Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

妄言つぶやき小出し1

 もっと、更新しなさいよ!と、叱られたので、twitterの2009年4月15日のつぶやきを転載するという、負荷すくなめ更新します。はてな市民権も保ててないし…。
 ほとんど意味不明な、脳内言語系つぶやきでごめんなさい。

2009/4/15 twitter

1.意味とは全体性の中において占める位置を与えられているもののことだと考える。(換言すれば、意味とは、全体にとっての部分である。)
2.物語とは、出来事の集合において、構成されるという側面をもつ。(ここでは、物語とは、そのようなものであると捉える)
3.出来事とは、意味を与えられたもののことである。
4.ゲームを習熟していく過程において、意味論と統語論は不可分に、同時的に、相互に、習得されていく。換言すれば、部分が全体のパターンをつくる。(意味:部分は、統語:全体を介してしか存在しない。)
5.ゲームに完全に習熟したとき、個別の出来事の「個別性」は、全体的のパターンの理解にとって代わられる。すなわち、統語論が優位になる。
6.ゲームが完全に習熟されたとき、部分≒意味は成立しない。そこには、物語の介入する余地はない。(※物語=<部分(意味)の集積>と捉えるため)
7.ゲームがまったく遊ばれないときもまた、物語は存在しない。
8.すなわち、学習・適応過程における統語論的で、リピータブルなパターンに着目するとき、それは「ゲーム」と呼ばれるもののことを指す
9.一方、学習・適応過程における、意味論的に個別的なパターンに着目するとき、それは「物語narrative」と呼ばれるもののことを指す。
10.ゲームも、物語も、そのプロセスの中にしか成立しない。
補1:Jesper Juulの言う、Rule / Fictionという二項は、<キャラクター><世界設定>が、統語論/意味論の、意味論的側面と協働関係にありうることを描いたもの。分裂も起こすけど、協働するのがおもろい、という話。
補2:世界設定等の表象の問題と、全体―部分における意味の問題は同一ではない。これを混同してはいけない。混同させることはできるが。
補2−2:世界設定の表象の問題は、受け手の言語システムや表象文化全体と関わっている。一方で、ゲーム内の統語論―意味論関係性は、一つの完結した全体性(Magic Circle)の問題である。
補2−3:一つの完結した全体性(Magic Circle)の所在を、見えなくさせることこそが、スイッチ可能な身体としてのオンラインゲームの「アバター」とかの問題ではあったりする。
補2−4:補1の補だけど、この二つの意味生成システムの違いに着目しつつ両者の協働/共犯関係について考えることこそが、ここ数年のJuulの仕事。
補2−5:まあ、ひらたく言えば、(1)「はぐれメタル」の鉄っぽさとか、かわいさの問題が、ここでいう表象系の問題 (2)「はぐれメタル」の経験値の高さや、すぐ逃げる性質は、ゲームの中の統語系―意味系における意味の問題。この二つは別。
それと、別件、サンクコストをめぐる観念が、「道徳的感覚」に関係するはずだと、16年前につぶやいたな、と最近思い出した。
補2−6:別の言い換え、(1)「指示」による意味の問題 (2)全体―部分の問題における意味の問題 ここらへんは、まだ脳内整理不完全。
補2−7:(1)指示っていうのは、全体性をもったシステムAからシステムBとの間の対応をつなぐこと。 (2)もう一つは、一個のシステム内部での全体―部分の区分けの成立のこと。

2009/6/4 自分メモ

1.物語とは、出来事の集合である、とはどういうことか

1..1.「出来事」の前提として、二つのグループが必要。
 →具体的に言うと、グループA【風景】と、グループB【風景を眼差す人の記憶/フレーム】

1.2.「出来事」が抽出されるためには、グループAと、グループBの違いを析出するアルゴリズムが必要。
 →記憶にないな、と思うこと。

1.3.グループAと、グループBの差分を単に検出するプログラムではなく、グループ1とグループ2の間に「差があること」が有意である、と認定されることが必要。このような認定を受けるアルゴリズムのことを「;」(セミコロン)で表記する。すなわち、AとBの間で出来事、という認定が生じることを、[A;B]という形で表記することができる。
 →記憶にないものを見て、「これは、前代未聞だ!」「こりゃびっくり」「えっ!」と思う。統計的にランダムな差分ではない。

