Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

ゲーム関係で複雑系の階層的な創発(emergence)について扱っていると思われる論文メモ

 

井上がゲームを論じる際に使う「創発」概念について

 基本的には、事象の複雑性のレイヤーみたいな話を前提にしている。

 ビデオゲームについて、emergenceというと、どちらかというと自動生成的(generative)な意味でのemergenceの用法が強いので、私が問題にしがちな複雑性のレイヤーみたいなタイプの発想での議論をする人が、今ひとつ見つけにくい……

 創発概念は、私が議論展開をする上では、ごく基礎的な前提なのだけれども、独り相撲してるところが多いと、なんだかなー感がある。このモデルで少なくとももう10年近く考えているのだが、なんだか孤独感がある。

 私の議論については、興味のある人は、

Soler-Adillon, J. (2019)

 

 昨年、Game Studiesに掲載された、Soler-Adillon, J. (2019). The Open, the Closed and the Emergent: Theorizing Emergence for Videogame Studies. Game Studies, 19(2).でも、私が論じたいタイプの意味とは、方向性がちょいずれ感がある……

 

創発は、オープンゲームとクローズドゲームのパラダイムを区別する2つの基本的なゲーム構造の1つとして提案されています:創発ゲームと進行ゲームです。最初のカテゴリーは、ほとんどの伝統的なゲームや一部のビデオゲームに関連しています。これは、比較的小さな要素とルールのセットから始まり、複数の可能性のある結果を持つことができるゲームを含みます。2つ目は、プレイヤーが事前に決められた一連の課題をクリアしなければ進まないゲームのことを指します。これは、宝探しのような伝統的なゲームもそうだが、パズルやクエストを解いたり、画面やレベルで構成された障害物を乗り越えたりすることが、ゲームを進める上での基本となる既存のビデオゲームの多くがそうである。本稿では、ゲーム研究におけるエマージェンスの活用は、このような複雑な概念の可能性を最大限に引き出すには不十分であると主張する。エマージェンスという言葉とその使い方を明確にすることで、ゲームの理論化が広がり、可能性の開かれた空間を指すものと、厳密な意味でのエマージェンスを分離することができる。オープンとエマージェントという概念を区別することで、ゲームデザインに関する言説を広げることができる。これにより、ゲーム研究者は、デジタルゲームにおける自己組織化現象を説明することができ、また、デザインの過程においても、ゲームのモデルプレイヤーに関しても、創発的な新規性の出現を説明することができるようになるだろう。

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 1つ目の意味も、2つ目の意味も私の議論には関係ない……。

  

 ただ、もう少し、下のほうまで読んでいくとライフゲームや、「弱い創発」「強い創発」概念、自己組織化、新規性(novelty)の問題についても、一通り論じている。

 ただ、Juulや、Zimmermanの話しを位置付けなおすぐらいのところが多くて、なんというか、もどかしいぞと思いつつよみすすめたが、結論には完全に同意。というか、私も繰り返し主張していることである

 

結論部の自動翻訳

Juulや他のゲーム研究者が指摘しているように、いくつかのゲーム構造は広い確率空間を持ち、結果が予測できないものがある。そのようなゲームのリプレイは、まさにそのような理由でプレイヤーを魅了します。どんなポンゲームも前のゲームと全く同じだとは思われないし、マニアックなマンションを繰り返しプレイすることは確かにデジャヴュのように感じることができる。

しかし、ここでの議論は、ゲームにおけるこのような構造を特徴づけるためには、「オープン」という言葉や、広くて深い確率空間の概念を使うことが有用であるが、「創発」という言葉は別の何かを説明するために残しておくべきだということである。この提案の目的は、オープン/クローズ、あるいはエマージェン ス/プログレッシブという二分法に第三の要素を加えることで、ゲームデザインの用語を豊かにすることである。これにより、(1)デジタルゲームにおける自己組織化現象(複数のエージェント(人間でも人工でも)が相互に干渉せずに一つのレベルで相互作用し、その相互作用が観察可能な上位レベルのパターンを生み出す)と、(2)ゲーム内の新規性を二つの方法で説明することができるようになる。第一に、ゲームデザインプロセスにおける新規性の勘定について。この考え方は新しいものではなく、ゲームデザインの基本戦略であると普遍的に認識されている反復設計は、まさにその通りである。これは、基本的にはERTM(emergence-relative-to-a-model)と同等のパラダイムの下で機能します:既知のシステム構造がテストされ、いくつかの新しい機能が発見されると、それらはシステムのモデルに組み込まれ、新しいものではなくなります(または望ましくない場合は、システムはそれらを回避するように微調整されます)。第二に、ゲームがリリースされると、新しい戦略やメカニックなどが現れるかもしれませんが、もしゲームデザイナーが予測していなかったとしても、「モデル」がデザイナーのものであることを理解すれば、ERTMのパラダイムに適合するでしょう(スミスの創発的ゲームプレイ)。また、それらはプレイヤーにとって新しいものであっても、ゲームがどのように機能するかという一般的な知識に組み込まれるまでの間だけである。これに伴い、モデル・プレイヤーを言説に導入することで、デザイナーは(モデルの)プレイヤーのための創発的な新しさを予想することができ、それによってデザインのプロセスにこの考えを導入することができるようになる。

