Critique of Games メモと寸評

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吉田寛「規則と自由の弁証法としてのゲーム――<ルールの牢獄>でいかに自由が可能か」へのコメント

 

吉田さんのペーパーに敬意をこめて、簡単にコメントをまとめておきます。

 

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_26-1/RitsIILCS_26.1pp.19-27YOSHIDA.pdf

 

1.コンピュータ・ゲームにおいてルールに逆らうことは本当に不可能なのか?

「コンピュータ・ゲーム」においてルールに逆らうことは、可能か不可能かと言われれば、可能と思われます。たとえば、オンラインゲームにおけるRMTはその際たるものですし、中沢新一が「ゲームフリークはバグと戯れる」において指摘したゼビウスをめぐるゲームフリークたちの行動などもまた、ゲームプレイヤーが、ゲームのルールをある意味で無視するような事例だと言ってよいかと思われます。
 もちろん、RMTも、ゼビウスのゲーマーたちも、そもそものオンラインゲームのルールや、ゼビウスのゲームのルールがまず前提として存在しており、ゲームのルールがゲームプレイヤーの振る舞いを規定する前提として機能していることは確かです。その意味で、コンピュータ・ゲームのルールは強力な制度ではあります。
 コンピュータ・ゲームを遊ぶということもまた、アナログゲームを遊ぶことと同様に、ゲームプレイヤーから、積極的にルールに従おうという「合意」を経由しなければ、その通りに遊ばれることはないメディアだという側面は確かにあると思われます。
 また、この点については、もう10年前になってしまいますが…増田泰子さんが、コンピュータ・ゲームのプレイにおける広範な性質の一つとして、Rule Breakingというものがあるのだという議論もされていらっしゃいます。
http://www.4gamer.net/news/history/2006.08/20060803142459detail.html

 ただし、吉田さんが書いていらっしゃることも確かに、言いたいことはよくわかるわけでして、類似することは僕も何度も言ったことがありますし、いろいろなひとが似たようなことを書いているのを読んだ記憶があります。なので、これは、僕らがここらへんのことをうまく言い表す言葉を開発できていないというタイプの問題なのだと思っています。(>もしかしたら、うまい言い方を知っている人がいたら教えてほしい)
アナログゲームと、コンピュータ・ゲームがそれぞれにルールへの合意をどの程度まで実質的に必要とするかという程度問題は確かに違うし、コンピュータ・ゲームの場合は、アナログゲームと比べて「フォーマル・ルールの自動執行」がなされることが多いというのも、概ね事実といってよいとは思います。ただし、アナログゲームが「コンピュータ・ゲーム」になることによって備えている性質が全部変わってしまうわけではないので、言い方が難しいという話だな、と思います。
少なくとも、「論理」的には、アナログゲームと、コンピュータ・ゲームはやはり連続した性質をもっていて、そこを論理的に性質が分けられるのだという議論をするのは、結構こまかな手続きを得ないと反論を許してしまいやすく、面倒なものだというように思います。
一方で、論理的にくっきり区別されるというよりは、観察されるその実態や傾向の問題として、アナログゲームとコンピュータ・ゲームを別種のものとして整理しようとする議論であれば、もう少し受け入れやすい話になるようにも思います。
 いずれにせよ、「コンピュータ・ゲームにおけるフォーマル・ルールの自動執行」のようなことを、適切に扱える概念枠組みが何かあると良いかなと。

 

2.「言語の牢獄」はどこまで牢獄か

サピア=ウォーフ仮説の妥当性について、いろいろな疑義が呈されている状況があり、言語が人々の思考を成立させている前提の一つであることは確かだけれども、前提の一つでしかないのではないか、と考えています。言語を含めた思考を構成する環境の全体は確かに、人の思考の幅を制約しているように思いますが、多様な環境のなかでも「言語」の特権性を強調する議論は、更新されてよいのではないかと考えています。
この点についての議論はたとえば、(1)今井むつみ『ことばと思考』岩波新書2010、(2)Steven Pinker ”The stuff of thought”(2007)〔『思考する言語(上巻)』pp247~pp291、NHKブックス、2009〕などを参照していただけると幸いです。


3.ビデオゲームのプレイヤーが経験する「自由」とは何か

 「自由」概念をめぐる整理は、本気で整理しようと思うと、拾集がつかなくなりますので、このコメント自体が半端なものになってしまうかとは思いますが、
 前段の話とも関わりますが、前提として「自由」だという感覚の成立自体が、いくつかの人間の認知モジュールの合成的な振る舞いによってもたらされる概念だというように私は考えています。吉田さんが指摘されているように、言語を習慣化することを通して、その言語を通して考えるという自由が成立したり、ある環境に適合することでその環境内でうまく振る舞うことができるようになるという自由が成立したりするということがあると思います。そして、またゲームの習熟を通して成立する自由もあるように思います。
 また、「自由である」という感覚の問題と、形式的にある状態を自由とみなすかどうかという問題を別様に論じることが可能であるということが問題をややこしくしており、選択肢が多様である、または実質的に選択できる程度に選択肢が多様である、選択が可能であるといったような、選択の形式の問題を通じて「自由」という問題を論じることもできる。
 それぞれに複雑な問題を抱えており、それぞれが組み合わさることで、複雑怪奇な問題構成とあらわれてくる話だろうと思います。

 で、上記の話を前提としたうえで、
 吉田さんの話のなかで、この点をどう扱うのか、難しくなるだろうなと思った点として、「ゲームに習熟していくプロセスにおける自由」をどう扱うのか、ということが挙げられます。
 松永くんの指摘とおり、a.ゲームをはじめる自由/ゲームをやめる自由 b.ゲームに習熟したのちの自由/ゲーム内で自在に振る舞えるという自由 という問題系は少し別の議論で、その二つが別々のレベルで成立してしまうのが、ゲームに習熟していくプロセスにおける自由という問題だと思います。


 まだゲームが下手なとき、ゲームにむきあうことはしばしば自らの技能が不自由だという感覚を与えます。しかし、そのようなときも「ゲームにコミットする」という意味においては、そのプレイヤーは自らの選択において、ゲームに参加している。ゲームを遊ぶときに、自らのゲーマーとしてのスキルに問題を抱えていても、ゲームをやめることは自由である。「私たちはゲームの規則でのみ遊ぶ。私たちがゲームの規則の強制をうけて遊ぶことをほっしないならば、遊ぶことをやめる」というニーチェの指摘のような意味では、ゲームが下手なときのゲームプレイヤーは、自由です。しかし、ゲームを思いのままに遊ぶということはできません。
 このように「自由」の多層的に存在していることで、ある状態が「自由」といえるのかどうか、いまひとつよくわからないという事態がゲームを遊んでいるときにはしばしば訪れます。では、どのような状態をもって我々はゲームにおいて「自由を経験している」と言いうるのか?