Critique of Games メモと寸評

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教育ゲーム、シリアスゲーム

id:ConquestArrowより

先進工業諸国で平均IQが上昇していく「フリン効果」や、テレビゲームを脳の情報処理能力の向上に利用しようとするアメリカの研究、「ゲーマーとしての養老孟司」などの話題を紹介しています

茂木健一郎 クオリア日記: テレビゲームは本当に脳に悪いのか

 ゲームが頭をよくするかも…的話題がきっちりまとめられたのは僕も見たことがありませんが、そういう種類の言説は80年代からけっこうあったかと記憶しています。例えば、将棋界隈とかで若い世代が強い!とかってことの説明として「やつらはゲームを介して効率的に定石を覚えたりしているから〜」などといった話や、教育機器としてのゲームの有効性みたいな話はファミコンブームの起こった86年にも「これをなんとか有効利用できないか」的な文脈で、盛んにいわれてましたね。アメリカとは違ってその後日本ではそういった教育機器系の話が本格化することなく、中途半端な<教育ゲーム>が断続的に発売されるにつれて、「ゲームで教育しようなんてバッカじゃねーの?ゲームは遊ぶモンだって。」みたいな態度のほうが強くなってしまいましたが。

(ITmedeiaニュース)
遊ぶだけじゃない“シリアスゲーム”の可能性

 にしても、英語圏での「シリアスゲーム」という呼び方には個人的にはどうも奇妙な感じを覚えます。エディテイメントとかラーニングとか、そういう名前で呼んでもよかったはずなのに、なんでそう呼ばれているのかがよくわからない。最初「シリアスゲーム」と聞いたときには、一瞬ゲームの中での文学的実存がうんたら、とかっていう話なのかな、とでも思ったんですよ。それだって「シリアス」という話だろうに、この「シリアス」ってのは要はゲーム自体でコンサマトリーではないような、「消防士の訓練に役立つ」とか「学校教育に役立つ」とか「米軍の新兵募集や訓練に役立つ」というような社会にとっての手段的価値を見出せるゲームって話ですよね。なんで手段的であることを「シリアス」などと言ってしまうのか*1。はっきり言って解せない。端的に言えば、アメリカ軍の訓練に使われるゲームが「シリアスなゲーム」で、タクティクスオウガは「シリアスじゃないゲーム」とかって言われたら、腹立たしくはないのか、と。*2
 この「シリアスゲーム」という名称が、アメリカのゲーム業界が内部からイメージ戦略的に流通させたのか、ゲーム業界の外部から貼られたレッテルなのかは知らないですけど、もうちょっと呼びようがあるだろうに。

 ゲームが社会にとって手段的に使われる方向性をも見出している、という状況そのものについて、大枠で言えばいい話だと思いますし、マーケットとして魅力的とかっていうような商業的な問題意識抜きでも非常に面白い話だとは思っています*3。います…が、そこで出てきた言葉がなんでほんとにこれなんだろうか、ということに落胆を感じます。

*1:とはいっても、もちろん、類推は可能です。遊び論にありがちな「遊び」の定義の一つとしては、しばしば、「遊びとはそれ自体が目的であり、手段的ではないもの」みたいな定義があるので、多分その定義を単純に裏返したらこんな話になってしまったのではないか、と思いますが。

*2:ってか政治右翼だけが真剣で、文化左翼は真剣じゃない、みたいな話にも聞こえますよね。解釈によっては。

*3:例えばRichard D.Duke『ゲーミングシミュレーション 未来との対話』で展開されているようなイデオロギーとして、「ゲーム」という形式を「会話」「文字」「マルチメディア」よりもさらに上位のコミュニケーション手段としてしまって、ゲームはコミュニケーションのための最高の様式である!と主張するような、イかれた話がありますが、そういうところに接続されていくであろう可能性とかには非常に魅力的に感じます。分野としては発展してほしいことこの上ないところです。