Critique of Games メモと寸評

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メモ:佐藤裕『ルールリテラシー』新曜社、二〇一六

問題意識を共有できそうな内容なので、少しメモをとりながら読みます。(読みながらメモなので、読みすすめていくうちに、疑問が解消されることもありうるかと思います。)

以下、批判的に検討していますが、基本的に本書に対してポジティヴなので、私自身の理解を深めるためのメモという意味合いが強いものと思っていただければ幸いです。

 

  • 私と問題意識の重なりそうなところ:(1)「ルール」「リテラシー」の双方の概念について、私もいろいろと書いているので(2)志向性を共有する技法としての「ゲーム」を用いるというのは、私とほぼ同じ方向であるといっていい
  • あと、全体的な構成として各章で言いたいことを2行ぐらいでうまく参照しやすい「ルール」にまとめているのは、本の構成として素晴らしい。
  • (おそらく)全般的な疑問:なにゆえ「ルール」概念を多層的なものとして想定しないのだろうか(ref:ルール - ゲーム関連資料)。おそらく、あえて、多層的な概念としていないのだとは思うのだが、今ひとつその理由がみえない。
  • 二章:「ペナルティによってルールを守らせることはできない」。佐藤の議論では、ペナルティによって遅刻を罰するような場合には「ペナルティを避けるゲーム」によって「バレなければよい」という態度が発生するということを論じているが、これには幾通りかの議論の余地があるように思う。▼第一に、「ペナルティを避けるゲーム」と「ペナルティをしないタイプのゲーム」は別のタイプの志向性が発生するだけで、両者ともにゲームであるということ。どちらかが「ゲームではない」と言いうるのだろうか?※おそらく佐藤の主張は前者は佐藤の言うところの「ゲーム」ではない。…のだろうが、現時点では今ひとつ説得されない▼第二に、これは、ルール概念を多層的にすれば済むタイプの話であるように思える。というのは、明示的なFormal Ruleのレイヤーとは別に、慣習 conventionや、ヴィジョンの共有などのInformalな仕組みを通じて、多くの場合は協力的な仕組みが成立している。私の場合は、「ゲーミフィケーション」の話とかしているけれども、会社におけるヴィジョン共有や、Conventionといった多層的な志向性の道具付けの仕組みのうえに、ゲーム的な仕組みがうまく協調する形で付加されていればそれでよい、と考える立場である。Formal Ruleのなかでペナルティを課すことは理想的だとは思わないが、達成したいことの性質によってはペナルティを課す仕組みがあっても別にそれはかまわないだろうと思う。問題は、「ペナルティを課す」ということがさまざまな採りうる選択肢の一つでしかないということを、ルール設計/運用者が意識しているかどうかということではないだろうか。
  • 三章:…と思ったら、この章がConventionの話のようだ。「ルールは社会的カテゴリーと結び付けられることで強制力をもつ」と。▼ただ、教師やサッカー選手などすでに何らかの社会的なカテゴリーに、アイデンティティをもっている人の場合はそれでよいかもしれないが、小学生とかのような社会化の途上であるような人々や、伝統的な社会的カテゴリーから抜け出ようともがいでいるようなイノベーターのような人たちをどのように扱えばいいのだろうか?
  • ゲーム理論との対比についての説明:起こりうる現象については同意だが、説明の仕方は一読した限りだと充分に理解できなかった。ここで言われている「論理」の概念がうまくのみこめない。囚人のジレンマゲームにおいて、「自白」を選ばないようなインセンティヴ構造は、ここで佐藤が指摘しているとおり、いろいろあると思う。現実は、一回限りのゲームでの利得構造には従っておらず、多層的なゲームの利得構造が重なり合わさった状態なので、囚人のジレンマゲームそれ自体の構造とは別の理由によって裏切らないことはあるだろう。
  • 四章:参照可能性が重要であるという話。これは、やはりFormal Ruleについての理論なのだな、という宣言だと受け取った。
  • 五章:「免責されなかったルール違反は、反ルールを正当化するか、もしくはルール違反した者を社会的カテゴリーから切り離す」▼ここで、イノベーターのような人々を、既存の社会的カテゴリーのオートポイエティックな仕組みとして活かすか、それとも排除するかという話にもつながるように思う。イノベーターを扱える体系であることは重要だと思うのだが、具体例を読むとそういう話ではないっぽい。
  • 六章:p67「違反者はインフォーマルに排除されることにより、ルールを意識する契機を失い(ルールを参照しなくなり)」としており、ここでインフォーマルな仕組みについての言及がでてくる。基本的には、フォーマルな仕組みにのっとって、免責(深刻なルール違反とみなさないケースへの個別判定)、排除、赦し(排除した人の復員を赦す)といった仕組みが必要であるとしている。インフォーマルな仕方で排除されることは確かに問題だが、インフォーマルな仕組みに排除だけでなく、包摂の仕組みももっている(いわゆるアジールの話とか)。なので、インフォーマルな仕組みについての言及が、排除のケースについてのみなのが気になる。基本的に、この本は、フォーマルシステムメインでいこうという話なのだとは思うが、「社会的カテゴリー」みたいなものはフォーマル・システムと完全には紐付かないと思うのだがそこらへんはどう考えるのだろうか。ただ、ここでルールを維持するためには、何よりも「参照可能性を高めること」と宣言しているのは、オリジナルな主張だと思うし、興味深い
  • 七章:「ルールを維持するためには、メンバーすべてがルールをルールとして提示し、ルールとして読み取るコミュニケーション能力を持たなくてはならない」:これは、単に大変すぎるのではないだろうか。ここでもやはりルールの多層性の話をもちだして恐縮だが、高くなりすぎた複雑性の処理をどうにかするために、レッシグ/濱野のいうような「アーキテクチャー」のような仕組みが機能したりするということがあると思うのだが、「コミューニケーション能力」と言い切り姿勢は、やや過激すぎる主張ではないかと思える。
  • コラム2:志向性が、現象学でいうところの志向性ではないとのこと。てっきり現象学的な意味かと思っていた(※私がゲームの話で「志向性」と言った場合は、概ね現象学的な意味)。私の言葉で言い直せば、ここで佐藤が「志向性」と言っているのは、行為に関わるトレードオフ状況の理解と選択が行われているような場合のことだろう。行為の目的に階層性がある場合などももちろん、これに含まれる。
  • 八章:「直接ルールと間接ルールの違いを理解して使い分けなければいけない」と。ここでフォーマルルールの仕組み内部における階層性の整理があるのが個人的には興味深い。佐藤のいう区分は直接ルールは社会的な意味が直接に見出しやすいもので、間接ルールは「店長に従うべし」とかといったルール間調整のルールのようなもの。この両者の意識と使い分けをみんなができるべきだということだ。ここらへんは、ルールの「リテラシー」の話だなという感じが確かにする。
  • 九章:
  • 十章: