Critique of Games メモと寸評

主に研究関連のメモ(井上明人/ゲーム研究)

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ゲーミングカップヌードル

ゲームの日常言語的性質を示すわかりやすい例。

 

まず、生成AIによるゲーミングカップヌードル


Grok 2によるゲーミングカップヌードルの画像生成(2025年1月22日)



 

Copilot(裏側はDesignerによる?)画像生成 2025年1月22日

 

 

gemini 1.5による「ゲーミングカップヌードル」(2025年1月22日生成)

 

 

 

下記は、日清によって実際に発売された「ゲーミングカップヌードル」※2024年1月に近所(京都)のコンビニで購入したものを撮影(2024

 

ゲーミングカップヌードル

ゲーミングカップヌードル 側面

 

日清による広報はこちら

 

https://www.nissin.com/jp/news/11871

2023年9月18日に全国で発売されていたらしい。

どこらへんが「ゲーム」なのかの説明は、「汁がない“焼そば”と“カレー”なので手や周辺機器が汚れる心配がなく、ゲームをプレイする合間の食事にピッタリです。 」としかないが、おそらく文脈的には3つあり、

  • 1.七色のパッケージであるから。七色に光るものが「ゲーミング」と呼ばれる文脈が2010年前後から日本を含む複数の言語圏で普及している文脈に拠る*1
  • 2.カフェインなどエナジードリンクによく含まれているものを含んでおり、エナジードリンク(Monsterや、Redbull)がゲーマー層をターゲットに10年以上マーケティングを行なってきた文脈にのっている*2
  • 3.日清がPRするとおり、汁なし麺であるためゲームプレイ中に食事をとりやすいことから*3

ということだろうが、いずれも、古典的な「ゲーム」概念との直接的な連続性はかなりわかりにくく2010年~2020年代の特殊な文脈を把握していない人にとっては、まあまず、意味不明である。

にも関わらず、特定の人にとっては「クスッ」と失笑してしまうような形で、ある特定の<狭い文脈の意味の流通>があるということがメタメッセージとして伝わりうる構成になっている。言い換えれば、<多くの人にとって意味が通じないということが、一部の人に通じている>ということを伝達していて、いろいろと素晴らしい。

 

 

2025年3月28日追記:4oの画像生成がよくなったと聞いたのでやってみた。

ChatGPT 4oによる「ゲーミングカップヌードル」(2025年3月28日)

「7色がゲーミング」みたいな文脈をかなりしっかりと抑えられているという印象で、おそらくネット上の「ゲーミング」の意味を拾えているのかな、と思われる。

ゲームと「物語」関連について今まで書いてきたものいくつか

こちらも、徐々に自分でも全体像を忘れそうになるので……自分の書いたやつをちょろちょろとまとめておきます。(随時、適当に更新)

 

先行研究系については下記を参照

Game / Narrative系先行研究メモ - Critique of Games メモと寸評

 

1.「ゲーム」と「物語」を連続した概念として捉える:因果関係理解の異なるモードとして捉える

2.ビデオゲームにおいて「他者」の表現はいかに可能か?

3.「ゲーム」のリアリティと、「物語」のリアリティがまじり合わさっている状況をどう評価するか?

 

4.ビデオゲームプレイヤーは、どのような感覚を基盤に作品を評価しているのか?物語でなければそれはなにか?:リテラシーの成立プロセス

  • 物語をベースとした作品評価みたいなことに対する、オルタナティブな評価の立場をいかに構築するかという問題意識からいくつか書いています。物語の批評のことは非常に意識して書いていたテキストですが、下記は直接的には物語の話はしていないです。
  • 井上明人. 2009. 「<リテラシー>という解釈システム」『ユリイカ 特集:RPGの冒険』青土社, 2009年4月号, pp. 154-161
    • 文芸批評において、コンテクスト(文脈)をめぐって議論が交わされることが多いが、ビデオゲームにおいて論じられる対象になるのは、必ずしも明示的に言語化し、議論可能なコンテクストの存在ではないという話をしています。ゲームプレイにおいて習得されるゲームプレイのリテラシー――しばしば言語化されない――に根付いた感覚はかなり、評価において重要で、たとえば『Unlimited Saga』の評価が賛否両論で分裂した状況とかはそれをわかりやすく示している事例。背景化されたリテラシーをかき乱されるときに「クソゲー」という感覚はしばしば生まれるのだし、リテラシーをどのようなプロセスで成立させていくかがゲームの評価・設計における大きな論点になりますよね、と。
  • 井上明人. 2009. 「チュートリアリズムの成立--認知プロセスとしてのゲーム観」『デジタルゲーム学研究』日本デジタルゲーム学会, vol.3-1, pp. 59-66
    • リテラシーの埋め込みプロセスというのは、要するに宮本茂とかがめちゃくちゃ上手いやつです。リテラシーの埋め込みプロセスというのは、別の言い方をすれば、ストレスなく背景化されたチュートリアルの設計みたいなもので、ここではそういうチュートリアルの設計を理想とする宮本茂的な設計思想を「チュートリアリズム」としています。リテラシーの獲得≒上達プロセスの設計自体を楽しみの核として成立させる、という手法を確立させたということがビデオゲームの設計史上、非常に重要な技法になっていて、これはトレードオフとかを明示的に思考させる将棋とかみたいなゲームの楽しみとは別の仕方で作品評価を軸をつくっていますよね、と。
  • 井上明人. 2006. 「オンラインゲームの現在~国際大学グローコム 情報社会学シリーズ "地球智場"の時代へ~」『情報通信ジャーナル』電気通信振興会, Vol.24 No.5 May, pp. 36-39
    • 上記のようなゲーム内の「リテラシー」の任意の感覚を受容者に埋め込んでいく仕組みをビデオゲームが持っている、ということはメディア論的にも重要な特質だろう、と。とくにオンラインゲームに関わる「炎上」(ここではででお事件)は、こういったゲーム内において成立しているリテラシーと、ゲーム内のアイデンティティか絡まる形で発生していて、規範的価値の成立にも寄与していることを述べる

 

ゲームと「自由」について今まで書いてきたもののいくつか

自由に関わる論点について、実はそこそこ書いているけれど、自分でも昔書いたものとか忘れていくので、軽くまとめておく。

(随時、気が向いたときに更新)

 

1.ルールによってはじめて発生する事態があり、それは自由や公平性の内実を変容させてきているし、設計の対象ともなりうる…というタイプの話。

  • 井上明人. 2017. 「コミュニケーションの複雑さを諦める自由 ゲームを通じた新しい自由について」『ユリイカユリイカ2017年2月号 特集=ソーシャルゲームの現在』青土社,  49(3) (通号 696), pp.172-179より
    • SNSやソシャゲなどに見られるゲーム的構造によってどのような自由が手に入り、どのような自由が失われているのか、という話。今読み返すと(1)ASDの人々がメタバースなどで生きやすくなっているという状況の指摘(ref:池上英子)(2)ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」みたいな話(スパムじみた「自動いいねボタン」とかはコミュニケーションをしていると言えるのか?とか)の二本立てを書いている。いずれにせよ、どちらも、ゲームのプラットフォームによって生じているコミュニケーションの変化であろう、と。
  • 井上明人. 2015. 「多様な身体を包摂する拡張パラリンピック計画――オリンピックとパラリンピックを融合する新たなスポーツのルール設計」『Planets』第二次惑星開発委員会, 9, pp. 88-95
    • 「多様な身体」に対する公平性の再設計がパラリンピックでこそ真剣に考えられてきたことを確認し、積極的なルールの再設計を試みていくことで公平性の設計が可能になるのではないかという議論。「クラス分け」とかよりももうちょっと複雑なルール設計をすると、多様な人々と一緒のゲームで遊ぶことができるのではないか、という提案をしている。

2.自由のあり方を設計できるようになったとき、誰がどのように自由のあり方を設計/コントロールすればよいのか?

3.作られた仕組みへの抵抗が重要なのか?抵抗や服従の問題をどう整理して考えることができるか?