したがって、オープンとエマージェントという概念を分離することは、ゲームデザインに関する言説の幅を広げる一方で、それらを混同することは、ゲーム研究のパラメーターに有用なエマージェンスの理論を展開することを妨げることになる。以上のように、ゲーム研究においては、閉ざされたものと開かれたものと創発的なものを分離した方が、より実りあるものになるという理解のもとに、提案されたアプローチが提示されている。

 

 

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著者はこういう方らしい。 

https://pure.royalholloway.ac.uk/portal/en/persons/joan-soleradillon(d49515bf-dcf0-465f-8379-438e6cb60ac9)/publications.html

 

 

Sutton‐Smith, B. (1992). The role of toys in the instigation of playful creativity. Creativity Research Journal, 5(1), 3-11.

Summary自動翻訳

玩具は通常、社会科学の分野では、その現実的な機能や適応的な機能の観点から議論される。家族の絆を結ぶ贈り物として、成長の道具として、自分で動く機械として、あるいは消費者の対象として、おもちゃは文化の規範的な目的に貢献していると考えられている。本論文のデータは、これらの機能的パラダイムが、おもちゃが子ども自身の想像力豊かな生活にどの程度まで同化し、変容しているかを過小評価していることを示している。証拠は、子どもの好きな遊びについての子どもの語り口から提示されている。さらに、この論文では、おもちゃの記号自体が日常的なリアリズムの否定に寄与する方法の逆説的な性格を脱構築しようとしている。

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Pelletier, C. (2009). Games and learning: What's the connection? International Journal of Learning & Media, 1(1), 83–97.

創発の話はともかくとして、学習とゲームの関係についての議論は、私の発想に近い。

 

doi: 10.1162/ijlm.2009.0006

結論部分、自動翻訳

 この論文は、教育におけるゲーム遊びを含む遊びの理論を支えるイデオロギー的価値観を考察することから始まった。ゲームが社会的実践の中でどのように行われているかに焦点を当てるという選択は、イデオロギー的価値観をも裏切るものである。それは、人々が現代のテクノロジーの対象を使って何をするか、目的を実現するためにそれをどのように使うかを特権化するものであり、その結果、テクノロジーの展開によって、あるいは他の手段によって、教育がどのように大きく変容しうるかを発見しようとするものではないのである。つまり、技術的な人工物がどのように実現されているかに注目しながらも、それは人間の主体性を表明したり、称賛したりするものではないということである。この分析は、生産作業の組織化において、見慣れた相互作用と権威のパターンが再び内包され、繰り返された方法を示唆するものである。
 ゲームの意味づけを分析する限界の一つは、何が学習されているかについての記述を繰り返すことなく、何が行われているかについての記述を行うことが非常に困難になるということである。これは、ゲームを作ったり遊んだりした結果、学習者が何ができるのか、何が理解できるのかについて、一般化して予測的な記述をしたい人の立場からすると限界がある。この論文で提示されたデータを、メディア教育、具体的にはメディア制作の重要性という観点から解釈することは確かに可能である。学生は生産的で参加型の方法でメディアのジャンルに関わっています。しかし、学生たちはメディアやゲームについて、ゲームやメディア文化が「そこにある」存在であるかのように学んでいるわけではないように思われます。むしろ、学習と制作のプロセスは、特定の形のゲームを生み出しました。ゲームのジャンルは、大衆的なものと教室での相互作用の両方でその歴史によって特徴づけられています。これは、ゲームと学習の関係を理解するためのやや異なる方法を提供している。学習とは、ゲームの背後にあるもの、下にあるもの、あるいはゲームによって覆われているものであるというよりも、ゲームが出現する過程を説明する方法として理解することができ、ゲームがどのようにして(遊べないものも含めて)遊べるようになるのかを説明する方法として理解することができる。本研究では、学習とは、学生が特定の種類のプレイヤーやデザイナーとして自分自身を位置づけたプロセスを指す。この点では、「ゲーム」は特定の種類の実体として理解される必要はなく、特定の相互作用の方法として理解される必要がある。したがって、ゲームと学習の関係を理解する上での意味合いは、ゲームを形の集合やコンテンツの種類として定義する必要はなく、形と意味が位置的かつ戦略的なものである実体として定義する必要があるということである。

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村上征勝(2002)『文化を計る ―文化計量学序説―』朝倉書店

www.asakura.co.jp

同僚の本棚にあったのをパラパラ読んだ。

2002年とちょっと古い本で、計量化III類、主成分、クラスター分析等を使って多変量の判別をしつつ、なんとか議論を構築しているという感じの本。

簡単なメモ

 

  • コラムで書かれていたショーロホフ『静かなるドン』が盗作なのかどうなのか、という議論と、検定はわかりやすかった。文字の頻度や、語彙数などを単純な分布に変換できるデータは変換して、検定をかけるというのは、話としてはクリアー。
  • 一方で、主成分、クラスター、計量化III類といった手法を多用しているのは、若干、狙いがよくわからない印象。ただ単に、対応分析とかをかけただけだと、議論として弱い感じがあるが、ちゃんと読めばわかるのかも。ここらへん、自分も悩みどころだなと思うところがあるので、勉強したい。単純に謎なのは、なぜ、主成分分析メインで、因子分析ではないんだろう。統計に強い先生なので、なんか理由がありそうなのだが。
  • 顔の図像分析で、目と目の距離とか、鼻と口の距離とかをパラメータ化して、多変量の解析にかけるというやり方は、なるほど勉強になった。内容分析的なものを内容分析で終わらせずに、多変量の解析にもっていくという手法は、いろいろなもので参考になりそう。最近だと、ガチのデータサイエンティストの人だと、こういうのは、SVMとか機械学習系系の手法で済ませるんだろうな、という感じもする。→ ちょっとぐぐってみたら、金&村上(2007)で、ランダムフォレスト法を用いた著者同定というのをやっていた。なるほど、そういう方向にすすむだろうなというのはよくわかる。

    https://www.ism.ac.jp/editsec/toukei/pdf/55-2-255.pdf(ここで、共著をしてらっしゃる、金明哲先生は、テキストマイニング系の方法論でいろいろとやっていらっしゃる先生らしい。同志社の先生方のグループ。金 明哲 (Meitetsu Kin) - MISC - researchmap

  • しかし、「何をパラメータ化するのが妥当なのか」という話は、機械学習の話になったら、解決する問題でもないような。
  • 村上 征勝先生は、2004年にも『計量文献学の世界 シェークスピアは誰ですか』という本をご出版されていて、こちらでは著者割り出しの論点をメインで書いているらしい。ゲーム研究だと、著者割り出しの話はいまのところ、あまり大きな論点にはならないが、多変量の「内容」を分析していく手法自体は大いに参考になりそうではある。

 

www.kinokuniya.co.jp

  • 比較的最近のお仕事としては、下記のようなお仕事もやってらっしゃるご様子。基本的な枠組みは、2002年の本のフォーマットに沿っている。
  • 上阪彩香, & 村上征勝. (2014). 西鶴遺稿集の著者に関する統計分析‐北条団水の浮世草子との文体比較‐. じんもんこん 2014 論文集, 2014(3), 113-118.

ipsj.ixsq.nii.ac.jp

 

 ちなみに、金先生は、Rに出力可能で、日中韓英の多言語の解析が可能なテキストマイニングツールMTMineRというのを公開してらっしゃる。

 もっとも、KHcoderも多言語には対応している。MT MineRがすごそうなのは、ランダムフォレストとか、SVMとかそっち系の機械学習系メソッドを使った判別とか、そっち系かな?

mjin.doshisha.ac.jp

 

 

 

どこからが「ゲーム世代」なのか。

 ビデオゲームの話がまったく通じなさそうな、ご年配の方と話しているときに、

 「僕も、インベーダーはけっこうやりこみましたよ。僕も、ゲーム世代です。はっはっはっ」みたいな、申告をいただくことがたまにある。

 ぶっちゃけ、99%社交辞令的におっしゃられているだけだろうと思っているが、とはいえ、中には、ガチで、インベーダー時代にゲームに関わっていたという人もいる。ゲーム業界のご年配の方だと、実際70年代末のガチ勢は多いし、ゲーム業界外でもいらっしゃる。たとえば、学生時代に少しお世話になった冨田勝先生(57年生まれ)とかは、インベーダー世代の中では、かなりのガチ勢で、当時、ご自身でゲームを作られていたということでもあった。

 一方、「ゲーム世代」といった場合に、もう少し、一般的に受け入れられている範囲は、インベーダーよりはもう少し後が多いだろう。アーケードだとインベーダー以後、どこで区切るのかは難しいが、PC系であれば80年代初期のマイコンブームあたりで、がっちりはまった世代ということになるだろう。

 もっとも、人口に膾炙しているであろう、「ゲーム世代」という言葉のイメージは、やはり、80年代中盤のファミコンブーム以後だろうから、85年ぐらいに中高生未満だった世代ということになる。(一番上で、60年代末ぐらい)

 ちょっと整理してみよう。

 

団塊世代より上:この世代は、どう解釈しても、ゲーム世代とは呼ばないだろう。企業サイドでみると、山内溥(1927年生)、すぎやまこういち(1931年生)上村雅之(1943年生)、西角友宏(1944年生)、

団塊世代(1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)生まれ):インベーダブーム当時、ギリギリ20代で、結構やりこんだという人は多数。ただ、ファミコンブーム以後は、「子供に買い与えたもの」という印象。福嶋 康博(1947年生)、竹田玄洋(1949年生)

■1950年代中盤までの生まれ:インベーダーブーム当時20代中盤。襟川陽一(1950年生ま)、沢野和則(1951年生)、宮本茂(1952年生)、芸夢狂人(1953年)、堀井雄二(1954年生)、岩谷徹(1955年生)。

■1950年代後半生まれ:インベーダーブーム時代に20前後だった人々。マイコンブームで、ギリ大学生。ファミコンブームのときにはすでに社会人。アンドリュー・グリーンバーグ(1957年生)鈴木裕(1958年生)、遠藤雅伸(1959年生)、高橋名人(1959年生)、岩田聡(1959年生)

■1960年代前半:インベーダーブームのときに中学~高校。マイコンブームの時に大学生。ファミコンブームのときは社会人なりたてぐらい。Will Wright(1960年生)、岡本吉起(1961年生)、坂口博信(1962年生)、河津秋敏(1962年生)

■1960年代中盤:インベーダの時に中学。マイコンブームで高校生。ファミコンブームで大学生。中村光一(1964年生)。山下章(1964年生)安田 朗(1964年生)、米光一成(1964年生)、名越 稔洋(65年生)、水口哲也(65年生)、中裕司(65年生)、見城 こうじ(1965年生)

■1960年代後半:インベーダーブームのときに、10歳前後。マイコンブームで中学生ファミコンブームで、高校生という世代。西谷亮(1967年生)、古代 祐三(1967年生)、飯田和敏(1968年生)、須田剛一(1968年生)

■1970年代前半:インベーダーブームで小学校低学年。マイコンブームで小学校高学年。ファミコンブームで中学生~高校生神谷英樹(1970年生)、上田文人(1970年生)、飯野賢治(1970年生)、斎藤由多加(1972年生)

■1970年代中盤:インベーダーの記憶はおぼろげ。マイコンブームが小学校低学年。ファミコンブームで小学生~中学生。

■1970年代後半:インベーダーブームはリアルタイムでは覚えていない世代。マイコンブームにのっかるのが難しくなる世代。ファミコンブームの時に小学生で完全に直撃した世代五反田義治(1976年生)

■1980年代前半:幼稚園のときにファミコンブーム。成長とともに、パラレルにゲームの進化がある世代。

■1980年代中盤生:物心ついた頃には、SFCがあった世代。

 

 「ゲーム世代」という表現が、おそらくほとんどの場合に違和感がないのが、70年代中盤以後生まれのファミコンブーム直撃世代だろうと思う。完全に社会現象に呑まれているし、特に男性は、「クラスの友達とゲームの話ができないと、会話に混ざれない」という経験がよく見られるようになる世代だろう。

 80年代初期のマイコンブームを引っ張った60年代中盤~70年代前半ぐらいの生まれの人を「ゲーム世代」と呼ぶかどうかは難しく、判断が分かれるところだろう。

 

ハンス・ロスリングほか(2019)『FACT FULLNESS』

昨年のベストセラー本。隅々まできっちりとではないが、ざっくり読んだが、読む前に抱いていた印象がだいぶ変わった。

  • なんとなくの印象で、本の売り方のうまい欧米のライターかなんかが書いた、わかりやすい本かなんかだろうと思っていただのが、アオリがうまいだけではなく、著者らが「ガチで偉人」と言ってよい人で、どちらかというと、そちらのほうに衝撃を受けた。
  • 冒頭の「13の質問」は、あおりとしては非常によく機能しており、本の売り方としても秀逸。
  • また、ハンス・ロスリング氏自信が「ガチの偉人」なので、挿入されているエピソードの一つ一つが非常に強い印象を残す話であり、まあ、ベタに「立派」としか言いようがない話が多い。「このひと、マジで立派だなあ……」と読んでいて何回かつぶやいた。
  • 全体の内容としても、順当なメディアリテラシー/データリテラシー的な啓蒙的内容であり、ある種の編集者にとっては、これって「理想の本」なんじゃないだろうか。(1)著者本人のもつストーリーが強く(2)本のアオリとなる質問があり(3)TEDでバズりまくった講演があり事前の集客力があり、(4)内容的にも、まっとうな啓蒙と、三拍子揃っているどころか、四拍子ぐらいそろっている。つまり、「良いものがよく売れる」ということを叶えてくれる本。
  • DDTへの過剰な危惧に対して釘を指しているあたりの話は、なんだか、苦労が忍ばれた。DDTに対する、長期的な研究結果があったとしても、国際NGOの人たちとかは、まあ、DDTとかに対して拒否反応を示すような対応を取るような気はする。
  • 学生向けに使えるわかりやすい「データの読み方」的な例がないか、と思っていたのだが、扱われているデータは、基本的に記述統計学の範囲におさめてあり、統計的な検定などの話題は、あえて触れられないようにしている印象があるので、その意味では、目的の本ではなかった。まあ、それは、ただ単に私の側の想定違い。
  • 「啓蒙書」としては、これほど多面的によくできた本はなかなかないのではないか、と思えるつくりで、何かの局地にある一冊だなと思えた。

 

追記(2020年9月15日)

  • amazon reviewを読んでいたら、「人間の世界はよくなったのかもしれないが、<世界がよくなった>と書くことは、人間中心主義的なのでは」という、自然環境保護系の立場からのコメントがついていた。まあ、FACTFULLNESSは、一応、温暖化の問題には触れているが、確かに基本的には「世界は良くなっている」系の本である。また、ゴア元副大統領とのやりとりもあり、自然環境問題についての過剰な危機感をあおる報道にについても、きちんと書かれている。
  • とは言え、この「世界はよくなっているよ」タイプの主張の系譜は、スティーブン・ピンカーなどの、米国のインテリ層に見られるもので、自然環境保護派からの、ピンカーやロスリングに対する反感は、それはそれとして妥当なところはあるだろう。
  • ハンス・ロスリングのこの本も、ピンカーもどちらも、「世界はこんなに悪くなっている!」系のメディア報道に対する嫌気のようなものが感じられるもので、ピンカーや、ロスリングらの、気分は完全に同意する。テレビを見なくなってから、やっとワイドショーで、下世話なネタをみることがなくなってよかったなと思っていたのに、最近はネットでも、ワイドショー的な炎上ネタを多くみるようになって辟易しているので、本当にその気分はよくわかる。
  • しかし、では、自然環境保護派にも配慮して、バランスをとると本の全体的なトーンの保ち方はかなり難しくなるだろうな、とは思う。ハンス・ロスリングのこの本は、そういった状況を鑑みつつも、かなり頑張っているとは思うが、啓蒙というのは、難しいもんだなあ、と思った次第。

 

 

ゲーム研究という分野も歴史がないなりに10年以上が経過した

吉田さんと、松永さんの対談

news.denfaminicogamer.jp

  

 (吉田)……アドバイスはいくらでもできますが、本当のことを言えば、ゲームのことしか知らない人よりも、ほかの分野のこともたくさん知っている人の方がゲーム研究に向いていると思いますね。

 

松永氏:
 結局基礎になる学問が大事で、さっき美学について言ったことと反対に聞こえるかもしれないですが、昔ながらの学問も勉強するべきなんですよ。

 

 ここは同意ではあるのだけれども、同時に、「ああ、なんか、時代が一周したなあ」と思った。

 90年代とか、ゼロ年代に「ゲーム研究」に関わっていたアカデミシャンは、いうほどゲームやっていなかったり、ゲームに詳しくない人が多くて、私は、「井上さんは、研究者の人としては珍しく、まともにゲーマーでもある」というのような形で認知されたりしていた。

 つまり、10数年前は研究者キャリアでゲームについて、ちょろっと触れたりしている人は、たいてい「あー、あんまりちゃんとゲームのこと解ってないんだよな……」という罪悪感のある人というのが多かった印象で、ガチのゲーマーだという世代が上の研究者とは、なかなか出会う機会が少なかった。「既存の学問の勉強は、もちろん大事だけど、既存の学問に詳しい人はたくさんいるし、ほっといてもそういう学者はたくさんいるから、ゲームのことに詳しい研究者は希少」という、上記で言われていることとは逆の事態が、10数年前の状況だったと思う。私の体感としては。*1

 

 しかし、私もすっかり指導する側にまわると確かに吉田、松永の見解に同意したくなる気持ちはあって、

「ゲームが好きだから、ゲームの研究で食べていきたいので、大学院に来たいです」

 という学生が、相当数いる。

 もちろん、「ゲームが好き」で、かつ「研究も好き」ならば、ぜひ大学院に来てくださいということになるので、それは問題ない。

 「ゲームが好き」なだけの学生が大学院にすすむと、正直、困った状況になることが多い。

 修士課程だけで就職するつもりなら、さておき。

 「ゲームが好き」なだけで、博士(後期)課程まで行くというのは、指導する側としても、指導される側としても、お互いに「話が通じないなあ……」という感じになるので不幸な状況に陥りがちである。これは、クオリティが低くてダメだとか、どうこうという以前の問題になっている人が多くて、博士論文を通すこともできないし、もちろんアカデミック・キャリアを積み重ねるということは、通常ルートからはまず無理である。

 「ゲームが好き」というだけの人と比べると、「研究は好きだけれども、ゲームはそれほど」という人は、それと比べるとだいぶ指導する側としてはやりやすい。「研究」として何をやっていかなければならないか、という観点での話がまともに通じるし、まあ、たとえゲームに関する研究がうまくいかなくても、研究フィールドを変えることで芽がでるならば、アカデミックなキャリアをきちんと積むことは可能だろう。ゲームの分析としてはだいぶ、ざっくりした内容だったりすることも多いが……、まあ、「大学」の制度にのっけることは可能だ。

 

 まあ、私はまだ、大学院で単発の授業はうけもっていても、幸いに(?)、誰かを大学院に受け入れる試験の合否判定は行っていないし、直接、大学院生の指導教官としての立場もないので、今後、大学院で誰かを受け入れるということになったら、そこの合否判定は厳しくいこうと思うが、いずれにせよ、「ゲームが好きです」というだけで大学院に来ようとする学生が多いのは確かだと思う。

 

 

 10数年前までは、そもそも「ゲームの研究のために大学院に行く」などという発想をするのは、ほとんど酔狂の類だった。そんなのは一般的な学生が思いつくことではなかった

  たとえば、2011年に私が書いた文章とかだと、「私のことを、少し頭のおかしい人のように思われるかもしれない。」とか書いているし、実際、少なからぬ人に「ゲーム研究とか言ってる、やばい人がいる」とか思われていたと思う。*2

 当時は、「自分がこの分野を切り開いてやろう」みたいな気概をもった一部の特殊な人か、そうでなければ、いろいろな巡り合わせでゲームに関わる研究をたまたますることになったみたいな人しかいなかったと思う。

 

 まあ、今はよくも悪くも、「ゲーム研究をしよう」ということを考える、普通の良い子がそれなりに成立するようになったのである(ゲーム研究の総人口はさほど増えていないが)。特殊な気概のある人でなくても、そういうことを考えるようになった。

 それは、研究分野として、「一般的な選択肢」の範疇として見える範囲におさまってきたということでもある。本当にそうかというと、じゃあ、新しいタイプのメディア研究をしている人間が、科研費のどの枠に出せばいいのかとか、そういうことを考え始めると、文学研究とかと違ってゲーム研究は出すべき分野がまだだいぶ迷子であったり*3、「制度化」がなされた分野ではまったくない。

「普通の良い子」に来ていただくには、だいぶまだ整備されていない道を歩いてもらう覚悟が必要なのではある。まあ、しかし、そこに道が整備されつつあるということは確かで、歩きやすい道ではないことを覚悟の上であれば、研究の道を志す人にはぜひ、もっとやってきてほしいとは思っている。

 

2020年9月30日追記:

 この記事は、さほど考えずに書いたものだけれども、少し拡散されているようなので、蛇足かもしれないが追記しておく。

 私はいろいろな人に「ゲーム研究」をキャリアの選択肢として考えてもらえるというのは、とても光栄なことだと思っている。昔より多くの人が、ゲーム研究のことを知ってくれたという状態は、日本のゲーム研究コミュニティをほそぼそと作ってきた人間の一人としては、間違いなく嬉しいことである。

 「ぜひ、みんな、どんどん、この分野に来て!」と。できることならば、それだけを言いたい。

 しかし、この分野に来てもらったところで、来てもらった人のアカデミック・キャリアについて楽観できる状況はどこにもない。なので、残念なことに、釘を指すような物言いやや強調せざるを得ない。「ゲーム研究コミュニティにとって、嬉しい事態だからこそ、釘をさすような発言をせざる得ない状態になってるのだよね」ということだ。分野の黎明期は、誰もゲーム研究でキャリアが形成可能だとか思う人はいなかったから、そんな釘を刺す必要もなかった。けど、そういう釘を刺すようなタイプのことを事前にご了解いただかないと、まずかろうという時期にさしかかってきたということである。

 わかりにくい記事構成になってしまっているという自覚はあるが、強調したいのは「嬉しい事態だからこそ」の部分のほうにある。そのニュアンスとはちょっと違う方向で言及されるのは、やや不本意というか「最近の若者は、たるんどる」「最近の若者は、わかっとらんヤツが多い」的なことを言うのは、全く本旨ではない。それどころか、私の意図とはだいぶズレたものであることにご留意されたい。

 

追記2:大学制度の外側の研究史

 いうまでもないかもしれないが、上記の話はあくまで「大学制度」の中の話であって大学制度の外側ににあるものについてはまた別の世界が拡がっている(研究としての歴史も違う)。大学制度の外側の「研究」にも、日々お世話になってはいるものの、それがどのように成り立ち、生計を立てているのかというのは私よりも別の人に論じてもらえればと思う。

*1:私が「ゲームに詳しい人オリンピック」で優勝できるという話ではなく、ぜんぜん知らない人が多すぎた、というぐらいで理解してもらえればと思う。とりあえず「ゲームは毎日やってます」「確実に千本はゲームやってます」みたいな人は、ゲーム業界にいけば、結構な量で居ると思うが、当時の大学研究者でそういう人は、かなりレアか、いたとしても隠れキリシタン的に棲息していた。

*2:今でも、ある程度はそう思われているだろうが)。ゲームというものを研究対象として選ぶ時点で、「アレな人」だと思われるという、タイプの差別的な眼差しは、それなりに受けてきたという自覚がある。いまは、一応、名前が通じる大学に勤めているので、「へえ、そういう世界があるんだなあ」と思ってもらえているというぐらいの話で、いまだって、まあ、「在野の文学研究者」と「在野のゲーム研究者」に対する視線は、だいぶ違うものだろう。

*3:「ゲーム情報学」カテゴリーで出して通ることもあるが、「ゲーム情報学」の審査は、現状では、概ね情報工学系の先生なので、人文・社会科学の研究者にあのカテゴリーがよいのかというとかなり微妙。

Jesper Juul に対する「だめな批判」とそのボーダーライン

 たいした、エントリーではないのだが、Jesper JuulのClassic Game Model に対する、「うーん……、そんなこと言っても仕方なくない?……」みたいな批判を聞くことが多くなってきたので、短めに釘を指しておきたい。

 

1.「JuulのClassic Game Modelは、ビデオゲーム経験を上手く書き出せていない」

 

そりゃ、ビデオゲームについてのモデルではなくて、"Classic Game"のモデルなのだから、ビデオゲームのモデルになっていないのは当然だろう。東京の産業について論じた論文を見て「これは大阪の産業を論じていない」みたいなタイプの批判に近い。そりゃそうだろうけれど、それは論文の欠点ではない。

「自分はビデオゲームのモデルがほしい」というのなら、それは別の仕事になるとは思うし、video game difinitionについての議論をしたいのなら、別の論文を引いて論じればいいと思う。

 

たとえば、次のような論文がある。

https://scholar.google.com/scholar?hl=ja&as_sdt=0,5&q=videogame+definition

Esposito, N. (2005). A short and simple definition of what a videogame is.
Djaouti, D., Alvarez, J., Jessel, J. P., Methel, G., & Molinier, P. (2008). A gameplay definition through videogame classification. International Journal of Computer Games Technology, 2008.
Tavinor, G. (2008). Definition of videogames. Contemporary Aesthetics (Journal), 6(1), 16.
Karhulahti, V. M. (2015). Defining the videogame. Game studies, 15(2).

 

あと、国内文献であれば、松永(2018)『ビデオゲームの美学』でもいろいろと議論がされているので、そちらをあたってほしい。

 

2.「JuulのClassic Game Modelは、ゲームに関わる経験の全体を上手く書き出せていない」

 

 Juulの話は、ゲームに関わる全体を描くことではなく、どちらかというと、ステレオタイプの中心がどこにあるかみたいな話である。ゲームを通じて巻き起こるさまざまな現象の全体をすべて捉えようみたいなタイプの野心的モデルとかではない。プレイヤー同士のコミュニケーションの話とかのモデル化とかはほとんどされていないのは確かである。

 これは、「東京の産業について論じた論文だけでは、日本全体の産業構造はわからない」みたいな批判に近い。欠点というか、議論の限界ということになるだろう。こういう批判は合ってもいいと思うが、Juulを貶めるというよりは、まあ、Juulと自分との立場の違いの主張という形でやる分にはいいと思う。

 ただ、この手の論点をもってきて、「Juulの論理的欠陥」とか言われると、「???」となる。

 これも、基本的には、Juulを引き合いにだして批判するというより、別の論文を引いて論じたほうがいい。

 ゲームに関わるどの経験を主眼に据えるのかによって参照すべきものは違うと思うが。

 

3.「JuulのClassic Game Modelは、"Play"の問題を無視している。」

 

 "Game"の話だから、そりゃ違うだろう、という話で、単に上記の点を指摘しただけの批判だと、かなり微妙。

 「ゲームのモデル化の際に、Cailloisなど、game/playの区分をしない言語圏の論者から論点を引っ張ってきているのは雑である」という批判なのであれば、まあわかる。

 Playまで含めた、"game"概念とかを論じたいのなら、

 Brian, Sutton-Smith. (1997)"The ambiguity of play."
 とか、より広範な「遊び(play)」研究文脈の議論を参照したらよいのではないだろうか。
 

4.もっと定量的なアプローチをできるのではないか

 

 これは、一番言ってることはわかる。

 人文系の研究というか、言語の定量的な方面の研究でできるんじゃないかという批判で、プロトタイプ研究とかをやっている認知系の研究者からは当然でてくる疑問だろう。使うコーパスやアプローチによってJuulの議論を必ずしも支持しない結果は出てくることは、もちろんあるだろう(ただ、どういったコーパスを使うべきか、については議論が難しくなりそう)し、上記の批判に基づいて、建設的な話にすすむことは十分ありうるだろう。実際、下記の言語認知系の研究者は、英語のgameについては、もっと必要十分条件を満たす定義ができるという主張もしているらしい(論文が入手できていないので、定量的な研究がどうかはわからない)

Wiezbicka, Anna. (1990). ‘Prototypes save’: On the uses and abuses of the notion of ‘prototype’ in linguistics and related fields. Meanings and prototypes: Studies in linguistic categorization, ed. by Savas L. Tzohatzidis, 347–67. London: Routledge and Kegan Paul.

