっているため、議論の全体像をつかむのが、難しくなってきており、こういう本の存在は、たとえ同意できない主張がいくつかあったとしても貴重なものであり、著者らの姿勢に敬意を表したいと思う。

 

追記 2020-12-29:

本書への重要な反論をしていく戦略は、概ね2点になるのかな、というように思う。

 

(1)一つは、「ゲーム障害」「インターネットゲーム障害」の概念を持ち出さなくとも、臨床的に意味のある診断はできるだろうという基準を提示し、それを今よりもさらに実証的に示すことになる。Kardefelt-Winther 2014*1の目指す方向性に近い。現状でも、「ゲーム障害のような概念を作らなくても、問題のあるゲーム行動を招く、そもそもの因子になっているのは、心理的なストレスや社会的なサポートがないといったような要因のほうなのでは」みたいなことを示す実証研究はある (例:「問題のあるオンラインゲーム使用のうち使用時間などネット使用に関するもので説明できるのは2%程度と軽微 - 井出草平の研究ノート」)。こういったデータは充分、反例になっていると思うのだが、基本的には、本書(Daniel &Paul 2018)はこういうところの評価がやたら渋い。Daniel & Paul側の反論である「じゃあ、<ゲーム>に関わる質問項目をなしで、現場で使える尺度を提示してくれ」という要求は、言いたいことはわかる。ただ、これは、ほとんど行動依存そのものの研究のブレイクスルーをつくってくれみたいな、要求なので、えらく話をでかいところにもってこられたな、という感があるが、こういうことを言い出したら、この話はとても長い話になってしまうが、数十年ごしの論争案件だよなあ、という感じがする。

 そして、そういう研究は、依存症に関わる臨床の現場と深い関係のある医療関係者でなければ、実施の難しいタイプの研究になるだろう。国内で言えば、依存症の拠点病院の医師と、データの判別モデルなどに詳しい研究者が連携することで何らかの成果は出るだろうが、複数の信頼のできるRCTが世界各国で行われて、システマティックレビューも含めて、話を覆さなければ、納得されなさそうな話なので、まあ、長くかかる話である。行為依存の研究の全体が進展していくなかで、ゲーム障害の議論も影響を受けていくのだろうが、行為依存の研究全体をすすめてくれ、という感触が個人的には強い。行為依存の研究の枠組みがもう少しすすんだ段階で、「ゲーム」に関わる評価があらためて位置づけなおされることを望みたい。

 

(2)もう一つは、いわゆるスティグマとか、レイベリングに関わる話で、文中だと、Ferguson 2017 などが触れられていた*2

レイベリング効果みたいなタイプの社会的な再帰性の測定というのは、あまり詳しくないが、ある程度の効果の提示・推論まではできても、強い比較調査が難しいタイプの領域だろうと思う。前向き研究はかなり厳しいし、後ろ向きの因果推論をどこまでやれるのか……という話だろうと思う。

 

ちなみに下記はFergusonの本。買っておこう……。

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 「この程度のデータでは弱い」とか言い始めたら、いくらデータを出しても水掛け論になってしまうと思うが、そうやって、着地点がなくなってきているのがこの論点の現状だよなあ、という気がする。

 <真実希求のための科学的プロセス>という意味では、このプロセスは正常だと思うのだが、他方で<意志決定のための「エビデンス」>としてのデータの扱いというのは、学問的プロセスとは違うところがある。とにかく何かを決定しようというインセンティブが強い人々が大量にいる状況だと「弱いエビデンス」で言い合う論争になってしまう不毛な状況が招かれてしまう。

 Daniel & Paul 2018は、このような状況のなかで「より強いエビデンス」を提示しようという強い意志を感じられる内容もっていて、そこは本当に立派なことだと思う。……のだが、主張の一貫性を保持するために「現時点で意味のあるエビデンス」を過小評価しかねない言説をいくらかばらまいてしまっている感があり、そこのところは、なんだか党派的な発言に聞こえてしまって残念だなあ……という感触がある。まあ、対立的な立場をちょい過小評価すれば、主張はクリアになるんだが、それでいいのか、という……。

*1:Kardefelt-Winther, D. (2014). A conceptual and methodological critique of internet addiction research: Towards a model of compensatory internet use. Computers in Human Behavior, 31, 351-354.

*2:Ferguson, C. J., & Colwell, J. (2017). Understanding why scholars hold different views on the influences of video games on public health. Journal of Communication, 67(3), 305-327.

物語の認知的研究 先行研究メモ

Formenti, L. (2016). Complexity in learning biographies: A dialogical approach.

(読めなさげ……)

 

Pianzola, F. (2017). Cognitive Affordances, Aesthetic Effects and Social Functions: A Systemic Approach to Narrative Studies.

https://boa.unimib.it/retrieve/handle/10281/203930/294384/Pianzola2017_CBLL.pdf