Critique of Games メモと寸評

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早稲田文学増刊号「wasebunU30」『認知的作品 〈いま、ここ〉を切り取ることをめぐって』

 2010年2月創刊!(らしい)、早稲田文学増刊号「wasebun30」(http://www.bungaku.net/wasebun/u30/index.html)に『認知的作品 ――〈いま、ここ〉を切り取ることをめぐって』という小論を掲載させていただきます。ほかには、泉信行さんや、福嶋亮大さんといった方が書いているようです。30最以下でメディア関連のことをいろいろ考えている人間ということで、編集の窪木さんからお声がけいただきました。早稲田文学の窪木さんは、いままで関わらせていただいた編集の方でもとりわけ熱心な方で、僕のほうでもたいへん勉強させていただきました。
 書いた内容を、書いた言葉とは別の問題意識につなげて少し書いておきます。



 写真や書籍を作品と呼ぶこと。
 のまねこや、初音ミクに関わるようなCGMにおける「作品」を論じること。
 リアルタイムのコミュニケーションと限りなく近い、ニコ生や、USTREAM
 そして、一つのプラットフォームの中でいくつものバリエーションのゲームが同時並行的に遊ばれるようなオンラインゲームのような「作品」を一つのものとして対象化して論じることは、まったく異なる事態を指しているわけです。

 そうした性質の違いというのは、いろいろなところで露骨にあらわれるわけです。わかりやすいところでは引用がどのぐらいできるのか、という話があって、ゲームって、漫画とも、小説とも違って、引用がものすごくやりにくい。タクティクス・オウガの中で登場人物が何を言ったか?ということは引用できても、それはごくごく部分的なパーツの引用以上のものにはならないわけですね。それゆえに、ゲームを語る複数の人間が同じ対象について語る、ということは、ごく単純にいって、同じものを同定できているのかどうか?というような段階から問題が発生してしまう。
 じゃあ、ゲームというのは全く対象化して語ることのできないメディアなのか、というとそういうわけでもない。ぼやーっとした輪郭みたいなものは共有されるわけで。うーん、そりゃなんじゃらほい、と。結局ゲームを対象化して語ろうと思うと、どういう話とかになるのか?

 …そんなようなことを書いたような気がする。


ref:記述可能性