Critique of Games メモと寸評

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メモ「ビデオゲームの世界はどのように作られているのか? --松永伸司『ビデオゲームの美学』をヒントに」

2019年8月31日イベント 

https://univ.osaka-seikei.jp/news/747

のメモです。

(井上:………)の部分は、思ったことのメモです。

 

 

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加藤隆文(大阪成蹊大学) 司会
松永伸司
三木那由多
ナンバユウキ

■松永伸司発表

 

松永による資料


すべて画面がある。これをビデオゲームという
(井上:ということは、NIMRODやJoust JSとかはビデオゲームに含まない?)

本書は、特に画面に注目している
画面からどのような意味を引き出しているのか

画面は、フィクションと、ゲームメカニクスを表す機能を持っている。

(井上:メカニクス概念は人によってちょっと違う)

「画面」が2つの方向を持っているとはどういうことか

記号のレベルを統語論
記号と内容の関係のレベルが意味論

三項のモデルをつくることで何がいいか
メカニクスとフィクションの間の食い違い、についての記述を可能にする

この種の食い違いは二方向の意味の食い違いで生じる

例:
 3Dゲームでの見えない壁、MGS V TPP (コリジョン
 ローランを閉じ込める(どうぶつの森
 MCPIXEL、動画実況

ほかにもいろいろな論点はあるよ

■三木那由他大阪大学)、ビデオゲーム統語論と意味論
専門は言語、コミュニケーションの哲学

ビデオゲームを言語のように見る

特にビデオゲーム統語論と意味論を与えようという話がよかった
言語として見られるのではないか、と

統語論:記号がどうつながるかについての理論
意味論:記号とその意味内容についての理論

1.記号と記号をつなげるという話がない:
  マリオが土管に乗る。マリオがはしごを登る。

2.ふたつの意味論の関係がはっきりしていない:
  フィクションと、メカニクスの意味論の関係

  二重の意味論というのが面白いと思った。
  同じ記号体型に対する2つの意味論というのは、なんのこっちゃいと思った。

 GTAのような複合的な記号を扱うケースタ、
 虚構的内容からメカニクスが推測できるのか

 恋人同士の暗号の例:
 「今日は晴れているね。散歩にでも行きたいな」
 =今晩会いたい。私の家に来てほしい。

 囲碁五目並べのどちらを遊んでいるかは盤面だけからはわからない。
 虚構的内容から、ゲームメカニクスを「常に」推測できるわけではない。


・言語の統語論
 チョムスキー
  Lという言語があるとする。
  Lという言語の統語論をつくるとき
  Lの文となる文法的な文字列の並びをしらべ、文とならないものを区別すること

 「文だけに共通の構造を探す」

 ビデオゲームに文と非文はありうるか
 →認可画面と、不認可画面(バグ画面)がありうる
  これを、文と非文に対応させるといいのではないか

 
・虚構的内容から、ゲームメカニクス的内容の推測がどのように確保されているのか
 日本語文
 「外で雨が降っている」→ 日本語としての意味 → フィクションでの使用


 ゲーム制作者が、任意に、フィクション記号の内容を、ゲームメカニクス的内容に結びつける。(そこには、準因果的情報関係があるのではないか)
※準因果的:「焚き火と、煙」というような自然的な因果関係ではなく、共通の原因から出てくる推測がなりたつもの
 「私の食事から、弟の食事の推測が可能」:母という共通の原因


意味論はひとつだけ

 

■「ゲームプレイ/ヤの美学 プレイ鑑賞、4つの特徴、2つのプレイヤ」ナンバユウキ

「ゲームプレイの鑑賞者として、ビデオゲームの美学について考えたい」
プレイ鑑賞は、自分がプレイするわけではない。
ただ、十分にまとめきれなかったとのこと。

 既存のアプローチは社会学やファン研究であるが、
 本発表では、形式的な特徴づけを行いたい

ゲームプレイはゲームプレイのアーカイブの対象となりうるか:
 (井上:
  なりうるけど、どういった手法でそれをおこなうかが問題
  メタデータの構造上、そういった部分を設計することはできる
  ただ、長期の保存体制の設計についてはまた議論がありうる。
  また、何をもってゲームプレイのアーカイブとするのか)
  

