Critique of Games メモと寸評

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「豊かな批評」の話のつづき

どこからが豊かな批評なのか - Critique of Games メモと寸評 のつづき。

 

松永くんからのコメントもらったのだけど、ここ数年Twitterを見すぎないよう、15分以上Twitterを見るとはじき出される設定にしているので、こちらでコメント返します。

事実確認的なポイントを2点と、余談。


.ラーメンの批評は、マンガでコミカルにされているというよりも、ラーメンオタ界隈が賑わってかなりオタの言語も豊富になってきたことをうけて書かれているのが、『ラーメン発見伝』の作品であるという印象。かなりの語彙を操る事のできるガチ勢が数千人レベルでラーメンの場合はいるだろうと思われる。
 コミカルな表現というよりも、ベタにガチ勢っぽさが漂っている。5/28までは、3巻まで無料公開中とのこと(よく無料公開している)。
https://ebookjapan.yahoo.co.jp/books/117845/

 

.キーボードは、確かに7割は、機能についての会話ではある。だが、キーキャップにハマり始めると、「どのキーキャップを合わせるのがかわいいか」に拘りはじめる人は、多いので、機能について議論していたはずのコミュニティが一周まわって、謎のフェチになっていっている感じがある。
一番わかり易いのは、artisan keycaps とかで、何の機能性もなくて、単にワンポイントアクセントになっている。
https://yushakobo.jp/product-category/artisan-keycaps/

あとここらへんのキーボードとかは、かなり見栄えのかわいさを考えている感じはある。
https://www.pinterest.jp/complexequality/keyboard/

キーキャップに関しては、海外キーボードコミュニティのredditとかだと、かなりスレが伸びる状態になっていて、これも数百人レベルでは、結構高度な語彙を駆使する人たちがいる印象。キーボードコミュニティはそういうわけで、それなりに「かわいいは正義」的な世界でもある。

 

<キーボードコミュニティにおいて「かわいいは正義」であることを示す事例。>

#まじな話、けっこう多くの人が「かわいい」を気にしている。そうでない人もいるけど、正直、zincとかnomu30は、めっちゃかわいいと私も思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自作キーボードのここらへんの文化は、強いて言えば、車とか、バイクとかで、機能について論じると同時に、暴走族的な感じの人がごりごりに改造車をつくってゴテゴテにしたバイクとか、トラック野郎の人のビカビカのトラックとかあるけど、ああいうノリにある意味で近いのかもしれない。(やってる人の層と、ノリは全然違うけども)

 自作キーボード界隈にも「光らせる」派の人と、「光らなくてもいいよ」派の人がいて、私は光らなくてもいい(むしろ、光らないでほしい)派なのだけれども、光らせる派の人とかは、なんかビカビカしてるのが好きなイメージ……。

 最近の自作キーボードは、かなり細かい設定で光らせることができるからね……。

 

<光るキーボードの例。>

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして並べてみると、なんか、みんな、KAWAIIIIII!しか言ってなくて、最高に語彙力がなくてテンションがやばみな感じだけど、こういう、語彙力がないかわいい感じと、ストレートに技術っぽいトークで占められるのが自作キーボードコミュニティの風景という感じ。よくよく考えると、まあ、確かに批評っぽいテキストはあまりない……。

 例外としては、大岡さんのエンドゲーム(究極のキーボード)論あたりは、キーボード界隈で唯一批評的な何かを感じさせるテキストにはなっている。

【薙刀式】エンドゲームはどこにあるか: 大岡俊彦の作品置き場

 究極のキーボードを手に入れること自体がキーボードコミュの目的なのではなく、キーボードに対する知識やメンテナンスの能力を身につけることが、実質的に「究極のキーボード」に近づくことなのではないか、というキーボードコミュの「究極の目標」に対するメタ的な議論をしている。これは、まっとうに批評的な種類のテキストと言ってよいように思われる。ただ、大岡さん以外で、こういうタイプの議論をする人をあまり見ない。

 みんな、語彙力のなさみがヤバみな雰囲気を楽しんでいる感じもするし……。

 

 

ほぼ余談

斎藤公輔さん(『風呂』の作者でもある)の室外機に対するマニアックな話とかは、さすがに芸術形式的な話にするのはかなり、無理だろうなと思う。

室外機が愛おしいのでフィギュア化してみた :: デイリーポータルZ

斎藤さん以外に室外機について、アツく語っている人を見たことがないし、室外機の配置をしている人も、斎藤さんのような人を見たこともない……。

 