  • 井上明人. 2006. 「宮本茂をめぐって コンピュータ・ゲームにおける作者の成立」『ユリイカ 特集 任天堂青土社, 38(6), pp. 181-189
    • 特に最後のほう。ビデオゲームにおける「自由」がどの範囲内で担保されるべきものなのかについて論じている。箱庭の内側で環境管理的に「クリエイティブな主体」であることを植え付けられるようなゲームのあり方(ここではゼルダの時オカ)は、はたして自由とは言えるのか?ゲームにおける自由はゲームの制作者によって設計されるべきものなのか、それともプレイヤーはそのように設計されたカギカッコつきの「自由」を拒否していくべきものなのか。
    • この原稿は、ニック・ダイヤーーウィザフォードとグレイグ・デ・ビューター(2009)『カウンタープレイーー〈帝国〉への抗い、ゲームヘの抗い』あたりと問題意識は近いものはあるだろうとは思う。
  • 井上明人. 2018. 「<戦い>をつくりかえるゲーム」『PLANETS vol.10』第二次惑星開発委員会, vol.10, pp.71-81
    • けっこういろいろな論点を書いているが、「抵抗」みたいな話については、対立/対抗的なリアリティ自体が社会な様々なサブシステムによって共進化的に作られていくところがあるので、そういった社会的メカニズム自体をメタ的に問い直していく仕組みを作らなきゃあかんよね、というような話を書いている。平和論とかの取り組みというのも、要は対立構造を生み出してしまっているゲームの構造自体を一度こわして、再設計できるようなゲームの設計とかを目指していて、まあそこの設計を考えていくしかないですね…と。
  • 井上,2018,「ゲームはどのように社会の問題となるのか」『ゲンロン8 ゲームの時代』ゲンロン, 136-156の前半
    • 与えられた状況からの逸脱(想像力による抵抗)か、適応(環境管理的な服従)かの論争を構造的に整理している。1.ホイジンガっぽい話, 2.古代からある素朴なゲーム悪玉論, 3.ゲームの教育利用やゲーミフィケーション、4.近代社会への抵抗としてのゲーム(人文学系の話)とか話はいずれも、ゲームというものが人間を適応させるものとして評価するか、逸脱させるものとして評価するか、という観察が強く影響していることを述べている。

4.ゲームにおける「自由」をめぐる認知/認識が多層的であるゆえに生じる倒錯的状況について

  • 井上明人,2018,「ゲームはどのように社会の問題となるのか」『ゲンロン8 ゲームの時代』ゲンロン, 136-156の後半
    • ゲーマーが自由に楽しんでいる世界が、冷静に記述するとやや倒錯的な事態とも言えるというをファクトリオのマインクラフトの事例などで説明し、こういったゲームでは、手段と目的が相互に循環するような事態がずっと連続して起こり続けていることを確認。だが、実はこの倒錯的に記述されそうな事態こそが、実は社会思想的な理想ともかなりしっかりとつながっており、めちゃくちゃ重要だ、という話をしている。
  • 井上明人. 2022. 「RTAの自由さについて」『Bandit Magazine』Bandit Magazine
    • RTAのプレイが倒錯的に見えるのはなぜか、みたいな話。RTAに係わる個別のアクティビティは実はそこまで倒錯的ではなく、それなりに合理的だと考えられるものの「自由」とか「ゲーム」という概念パッケージのほうが、複合的なものなので、結果的に第三者からすると「倒錯的」だという感覚を生むよね、みたいな話をしている。
  • ほか、critique of gamesにいくらか書いている。
    • 自由度 - PukiWiki

      • けっこういろいろな論点に雑に言及している
    • 行動から知覚へ。 - Critique of Games メモと寸評

      • 制度的事実のようなものによって新たな事態が構成されるというより、3D空間とのインタラクションの設計などによって、自然界には存在しなかった新しい行為についての意識が生成されるよね、みたいな話をしている

遊びの余剰エネルギー説として知られるスペンサーの著作はどれなのか。

<スペンサーについて>

スペンサーはWikipediaに長い記事が書かれているとおり、当時の有名人で、ダーウィン進化論を「適者生存」と言い換え、幅広い学術分野に、進化論の影響を波及させた人物であり、シャラー、ラツァルス、コロッツァなどを経由してK.Groosの準備説にも影響を与えていると見てよかろう。

ダーウィンの影響によって書かれていたスペンサーの業績とならんで、カント美学の影響のによって書かれたシラーの著作(Friedrich von Schiller ,1795, On the aesthetic education of man)とセットで、19世紀後半の遊び論では「余剰エネルギー説」の人ということになっているが、冷静に考えるとダーウィン系列の議論と、カント系列の議論をまとめてしまうのはどうなんだ、という感じは正直あるが、まあ、そうなってしまった。グロース以前に多分、コロッツァあたりですでに、そういったまとめになっているようなので、コロッツァより前の人の責任がでかそうである。グロースの記述を信じるならば、スペンサーがシラーに直接の影響をうけたと見られる記述があるとのことだが、グロースの記述は、どの著作のどの箇所か、引用元がよくわからない

 

 

<問題の文献はどれなのか>

最初に該当するのは下記の文献かという印象が強い。スペンサーが1903年におなくなりになっているので、さすがに著作権切れてパブリックドメインになっているため、オンラインでフリーで読める。

Herbert Spencer, 1855, Principles of psychology.. New York: Appleton.

https://oll.libertyfund.org/titles/spencer-the-principles-of-psychology-1855

 

ただ、

origin of music

https://www.jstor.org/stable/2247370?seq=14

など、いくつか引用先がまたがっている。

 

 

 

グロース『人間の遊び』(1899=1901)について

 

原題とか

ドイツ語原題:Die Spiele der Menschen (Jena 1899)
英語版:translated by J. Mark Baldwin as The Play of Man (New York 1901)

何で読むか

 

英語版については、PDF版もあるが、Html版もProject Gutenbergで公開されている。自動翻訳を使いながら読む場合は、言うまでもなくHTML版のほうが良い。

 

<PDF版>

The play of man : Groos, Karl, 1861-1946 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

 

<HTML版>

www.gutenberg.org

 

 

目次の内容

ほぼ自動翻訳だが、一応載せておく

 

  • 編集者まえがき iii
  • 著者まえがき v
  • 遊びの体系—序論 1
  • 第1部 遊び心のある実験
    • I. 感覚器官の遊び心のある活動 7
      • 1. 接触感覚 7
      • 2. 温度感覚 14
      • 3. 味覚感覚 14
      • 4. 嗅覚感覚 16
      • 5. 聴覚の感覚 18
        • (a) 受容性音声遊び 19
        • (b) 産生性音声遊び 31
      • 6. 視覚の感覚 48
        • (a) 明度の感覚 50
        • (b) 色の知覚 54
        • (c) 形態の知覚 60
        • (d) 運動の知覚 67
    • II. 運動器官の遊びとしての使用 74
      • A. 身体器官の遊びとしての運動 75
      • B. 異物の遊びとしての運動 95
        • 1. 異物をあちこちに動かす 95
        • 2. 破壊的(分析的)運動遊び 97
        • 3. 建設的(総合的)運動遊び 99
        • 4. 持久力を鍛える遊び 101
        • 5. 投げる動作 103
          • (a) 単純な投げ方 105
          • (b) ストロークや打撃の力を借りて投げる 107
          • (c) 転がす、回転させる、押しつける、物体を弾ませる 110
          • (d) 目標に向かって投げる 114
        • 6. 捕球 118
    • III. 高度な精神能力の遊びにおける活用 121
      • A. 精神的能力の実験 122
        • 1. 記憶 122
          • (a) 認識 122
          • (b) 反射記憶 128
        • 2. 想像力 131
          • (a) 遊び心のある幻想 131
          • (b) 記憶内容の遊び心のある変換 135
        • 3. 注意 144
        • 4. 理性 152
      • B. 感情の実験 158
        • 1. 肉体的苦痛 159
        • 2. 精神的苦痛 160
        • 3. 驚き 163
        • 4. 恐怖 166
      • C. 意志の実験 169
  • 第II部 第2の衝動、すなわちソシオノミック秩序の遊び心のある練習
    • I. 戦いごっこ 173
      • 1. 直接的な身体を使った戦いごっこ 174
      • 2. 直接的な精神的な競争 186
      • 3. 身体的な競争心 197
      • 4. 精神的な競争心 201
      • 5. 破壊衝動 217
      • 6. からかい 220
      • 7. 滑稽さの享受 232
      • 8. 狩りごっこ 237
      • 9. 戦いごっこを終わらせる戦いごっこを目撃する。悲劇的な場合 244
    • II. 愛の遊び 252
      • 1. 自然な求愛の遊び 254
      • 2. 芸術における愛の遊び 268
      • 3. 漫画におけるセックス 278
    • III. 模倣の遊び 280
      • 1. 単純な動きの遊びとしての模倣 291
        • (a) 視覚の知覚 291
        • (b) 聴覚の知覚の遊びとしての模倣 294
      • 2. 遊びにおける劇的な模倣 300
      • 3. 可塑性または建設的な模倣遊び 313
      • 4. 内面の模倣 322
    • IV. 社会的な遊び 334
  • 第3部 遊びの理論
    • 1. 生理学的観点 361
    • 2. 生物学的観点 369
    • 3. 心理学的観点 379
    • 4. 美的観点 389
    • 5. 社会学的観点 395
    • 6. 教育学的観点 398
  • 索引 407

 

メモ(あまり信用しないで)

 