タンデム・プレイ:
 ゲームメカニクスと、ゲーム行為


 ゲームプレイと、ゲーム行為の違い
 1.標準的な意味でのメカニクスインタラクティブではない
 2.標準的な意味でのゲームプレイではない
 3.標準的な意味でのゲーム行為ではない

 プレイ鑑賞の4つの特徴
 ※井上:典型性を何によって担保しているのでしょうか……?

 engagement プレイ鑑賞者からプレイヤへの情動的な関わり

 ゲーム内プレイヤ:アバターを介したプレイヤの現れ
 ゲーム外プレイヤ:vtuber キズナアイなどのレイヤーのプレイヤの現れ

 「RTAは、人間がやっているというところがRTAの面白さになるのではないか。
 もっとも、機械学習した面白さもあるにはあるが、それは別種の面白さ」

 
 

■松永

 足りていない部分は、描写の哲学、の人たちにいろいろと押し付けたいという気持ち

 フィクションのほうは、意味論ではなく、語用論ではないか。
 >その通りなのだが、言語哲学からみるとへんなことになっている。
  Goodmanなどの発表
 
 統語論とゲームメカニクスを同一視するのは避けたい
 「画面としておかしい、おかしくない」→これは統語論
 「ゲームのメカニクスとして成り立っている。成り立っていない」→これはメカニクス

 準因果的情報関係
  これはいい概念である、と。

 BABA IS YOU
 は明らかに画面がメカニクスを伝えている

>みき

 統語論的関係そのものはあるのではないか、と。
 なにかしら、くっつくかたちで画面はできあがっているのではないか。

 mario on 土管 というのは?

>みき
 基本的には、ゲーム画面のバグはゲームごとに判断するしかなかろう
 ユニバーサルグラマーはあったら面白いが、ないのでは

>まつなが
 バグかどうかは、プログラマーの意図に沿う意図主義の立場をとる

(意図主義VS学習とで、立場は異なりうる)

(井上:たしかに、バグだとユニバーサルグラマーはむずかしいので、クソゲーの判定のほうが、よっぽど重要なようが気がする)


>みき
syntaxに沿ってきまる虚構的内容があるのでは

言語のsyntaxを転用して、ビデオゲームのsyntaxは成立しているのではないか
それこそが、the 哲学のようなものになるのではないか。

 

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質問はSlido

https://www.sli.do/

にイベントコードを発行しておこなっており、これは使いやすくてよかった

 

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全体の雑なまとめとしては、

1.三木さんの2つの指摘は妥当である

2.「統語論」概念については、松永はGoodmanらの用法を引き継いでおり、Chomskyなどの用法からすると奇妙には見えるであろう

3.記号同士の意味については、松永の議論体系の上では問題ない。ただし、よりすすんだ話は、描画の哲学などの人にまかせたい

 

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僕として、論点として思ったことは、

1.バグはユニバーサルには判定できず、ゲームごとにそれが、機能していない画面であることを確認するほかないのは同意

2.一方で、ゲームとして「成立している」「成立していない」は問えないが、「クソゲー」かどうかは、もう少し(相対的に)一般化可能であるような気はする。まあ、あるゲームがクソかどうかは個人差があるが………

 「何をやればいいかわかる」「何をやればいいかがわからない」

 「楽しみ方がわかる」「楽して方がわからない」

 あたりは比較的、多くのゲームの開発途中の状況たよくみられるもので、開発途中のゲームのそういった状況をみつつ「これでは成立していない」「これならアリ」みたいのをゲーム開発途中では、都度判断していることが多いので、そこらへんの判断とかにユニバーサルな側面を見いだせるかどうか、みたいなことは論じられうるかも?