とはいえ、斎藤さんの工藤さんの「東横インファン」2人の対談とかになると、「対話」は成立しはじめているが、

www.excite.co.jp

東横インは、まあ難しいだろうな………。

 

どこからが豊かな批評なのか

#本記事の想定読者はラーメン界隈の人ではないので、ご了承ください。

 

松永くんの「ビデオゲームは芸術か:『ビデオゲームの美学』3章をわかりやすく書く」を読んだ。

http://9bit.99ing.net/Entry/96/

 

 大筋の議論は勉強になったというか、松永くんにいままで聞いていた話をあらためて、まとめているという感じでよかった。

 で、こまかいツッコミで、恐縮だが、

 「ラーメン文化」をビデオゲームとの引き合いに出しているが、『ラーメン発見伝』(5巻まで読んだ)『らーめん才遊記』(全巻読んだ)感じからすると、ラーメンは結構それなりの批評が成立している感じがする。

 

<ラーメン文化の「批評」>

 

■評価対象の同一性が問題になりがち。
→「二代目」「跡継ぎ問題」「バイトくんが臨時でつくったラーメン」が、「真にその店のラーメンと言えるのか」という問題はしばしば発生している。(これは、再現に関わる技術的な問題や、オペレーションの質の問題であることが多い。ので、リメイクとかとの問題とは違うが)

■当のカテゴリーならではの特徴が問題になりがち。

→『ラーメン発見伝』知識で言うと、「札幌味噌ラーメン」「博多とんこつラーメン」の範囲はしばしば問題になっている。(味噌ラーメンのレシピのバリエーションとして、どこまでがアリか、というタイプのカテゴリーの問題が頻出している。どこまでが漸進的イノベーションで、どこからがカテゴリーを脱するタイプのイノベーションなのか。)

 →どこまでが、ラーメンなのか問題でいうと、『ラーメン発見伝』の中で、日本のラーメンを、台湾で売るときに、かなり台湾カスタムしてしまうことが多いという話が論じられている。日本と台湾のラーメンの違いとして、特に麺のコシの硬さが問題になっていて、「日式ラーメン」は、一定程度以上の麺の硬さが重要だという基準が示されている。

→また、「パスタ」や「うどん」「そば」といった他の麺料理との違いについても、ちょいちょい議論になっている。とりわけ、トマトラーメン系だとパスタとの違いは意識されがちだし、ストレートの太麺だとうどんとの関係性は意識されがち。(だいたい、そういう場合「かん水」あたりが論点になりがち)

■評価や作品記述の語彙が豊富。

→かなり豊富な語彙がある。グルタミン酸イノシン酸等の説明にはじまり、麺、スープ、具材、その合わせ等に関して、かなり整合的な説明が試みられている。

→ただ、ゲームと違うのは、ラーメンについては、一般のお客さんは、そこまで豊富な語彙をもっていないことは違うかもしれない。プロや、ある程度のマニアでないと、ラーメンについての語彙を使う人は多くないだろう。

サブジャンルが細分化されがち。

サブジャンルで言えば、味噌、醤油、豚骨、塩などに加えて、家系ラーメン、二郎系、天下一品系……。そして、『ラーメン発見伝』の中で繰り返し論じられるのが90年代のニューウェイブ系ラーメン……。

サブジャンルの細分化自体は、かなり頻繁に行われているといった印象。

 

 

 ラーメンでは、通常、何かを表象しているわけではなく、ラーメンの香りや、見た目が与える印象は、その先にあるラーメンの味覚のシグナルなのであって表象ではない。(※「香り」や「見た目」自体がラーメンを食べるという行為の欠くべからず一部であるという話もあるだろうが、ややこしいので、ちょっとパスする)

 その意味で、ラーメンはなにかの表現形式であるとは言えず、その意味では、「芸術形式」とは言えないだろう。ただ、松永くんが言うところの制度説によって明確に排除しやすいタイプの文化カテゴリーではないように思われる。

 具体的に、ラーメン評論家として活動している人にどんな人がいるのかは、あまり詳しくないが、

 

例えば、下記の田中一明さん(本業は官僚)のテキストなどは、十分に批評の豊かさの一端を感じさせる。

www.syokuraku-web.com

 

ある種の批評実践、批評のコミュニティというのは、表象形式であるかどうかは関係なく、おそらく

1.多種多様な創意工夫をする余地があり、

2.一定以上の制作物の需要者がおり

3.かつ、需要者が熱心に言語化しようとするモチベーションをもっている

状況であれば、批評のコミュニティ自体は成立するんではないだろうか。

 

<キーボード文化の批評>

 

昨年から、私は、キーボードの配列&自作キーボードコミュニティにいるけれども、そこでも批評に近い行為はそこそこ成立している気がする。
とりあえず、物理系のキーボード界隈だけで言っても、下記の三点はかなり満たしている。

  • 評価対象の同一性が問題になりがち。→ 現世代のRealforce R2と旧世代RealForceの同一性は、親指シフターの間では、かなり大きな論点。
  • 評価や作品記述の語彙→めっちゃ豊富。キースイッチの荷重特性とキーキャップの細かい話だけで、数時間は余裕で潰せるだろうと思う。配列に関しても、やたらと概念が豊富。
  • サブジャンル→RS、CS、格子配列、3Dキーボードといった大くくりのジャンルに加えて、いろいろな細かな違いが論じられている。配列のサブジャンルについては、昨年つくったこちらを参照。

 ただ、「当カテゴリーならではの特徴」となると、これは正直、議論が薄い。ソフトキーボードと、物理キーボードの違いが自明すぎる。ワイヤレスプロジェクションものとか、いくつかの変わり種はあるが、ソフトキーボードと、物理キーボードのボーダーラインに横たわっているものがあんまりない。敷いて言えば、Nomu30みたいなちっこいキーボードをどこまでミニマムに突き詰められるか的な話はそれなりに意識している人はいる。

keys.recompile.net

 とはいえ、キーボード界隈は、比較的、みんな仲良くキャッキャウフフしている系のコミュニティなので、あんまりゴリゴリ煽るタイプの人というのが多くない(大岡俊彦さんは、結構あおり気味で書くけれども)のもある。
キースイッチの荷重特性の話は、道具の機能性の問題で語れるところも多いが、「どのキーキャップが良いか」みたいなのはファッションの問題と近いので、もう少し論争的になってもよさそうではある。

 

 話をまとめると、いわゆる創意工夫が可能なタイプの趣味文化。最近でいうところのCGMUCC的なコンテンツが成立する一定規模以上のコミュニティだと、「マニア」筋の人はまあ、だいたい、かなり詳細な語彙/サブジャンルの意識/同一性の議論とかはしがちだと印象がある(マニアでない人はさておき)。

 オーディオマニアしかり、ファッションオタしかり。

 まだいろいろ深堀りできそうな、面白い論点であるように思う。

 

 

 

 

 

『連ちゃんパパ』よんだ/「クズ」への許容の限界をつきつける作品

 
 #ネタバレを含みます
 

www.mangaz.comざっくりした感想

  • 話題になっていたので読んだが、たしかにこれはクズいなと言われているのはよくわかった。いろいろと酷い。
  • ネット上だと『闇金ウシジマくん』と比較しての議論が多いが、『じゃりン子チエ』のテツや、『こち亀』の両津勘吉と比較して個人的には読んだ。
  • じゃりン子チエ』の場合、「ろくでもないクズ」とされがちな人間に対するポジティブな読み替えが何重にも計られていて、あれはかなり「クズ」に対する救いのある話であるし、じゃりン子チエのテツは連ちゃんパパと比べると相対的にはかなりマシだろう。現実には、かなりヤバいタイプの人物だとも思うのだが、連ちゃんパパに比べれば子供に対する愛情表現もわかりやすいし、レイプとかもしない。
  • 一方で、『連ちゃんパパ』は、まあ、だいたい救いがない。ただ、それでもパチンコ依存症の人に対するポジティブな読み替えがまったくないかというと、そういうわけでもなく、そこのところは、いくらか部分的にはなされている。基本的には「だいぶ酷いクズ」なのだが、それでも、そこには希望をもつことが可能なエピソードがいくつか挟まれている。これは、「クズの物語」のなかで見られる救いであると同時に「あの人本当はやさしいのよ」的な、いわゆる「共依存」とか「イネイブラー」系の概念を導くタイプの話でもある。息子の浩司くんは、ACの息子だが、これが連チャンパパの息子ではなく、DVされている妻か何かだったら、これは「クズに居場所を与えてしまう物語」として読まれただろうな、という気がする。(つまり、倉田真由美の『だめんず・うぉ~か~』にしばしば出てくるような女性たちとかを想像するとよい)
  • ただし、それを「クズに居場所を与えてしまう」ことは単に断罪すればいいわけでもなく、「酷いクズ」の中にのこっている優しさや善意は、やはりそれでも最後に残る人間に対するギリギリの希望のようなところがあり、そこのところを「共依存」とか「イネイブラー」的な概念と類似のロジックで否定するのもなあ、という難しい側面を語っている物語であるようにも思えた。
  • 暴力金融の借金取りのおっさんと、浩司くんがいなかったら、確実にこのパパはさらに酷いクズになっているわけで、わずかに残る善意は周囲の人間からの善意を期待するまなざしによってわずかに支えられている。浩司くんいなかったら、この人はどこまで堕ちるのか、底が知れない。
  • 「クズをどう救い出すか」というのが難しい話だよな、ということをしみじみと思う。
  • こち亀』の両津勘吉を思い出したのは、あまり説明はいらない気はするが、まあ、両津勘吉も、コメディタッチで書かれているものの、あれがギャグ漫画でなければ、両津勘吉も大概なクズのおっさんでありうるわけで、両津を「下町にいる、愛すべき優秀なこまったおじさん」ぐらいのトーンで描き続け、しかもこれだけ長くメジャーな影響力を保てている『こち亀』というのは、本当にすごいマンガだなあと思う。『こち亀』の両さんも、ヒドいことはいろいろとやっているが、まあ、あんまり陰湿なのとかはない(ハズ)
  • 「クズ」に対して、ステレオタイプとしての「クズ」ではなくて、「愛すべき困った人」という枠組みで対応しようとしているのが『こち亀』や『じゃりン子チエ』といったマンガである(ある意味、『ドラえもん』ののび太くんなんかも広い意味では同じ)。ただ「愛すべき困った人」という眼差しで、回収可能な範囲の限界を突きつけてくる試練を与えてくるような話が、この「連ちゃんパパ」だと思う。
  • そのような側面、つまり、この作品が単にエグい作品だということではなく、主人公の連ちゃんパパが「唾棄すべき人物」でありながらも、なお僅かながらも「愛すべき側面」があるという描写があることを考え合わせると、この作品がなぜ、コミカルな絵柄であるのかということも理解可能なように思う。もちろん、作者の人の絵柄がこれしかないから、というどうしようもない理由もありうるのだろう。しかし、単にそういう問題だけでもなかろう。「コボちゃんの絵柄でウシジマくんなのが、むしろエグい」というタイプの感想もわかるが、これは、単にエグいということを狙っていたというよりも、「愛すべき側面」が僅かにでも残っているからこそ、この絵柄を維持する意味はあるのだろうと思う。
  • 敬虔なクリスチャンの家庭が、一時期、連ちゃんパパをいかにして受け入れうるかというところで、ご苦労をされる話がでてくるが、私は多分あのクリスチャンのご家庭の方が感じたであろう苦労みたいなものを、特に感じ取りながら読んだのだと思う。
  • 昔、学生がダベっているのを横から聞いていて、いわゆるコミュ障っぽい他の学生をディスりまくっていたのを横で聞いて「いや、まあ、でもねえ。そういった人も、社会的にきちんと生きていけるためのサポートっていうのをみんなでしていかなきゃいけないからね。」と、一言だけ言ったら、キョトンとされたことがあったが、そのときのことを思い出した。
  • 話の観点は変わるが、ここまで来てしまっただいぶ酷いギャンブル依存の患者をどうすればいいかと話になった場合、家族などがDVだとかウツだとかの被害を被っているのであれば、家族から切り離すという判断が妥当なんだろう。しかし、悩ましいのは、息子の浩司くんに対してはいろいろとひどいけれども、DVはなく、しかも浩司くんは、パパと切り離されたくないと思っているわけで、連ちゃんパパもあれでも、まあ息子を大切にはしている(300万でアレしたエピソードはホントに酷いとは思うけども)。こういう状況だと、息子と親を切り離すという判断は難しいケースであるように思う。これで、連チャンパパがDV・虐待とかも役満でやっていたら、待ったなし児相案件だと思うんだけれども。
  • まあ、そこらへんの外部からの強制介入が難しそうだというボーダーライン感も含めて、この親子関係は、難しい話だと思う。まあ、レイプの話とかは、警察が介入して逮捕にもっていけると思うので、そこで捕まってたらもうちょっと話はボーダーライン状態とは違う状態にはなったろうと思う。しかし、こういう酷い親であっても、浩司くんにとっては、養護施設に行くのとどっちがよかったのだろうか。
 

こまかいツッコミとか

  • あと、精神医学系の概念がいくつか登場するが、パチンコ依存の際に精神科医DSMではなく、クソみたいな心理テストをやっているのはまだいいとして、息子の浩司くんが何も喋らなくなったときに「自閉症」と言ってしまうのは、さすがにアカンだろうと思う。まあ絶版になった昔のマンガにこう言うのも詮無いことではあるが。あれは、順当に考えたら何かしらの強いウツ症状ではないか。いまだに自閉症児に対して「育て方が悪かった」系の誤解がされることが多いけれども、そういうタイプの誤解を育んでしまう。自閉症も、ウツも、躁鬱も、統合失調症もすべて「精神病」というレッテルで処理してしまうタイプの雑さだなあと思う。
  • 和菓子屋の跡継ぎ話はけっこう絶句した。連チャンパパとママがクズいのは、もう仕方ないが、そこでさらにあんなクズ一家が登場するのもすげー話だなとおもったが、ああいうタイプの旧い血統的な「家」意識をもった家庭は、昭和の時代には、おそらく私の感覚よりは相対的に多かったのだろうとは思うが……。
  • 『ウシジマくん』の場合は、西洋的バイオレンスホラー的な直接的暴力を描くと同時に、ウシジマくんの内面はほとんど描かれずウシジマくんという人間の全体像を描かない。それによってウシジマくんという人間を「人間」として理解することができず、何かそれが妖怪か何かであるような不可視の領域をもった存在としての日本ホラー的な「不気味さ」をも描いている。(まあ、単にあえて、語りすぎないタイプのバイオレンスものっぽいということもできなくはないのかもしれないが……)。いずれにせよ、ウシジマくんは基本的によくわからん。それに対して、「連チャンパパ」はもともとは、教育者だった人の人格が依存症によっていろいろと壊れていく話なので、ちょっと方向が違う。
  • しかし、依存症の話とかをいろいろと聞いていると、何かしらの強いストレス要因が幼少期なり、現在形なりで存在するような人でないと、パチンコにせよ薬物にせよ快感を得る度合いは低いという話をよく聞く。連チャンパパの場合は、それが妻の疾走と突然の借金が契機になったのだと思うが、弁当屋の主人がパチンコ狂いに唐突になっていく下りはよくわからん。連チャンパパの世界観だと「それまで遊びを知らない人間は、一挙にハマる」(&チョロい)となっているが、そういうもんだろうか?そういうタイプの症例も確かに少なくないとは思うが、隠れた要因として、別のストレス因子とかが必要な気がするので、「それまで遊びを知らない」というだけで、そこまでハマるとは思わんのだけれども、ここらへんは、実証的にはどうなんだろうか。
 

ゲームは「クズ」を描けるのか?

 
 もう一つ、ゲームの人間としては、こういうタイプのクズってゲームはどう描写してきたっけな、ということを思った。

ざっくりメモしておこう

 

1.プレイヤーキャラクターがクズ

 1A:一周目から、クズプレイ前提:GTAシリーズ、トロピコ

 1B:クズプレイも可能だが、2周め以後にクズプレイが多め:ギャルゲーのハーレムエンド、MGSの殺しまくりプレイ、UNDERTALEのジェノサイドルート。

 

2.敵NPCがクズ

 いくらでもあるし、勧善懲悪パターンの物語においては普通すぎるので省略。

 

3.味方NPCないし、そのボーダーラインのキャラがクズ

 ・「たらし」系のイケメンキャラはそこそこに出てくる印象。(そんなにクズというほどかどうかは謎だが)

 ・あと、ヤクザとかマフィアとか、ブラックコミュニティものの話は必然的にそういう人も登場するが、それは、個人の資質としてクズというか、「ブラックコミュニティの人」ってか感じだからなあ……。そういった、コミュニティの慣習や、コミュニティによって正当化されるタイプの暴力というのは、ごく個人的な動機に貫かれた暴力と比べると「クズ」感は薄い。

 ・ウィッチャー3の、地方領主のあの人は、なかなかに深みのある「クズ」。

 

 メディア的な特性ということになると、やはり、ゲームのもつ「安全な場所」感というか、「虚構の活動」的な側面というのは、プレイヤーキャラクターのクズ行為をそれなりに楽しませてしまう側面があるのは確かで、それについて書いている人は誰かいるのだろうか。

 

  

 
 
 
 
 
 
 
 

ゲームとダイエット

 ゴールデンウィーク前に、BMIが23ぐらいになっていたのを、ゴールデンウィークでBMI22まで減らした。別に激ヤセとかではまったくないけれども、30歳を過ぎたあたりから、油断すると体重が増えていくので、半年に一回程度は体重維持をしている。

 さて、ゲームとダイエットというと、『計るだけダイエット』および、その派生のゲーミフィケーション的なサービスを思い浮かべることが多いしれないが、今回少しだけ痩せたのは、『FF7R』のおかげである。別に『FF7R』でなくとも、ある程度以上に面白いまったり進行ではないゲームならばなんでもよかった。
私のダイエットにとって重要なことは、早めに時間に夕飯をとったあと「夜に何も口にしない」ということをどれだけ徹底できるかということに依っているからである。何か、熱中できるタイプのことがないと夜中についつい夜食を口にしてしまったりしてそういうことをしていると痩せない。あまり食べないでいても気にならない程度に熱中できるなにかがあれば、これは機能する。
もちろん、他のダイエット手法も併用はしていて、

  • 1.炭水化物の制限 → あまりがっちりと制限はしていないが、少し意識する程度に炭水化物は控える。
  • 2.夕食を早めに → だいたい19時までには食べてしまうようにしている。これより遅くなったら、夕食を軽めにする。昼までは特に制限はかけない。
  • 3.運動 → できるだけウォーキング等をする。
  • 4.頻繁な体重測定 → 風呂に入る前に毎日測定。(スマホとデータ接続できる体重計を買ったが、アプリの不良でただの体重計になっている。)

 という感じで、そこまで極端なカロリー制限はしていない。ただ、夕方から寝るまでの間の以後の食生活については気を配っている。
そこでダイエットに貢献してくれるのが、そこそこに熱中できるゲームの存在である。
いままでで一番、文字通り「食べることを忘れて」遊んでいたゲームだと『ディスガイア』(PS2)だけれども、本当に食べることを忘れてしまうと今度はそれはそれで健康に悪いので、「そこそこに熱中できる」程度に面白いのがよかろうと思う。

 

余談:
 ちなみに、『FF7R』のムービーシーンは、音声を英語に切り替えてシナリオを楽しむというより、リスニングのトレーニングだと思いながら、聞いていたのだが、最後のほうでセフィロスが「ここが世界の端だ」(日本語字幕)みたいなセリフのときに、英語のセリフだと「here is the edge of creation」(ここが、創られているいるものの端だ)とか英語では言っていて、自己言及のしすぎて笑ってしまった。日本語圏だとあまり話題になっていないようだが、英語圏のゲーマーには相当ウけたらしく、「あのedge of creationシーンが」とか、もう共通了解のようなミームにまで発展していた。

 

お知らせ:シリアスボードゲーム『コモンズの悲喜劇』

 私が作成に関わっているシリアスボードゲーム『コモンズの悲喜劇』の情報が公開されました。「共有地の悲劇」に関わるジレンマを体験できるゲームです。
けっこう何度もテストプレイをして、こちらの想定する手順で楽しんでいただいた方には、かなり好評を得られているという感触をもっています。SBGJ2019でも最優秀賞をいただきました。
 ゲームプレイの感触としては、遊んだ方からは、「モノポリーベースに人狼をまぜたような感じ」というようなコメントをもらいます。

 全体のコンセプトメイキングとディレクションは、藤枝侑夏さんが中心で作品としてのあり方のコアは藤枝さんです。私はルールの原案、調整、ルールブックの作成などを主として携わっています。

 3月8日にゲームマーケットにて、販売予定です。

 

ゲームマーケット宣伝ページ:

コモンズの悲喜劇 | 共有地の悲喜劇 | 『ゲームマーケット』公式サイト | 国内最大規模のアナログゲーム・ テーブルゲーム・ボードゲーム イベント

『コモンズの悲喜劇』ウェブサイト
https://tragicomedy-c.jimdofree.com/%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

 

www.youtube.com