Critique of Games メモと寸評

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久保明教『機械カニバリズム』、東浩紀『哲学の誤配』

 

 

 どちらの本も、ゲームをめぐる議論がかなり全体の議論をめぐる骨格部分で重要なものとなっている。

 

1.

 久保,2018は基本的には、将棋の電脳戦について書かれた本である。つまみ読みをした範囲だと、理論的には、技術決定論と技術の社会的構成論を止揚するものとしてのサイボーグ論、みたいな議論に近いタイプの話のような印象をうける。大筋の議論も興味深いが、、特に第5章の「強さとは何か」は、個人的にもかなり関心と重なるところが大きい。(ただ、人類学内部の細かな議論は、正直なはなし、原典を読んでいないので、細かく検討する能力は私にはない)

 

  • きちんと読み込めていないだけかもしれないが、「技術決定論 vs 社会構成論」的な構図で話をしているのは若干気になった。たとえば、綾部(2006)などでは、社会構成論は、社会決定論とは言い切れず、中間的な側面があるよね、という話がされている。

 

ref:

綾部 広則, 技術の社会的構成とは何か, 赤門マネジメント・レビュー, 2006, 5 巻, 1 号, p. 1-18,

https://www.jstage.jst.go.jp/article/amr/5/1/5_050101/_article/-char/ja/

 

 

 東,2020は、特に後半で出てくるリオタールについの講演パートで、物語に関係する概念として「ゲーム」の概念を重要なものとしておいている。ここで言われているゲーム概念は、やや細かな検討を要する点もあるが、魅力的な問題提起がなされている。

 p149で、ゲームの成立のために「観客が必要」と論じているあたりは面白い。

 「観客」(の期待)みたいなものに重要性を見出すという場合、ここで言う「ゲーム」はある意味で、ショーとして機能しうるゲームなので、ゲームの中でもデジタルゲームのようなものとは、やや異なるタイプの「ゲーム」概念を前提にしていると見たほうが良さそうである。

 デジタルゲームの場合は、「審判」としてソースコードが機能して、文字通りの意味での「観客」は必ずしも必要ない(自分が「観客」を兼ねる)。デジタルゲームというのがすごかったことの一つは、桝山さんも言う通り「一人でできる」ことだった。観客というシステムから、切り離されてlaborに近いゲームを大量発生させることに成功したのが、デジタル化されたゲームであり、比較的、実現のしやすいゲーミフィケーションである(ref:uber eat)。

 本書を読みつつ、自動化された審判ではなく「観客」を必要とするゲームのことは、やはり別の呼び名が必要だろうという気がした。誰かがすでに名付けているかも知れないが、たとえば「ショーゲーム」とでも名付ければいいだろうか?二人遊びでも、審判でもなく、観客の期待によって続行することを期待されるようなゲームであり、観客とプレイヤーが相補的な関係にあるゲームというものをどこまで普遍化可能な「ゲーム」概念の内側に入り込ませることが可能かを考えてみたほうが良さそうだ。

 

 また、エコーチェンバーやフィルターバブルが小さな物語であって、ゲームではないという議論などは、魅力的な文だと思うが、論理構造はちょっと追えなかった。

 

 双方の本について、どこかで少し時間をつくってもう少し詰めた議論をしたいところだ。

 

 

 また、一応、備忘録的に書いておくと、ゲンロン vol.8と、ゲンロン vol.9の他に、ゲンロン vol.7でも実は、ゲームについての話がなされている。