1.4.出来事は物語の部分である=物語は出来事の集合である


1.5.「物語」が構成されるためには、出来事の因果的な順序概念が必要
 →「Xが起こって、Yが起こった」といった二つの出来事の並列的処理は物語ではない。「Xによって、Yが起こった」などとといった形で、出来事が、一つのグループの中に収まっている必要がある。もしかしたら、因果関係である必要はないかもしれない。「はじまり、中間、おわり」というリオタール的な定義のほうがいいのかも。

1.6.私小説的な物語では、出来事は、常にグループB=風景を見る人間/記憶は一人で一つ、という状態から生み出されるとする。すなわち、グループA1,A2,A3,A4...Anと、グループBの間の差=出来事によって成り立った集合。すなわち
 
[ΣA;B]

 という形で表記してみる。


1.7.三人称で、複数視点によって構成される物語とは、グループA1,A2,A3,A4...Anと、グループB1,B2,B3,B4.....Bnの間の差=出来事によって成り立った集合。すなわち

[ΣA;ΣB]

 という形で表記してみる。


2.物語のパターン化は可能であるが、それは、傾向性の問題でしかない 。ex:ブロップ、七度文庫


2.1 「出来事」認定を受けやすい事柄として、常に安定的なトピックがある。
 →たとえば、「魔女があらわれて、家族を殺す」などといった、事件は、ふつう誰にとっても「出来事」「事件」である。家族が殺されるのが日常茶飯事、という人間は、おまえどんだけ家族がいるんだ、と。そして、どんだけ怖い世界に生きてるんだ、と。

2.2 ブロップの集めた物語素とは、そのような「出来事」傾向の強いもののコレクションである。

2.3 何度も似たような「出来事」を見ていると、それは、[A;B]の機能する「出来事」として認定されにくくなる。例えば、B級ドラマが、「B級」になるのはそういう理由ではあるまいか。でも、B級ドラマも子供にとっては一級品、みたいな。

2009/6/4 自分メモ:物語自動生成について

ストーリー/ナラティヴの違いを前提として、


 ストーリーの自動生成という点については、おそらく、あと何十年からか何百年の単位で考えて、コンピュータは、人間の書き手に適わないのではないか、という気がする。ストーリーというのは、現在性つーか、社会システム/社会空間における事件でありうることの連なりを、紙の上に再構成して、転写するようなことなので。どう考えても、コンピュータよりも人間のほうが得意。「人間のことは人間にしかわからない」領域の最たるものでありつづけると思う。
 もっとも、つまらないものだとか、組み合わせの変化だけでいいのであれば、人間よりも量産速度を上げることはできるだろうとは思う。その意味では、七度文庫の次は、ヴロップが分析対象としたような、ごく一部の子供向けのストーリー/定番的ファンタジーの繰り返しみたいなジャンルの生成は、コンピュータにとって代わられる可能性は比較的はやいかもしれない。その次に「いかにも陳腐」と形容されるようなタイプの大衆小説。純文学だとか、「大衆小説」とされているものの中でも名作と呼ばれるようなクオリティの小説を、コンピュータが書きうるようになったら、それはほんとのほんとに革命だと思う。


 で。
 ナラティヴの生成システムという点からすると、コンピュータはすでに、既存のほぼあらゆる物語メディアを圧倒的に、凌駕していると思う。もはや、何もかなわない。かなうものがあるとすれば、現実それ自体だけではなかろうか、と。あとは、一対一の人間同士のトーク。
基本的に、紙のメディアとか、映画メディアとかそういったものは、ストーリーのメディアではあっても、ナラティヴのメディアではないので。コンピュータ・ゲームにはかなわない。
 あと、ありうるとすれば、CGMUGC)は、ナラティヴ生成プラットフォームとして強力かもしれない。まあ、CGMって、人間のことなんだけど。