 

 また、何かしら定量的な研究ができるとしても、その研究のモデルが、概念モデルの記述として的確かどうか、ということについては、やはりメタレビューが必要だということにはなるだろう。

 

 また、「これだから人文学の研究は………」みたいな、不要な含みをもたせてしまうと、Juulがどうこうというか、ディシプリンをめぐる終わりなきバトルという感じになると思われるので、不毛感は強い。

 

 

***

 

 以上。

 私も、よく論文を読み込めておらず、反省すべき時は多々あるので、強烈に断罪したいみたいなことではないのだが、とりあえず、Juulのclassc game modelを批判したいということは、少なくとも上記の批判は一度、考えていただいてからお願いします。

「豊かな批評」の話のつづき

どこからが豊かな批評なのか - Critique of Games メモと寸評 のつづき。

 

松永くんからのコメントもらったのだけど、ここ数年Twitterを見すぎないよう、15分以上Twitterを見るとはじき出される設定にしているので、こちらでコメント返します。

事実確認的なポイントを2点と、余談。


.ラーメンの批評は、マンガでコミカルにされているというよりも、ラーメンオタ界隈が賑わってかなりオタの言語も豊富になってきたことをうけて書かれているのが、『ラーメン発見伝』の作品であるという印象。かなりの語彙を操る事のできるガチ勢が数千人レベルでラーメンの場合はいるだろうと思われる。
 コミカルな表現というよりも、ベタにガチ勢っぽさが漂っている。5/28までは、3巻まで無料公開中とのこと(よく無料公開している)。
https://ebookjapan.yahoo.co.jp/books/117845/

 

.キーボードは、確かに7割は、機能についての会話ではある。だが、キーキャップにハマり始めると、「どのキーキャップを合わせるのがかわいいか」に拘りはじめる人は、多いので、機能について議論していたはずのコミュニティが一周まわって、謎のフェチになっていっている感じがある。
一番わかり易いのは、artisan keycaps とかで、何の機能性もなくて、単にワンポイントアクセントになっている。
https://yushakobo.jp/product-category/artisan-keycaps/

あとここらへんのキーボードとかは、かなり見栄えのかわいさを考えている感じはある。
https://www.pinterest.jp/complexequality/keyboard/

キーキャップに関しては、海外キーボードコミュニティのredditとかだと、かなりスレが伸びる状態になっていて、これも数百人レベルでは、結構高度な語彙を駆使する人たちがいる印象。キーボードコミュニティはそういうわけで、それなりに「かわいいは正義」的な世界でもある。

 

<キーボードコミュニティにおいて「かわいいは正義」であることを示す事例。>

#まじな話、けっこう多くの人が「かわいい」を気にしている。そうでない人もいるけど、正直、zincとかnomu30は、めっちゃかわいいと私も思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自作キーボードのここらへんの文化は、強いて言えば、車とか、バイクとかで、機能について論じると同時に、暴走族的な感じの人がごりごりに改造車をつくってゴテゴテにしたバイクとか、トラック野郎の人のビカビカのトラックとかあるけど、ああいうノリにある意味で近いのかもしれない。(やってる人の層と、ノリは全然違うけども)

 自作キーボード界隈にも「光らせる」派の人と、「光らなくてもいいよ」派の人がいて、私は光らなくてもいい(むしろ、光らないでほしい)派なのだけれども、光らせる派の人とかは、なんかビカビカしてるのが好きなイメージ……。

 最近の自作キーボードは、かなり細かい設定で光らせることができるからね……。

 

<光るキーボードの例。>

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして並べてみると、なんか、みんな、KAWAIIIIII!しか言ってなくて、最高に語彙力がなくてテンションがやばみな感じだけど、こういう、語彙力がないかわいい感じと、ストレートに技術っぽいトークで占められるのが自作キーボードコミュニティの風景という感じ。よくよく考えると、まあ、確かに批評っぽいテキストはあまりない……。

 例外としては、大岡さんのエンドゲーム(究極のキーボード)論あたりは、キーボード界隈で唯一批評的な何かを感じさせるテキストにはなっている。

【薙刀式】エンドゲームはどこにあるか: 大岡俊彦の作品置き場

 究極のキーボードを手に入れること自体がキーボードコミュの目的なのではなく、キーボードに対する知識やメンテナンスの能力を身につけることが、実質的に「究極のキーボード」に近づくことなのではないか、というキーボードコミュの「究極の目標」に対するメタ的な議論をしている。これは、まっとうに批評的な種類のテキストと言ってよいように思われる。ただ、大岡さん以外で、こういうタイプの議論をする人をあまり見ない。

 みんな、語彙力のなさみがヤバみな雰囲気を楽しんでいる感じもするし……。

 

 

ほぼ余談

斎藤公輔さん(『風呂』の作者でもある)の室外機に対するマニアックな話とかは、さすがに芸術形式的な話にするのはかなり、無理だろうなと思う。

室外機が愛おしいのでフィギュア化してみた :: デイリーポータルZ

斎藤さん以外に室外機について、アツく語っている人を見たことがないし、室外機の配置をしている人も、斎藤さんのような人を見たこともない……。

 

とはいえ、斎藤さんの工藤さんの「東横インファン」2人の対談とかになると、「対話」は成立しはじめているが、

www.excite.co.jp

東横インは、まあ難しいだろうな………。