  • Playful Experimentation(遊び心のある実験)とか、現代でもこういう言い方が好きな人いそう。
  • "Sensory Apparatus"(感覚器官)、"Motor Apparatus"(運動器官)みたいな言い回しは、ピアジェにもでてきて、ちょっと特徴的な言い回しだな、と思っていたのだけれども、これはグロースの時点ですでに使われていたのか。 
  • 影響を受けた議論として、Schaller, Lazarus, and Colozzaの三人を挙げている。
    • ユリウス・シャラー Julius Schallerは、スペルがフリードリッヒ・シラー Friedrich Schiller (1759-1805),に似ているがどうやら心理学者?
    • こちらに紹介がある(ドイツ語)

      Julius Schaller (1810-1868): "Das Spiel und die Spiele" von 1861

    • Schaller, Julius(1861),Das Spiel und die Spiele: Ein Beitrag zur Psychologie und Pädagogik wie zum Verständnis des geselligen Lebens(自動翻訳:ゲームとゲーム:心理学と教育学、そして社交生活の理解への貢献)
      • 340ページに及ぶ著作らしい。
      • タイトルのDas Spielの"Das"はドイツ語の中性名詞用の定冠詞(theみたいな)、Dieは女性名詞用の定冠詞。(der Spielは無いということなんだろうか?)
      • シャラ-の議論ですでに、社会と遊びの関連性を考えようみたいな話はあるっぽい。
      • シャラ-は、「シラーは言い過ぎ」とマジレスしているようだ。まあそうだよね。
  • Lazarusもドイツ人。Lazarus(1883), "Über die Reize des Spiels" (ゲームの魅力について) が複数回引用されている。
    • ドイツの遊び研究所の解説が非常に長く、読み応えがある。

      https://www.ludologie.de/blog/artikel/news/moritz-lazarus-1824-1903-ueber-die-reize-des-spiels-von-1883/

    • M.J.エリスも引用しているし、ホイジンガにも影響を与えていて、19世紀後半の遊び論のなかでの重要人物と言って良さそう。上記の解説だと、「ゲーム学の創始者の一人」としている。
    • 人の回復に遊びが寄与するという話は、Lazarusがしているらしい。
    • マジック・サークル相当の議論も、ラツァルスがすでにしているとのこと。
    • グロースに影響を与えた著者の系譜としてはラツァルスがかなりでかそう。
  • ColozzaはCOLOZZA, Giovanni Antonioでイタリア系の人。Colozza(1895) Il giuoco nella psicologia e nella pedagogia.(心理学と教育学?)が引用されている。科学的な教育学の探求のようなことをやっていたようだ。

 

 

 

グロース(1896=1898)『動物の遊び(Die Spiele der Tiere)』について

グロースの本はドイツ語なので、議論の対象となっているのは基本的に「Spiele」。

英訳については、下記 Internet Archiveにある。

archive.org

目次は以下の通り(※とりあえずの自動翻訳です)

  • 編集者まえがき iii
  • 著者まえがき xvii
  • I. — 遊びの余剰理論 1
  • II. — 遊びと本能 25
  • III. — 動物の遊び 82
    • 実験...85
    • 動きの遊び...99
    • 狩りの遊び...120
      • a. 実際の生きた獲物を使って 120
      • b. 生きた模擬的な獲物を使って 123
      • c. 生命のない模擬的な獲物を使って 130
    • 闘争の遊び
      • a. からかい 136
      • b. 幼獣どうしの格闘. ... 139
      • c. 成獣どうしの遊び半分のような格闘.. 145
    • 構築的芸術...152
    • 看護遊び...167
    • 模擬の遊び...178
    • 好奇心...214
  • IV 愛の遊び...229
    • 若い動物たちの愛の遊び。 ... 253
    • 動きの芸術による求愛... 257
    • 変わった形や 美しい形や色を見せびらかす求愛...265
    • 音や声による求愛...271 
    • 雌の媚態...283
  • V. — 動物の遊びの心理学 ... 287
    • 有機的選択に関する編集者付録... 329
  • INDEX...333

 

(下記、雑なメモなので、あまり信じないください)

  • 編集者序文:遊びが「模倣」であるのならば、どうやって遊びでない模倣と、遊びの模倣を区別するのか、という話に言及されている。
  • 第一章:M.J.エリスなどによってもとりあげられているスペンサーの余剰説批判の章。遊びを「余剰エネルギー」とする立場を批判し、遊びを「本能」として位置づけている模様。
  • 第二章:獲得形質が遺伝しない代わりに「遊び spiele」があるじゃないか?的な着想があるっぽい。
    • 文化の伝達メカニズムの重要なキーとして遊びを位置づけるという発想は、面白い。
    •  
  • 第三章: