Critique of Games メモと寸評

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「真実の読み解き」評論

 友人が『攻殻機動隊S.A.C 2』にはまり、エヴァ本ブームのときの「エヴァの真実」のようなタイプの「読み解き」を行うような評論を読んでいる。で、それを「お前も読め」と進められたのだけれども、そういう評論には微塵も食指が動かない。
 別にそういう評論が嫌いだとか、ダメだというわけではないが、積極的に読みたいとは全く思わない。興味が無い。そもそもそういった評論というのは作品自体に対して、「読み解き」を行った末に立ち現れるであろう<深遠さ>のようなものを期待する態度が備わっていなければ読むことも書くことも無理だ。私が押井守の信者で、『攻殻機動隊S.A.C 2』を聖書だと思えるような人間ならばそこにコミットしていくことも可能だったのかもしれないが。

 ……

 などということを先月考えていたのだけれども、件の友人は別に押井信者というほどの信者でもなく、何の作品に対してでも「読み解き」的な評論を読めてしまうらしい。たとえば、『2001年宇宙の旅』の評論とかもそういうものが多いが、あれでも読めるのだろう。私にはそういったものの読者になりうるということが不思議。

 そういった鑑賞方法そのものが体に染み付いてしまっているとかってことなのか。私はそこに積極的な価値をほとんど見出せないのだけれども、積極的な価値を見出すためにはどういう思考回路を経由すればいいんだろうか。

「思春期病」患者への防衛意識とファミ通クロスレビュー

 話は変わってファミ通クロスレビューの話。と、ファンへの防衛意識。

http://gmk.9bit.org/note05q2/050406-shisyunki.htm

彼らの存在を意識すると、好きだからこそ苦言を呈する行為さえハイリスクなものに思えてくる。ゲーム系ブログ運営者はもちろん、商業誌を作る人々でさえこの問題には神経質だ。現に今のファミ通クロスレビューでは、4人が4人とも同じようなことを書き、無難な点数しか付けなくなっている。これがスポンサーを恐れるからではなく、思春期病患者を恐れるからだと言えるのは、近年『斑鳩』のようなゲームに不自然な高得点が付いていることからもわかるだろう。中小メーカーとの関係が悪化したところで出版社にたいした影響はないが、それでも「人を選ぶゲームだ」なんて本当のことを書いて低い点を付けた日には、思春期病患者から脅迫状を送り付けられることだろう(これはネタではなく実際よくある)。こういう患者が増えると世の中が息苦しくなる。

 文句を付けてくる人を「病」として見なそうとは思わないが、状況をうまいこと言いあてている。

 実際、90年代中盤ぐらいを境にファミ通クロスレビューのそういった防衛意識は急速に高まっていった感はある。93,94年ぐらいまでは、スクウェアの新作に対しても6点、7点をつけたりして読者から恨まれていたりした時期があった。実例を挙げると「ファミコン通信」93年12月17日号のクロスレビューでは『ロマンシング・サ・ガ2』の評点が8・5・7・6*1と大変に低い点数がつけられている。当時、中学生だったわたしもファミ通に対して「こいつらわかってない」とか何とか思った記憶がある。まさに中学生。
 この点数が妥当と思えるかどうかということはさておく。
 90年代中盤においてファミ通クロスレビューは確実にその性格を変えていっている。少なくとも、今のファミ通スクウェアエニックスの一押しの新作にこの点数を付けるとは到底考えにくい。*2
 ファミ通クロスレビューがそのように性格を変容させると同時に、90年代後半には「ファミ通クロスレビュー」が権威的なものとして捉えられる文脈が確実に成立している。同誌に連載の鈴木みそ「大人のしくみ」の中で、飯野賢治*3浜村通信クロスレビューについて討論を交わすという場面もあった。飯野健治が問題としたのは、ゲーム業界で影響を持ちすぎてある種の権威となってしまった「クロスレビュー」の公正さをどう設計すべきか、ということだった。そして、90年代後半以降、クロスレビューに触れるとき浜村通信が繰り返し言うようになったことの一つは「実際のゲームプレイヤーの気持ちになることが重要だよね」(以下、「同じ気持ち」発言と略す)という発言だ。下記に引用する。

最近とくに、ターゲットの狭いソフトが増えてきている。気をつけているのは、ターゲッティングされたユーザーと同じ気持ちになること。製作者も納得してプレイしているのにレビュアーだけが文句をつけているなんてね。レビューの意味がないもんねぇ(2001/9/21ファミ通増刊「クロスレビュースペシャル」)

 この発言がわかりやすい。昨年(2004年)4月には同様の主張を繰り返した後「もちろんいまのファミ通の評価は、その考えを前提において採点されている」*4とまで言っている。苦情を言ってくるファン層への防衛意識を換言すれば、なるほど、このような言い回しになるのだろう。*5

*1:評者はそれぞれ浜村通信、ローリング内沢、渡辺美紀、ジョルジョ中治。完全に余談だが、この評価は93年当時、私もびっくりしたし、開発者の河津さんなどはだいぶ根に持っていたようで、つい数年前の「コンティニュー」誌のインタビューでこの評価に対するグチと思われるような発言をしていた。

*2:その傍証として、現場の証言としては大沢良貴『ゲーム雑誌のカラクリ2』などがある。たとえばP52〜「アスキーにいた時代末期でしたが、当時スクウェアの話題作『ファイナルファンタジーVIII』の発売が間近に迫っておりました」/ この時機、さすがに注目作だけあって『ファミ通』に届いたサンプルに対する情報がけっこう流れていたものですが、このときはなかなか顕著なものがありました。別に『ファミ通』編集部に近いというわけでもないのに、「あっちゃー」という印象が流れまくっているのですから、サンプルをプレーした人の感想は押して知るべし。というより、実際に聞いてみると本当に評判が悪かったりするのですから始末に負えません。/しかし、その後の『ファミ通』では『ファイナルファンタジーVIII』が一押しのまま、300万本売れてくれて、めでたしめでたしというオチになりました。/ こういった現象に対して「広告もらってるからだろ?」「接待されたからだろ?」といったスキャンダラスな言葉で片付けるのは簡単でしょう。しかし、広告や接待で記事の扱いが変わるのであれば、かつて財閥系の大資本がゲーム業界に参入したときに失敗するわけはないし〜〜中略〜〜 / そもそも、どのゲーム雑誌もメーカーもそうですが、暗黙の了解のうちで業界を牽引していくタイトルやメーカーというものを決めてしまっています。はっきり言ってしまえば、ゲーム雑誌などはゲームの出来などは別として、その発売時期にあわせて特集を組んでしまっているので、実際にサンプルを遊んだ人々の正直な感想が入る余地などまったくありはしないのです。」

*3:はたまた完全に余談だが、飯野賢治が最も尊敬されていた「1997年」という年はゲーム雑誌が一番売れていた時期。スクウェアが一番強かった時期とも重なっている。

*4:ファミ通2004.4.16日、800号、P277

*5:「防衛意識の言い換えでしかない」というのはちょっと言いすぎかもしれないが。

システム的に「良い」レビュアーの誕生

 少し話は変わるが、この一年ほどamazonでレビュアーをやってみてわかったことがある。ご存知のように、amazonの読者レビューには一つ一つのレビューについて、匿名の第三者がそのレビューが参考になったかどうかについて「はい」「いいえ」で投票することができる。そして、多くの人から「参考になるレビュー」として認められるレビューを書いていくと優秀なレビュアーとしてランキングされる。優秀なレビュアーとしてランキングされることは、amazonでレビューを書く人々の動機のひとつになっている。
 優秀なレビュアーとしてランキングに載るためには「参考になるレビュー」をどんどん書いていけばいいわけだが、それは裏返して言えば、読者から「不評を買わないレビュー」をしていくことに他ならない。このときにレビュアーとして効率的に評価されていくためには、「ファンの多い作品のファンに媚びを売る」のが一番いい戦略である。たとえば、一般的に人気の高い『One Piece』関連の書籍であれば、絶対に褒めたほうが「良いレビュアー」として評価されやすい。なぜならばそのレビューを閲覧して、レビューに対して「良い/悪い」を投票する人のほとんどが、One Pieceのファンである確立が高いからだ。間違ってもOne Pieceについて貶したり、高踏的に捉えられるようなレビューを書いてはいけない。レビューを閲覧する人々の中の90%ぐらいを(たぶん)占めるであろうOne Pieceのファン達からすれば、そのレビューは十中八九「参考にならないレビュー」である。One Pieceのファン達のほとんどはOne Pieceについての批判的な感想は求めていない*1。ファンの多いものなのだから、とにかく褒めておけば間違いない。
 逆に「アンチの多い作品」は「これはクソ」と言っておけばよい。そうすれば、「これはクソ」と思っている多くの人が「参考になるレビュー」だと認めてくれるはずである。ネットに常駐する人々の90%以上に批判しようとされるようなタイプの本を想定してみよう。仮に、『インターネットという麻薬〜非行の温床としてパソコン文化〜』とかいうタイトルの本があったとしてみる。タイトルからしていかにもダメっぽいが、意外にいい内容の本だったとしてもこの本について「参考になるレビュー」を書くために中身を読む必要はまったくない。手にとる必要もない。ネット上のほぼ全ての人々を敵にまわすようなタイトルである。この本については「どうしようもない本。誤解の嵐。」と一行書けば、それだけで十分である。ネット上のほとんどの人がその意見に賛同してくれる。アンチの多そうな本だと思ったら、貶しておけば大丈夫である。
 身も蓋もないことを言うようだが、周りの評価さえ気にすればよい。つまり「ファン」と「アンチ」の比率さえ気にすれば、自分で頭を使わなくてもいいのだ。「ファンの多い作品」をチョイスして、「素晴らしい」という評価を繰り返していくだけでも、おそらく「良いレビュアー」としてシステム上は集計されることになるだろう。実際にレビュアーとして「不評」であるという証拠はないわけだ。amazon的に「良いレビュアー」を目指すゲームとは、レビュアーが誰にも不評を買わないように保身に走るのことが一番効率的なゲームなのである。
 だが、少し冷静になって考えてみると、これは決して歓迎できる事態ではない。そのレビュアーは個々の商品レビューの参考としては、そのように「良いレビュアー」としていつの間にか機能しはじめるが、少し長期的なスパンでみるとそのようなレビュアーによって侵食されたレビューの集積は「沈黙の螺旋*2ががっちり実現されただけだ。「ファンの多い本に批判を書いてはいけない」というゲームの勝利法に気づいたレビュアーたちばかりで、構成されたレビューシステムとは、「ファン」でない他者が沈黙しただけの場所になってしまう。
 そのような評価の集合を目の前にして、事情を知らなければ「これが世間の声か!」と勘違いすることも可能だが、事情をなんとなくわかってきた読者にとってみればそんなレビューは「高く評価するファンがいるかどうか」という情報以上の価値はない。レビューを一番熱心に読むファン層(あるいはアンチ層)から多少の賞賛を得られたとしても、「ちょっと興味を持った人」ぐらいの層からは単純に参考にならない。『One Piece』や『Final Fantasy』のファンが多い、ということがわかったとして、ファンでもなんでもない人にとっては何もうれしくない。
 今のファミ通はそのような「参考にならない」レビュー街道をまっしぐらである。浜村の言う「ユーザーと同じ気持ちになる」ということは、ユーザーでない人とは同じ気持ちにはなっていないということだ。

(あるいは、個別の商品レビューの場合でも、100%ファンしか買わないものならまだしも、40%のファンと60%のファンでない人が接する商品のレビューにおいては、そういう「ファンの声を重視する」戦略は完全に破綻するという問題もある。)

*1:言うまでもないが、One Pieceは例に出しただけである。別に、ハリーポッターでも、Narutoでもなんだっていい。ここではOne Piece自体の是非を言っているわけではない。

*2:というには大袈裟かもしれないが。「沈黙の螺旋」についてはhttp://www.socius.jp/info/clinical04.htmlを参照。一言でいうと、一つの意見で場が支配されているような雰囲気に圧されて将棋倒し式にみんな沈黙してしまうこと。

権威でないことの価値と、権威であることの責任

 ただ、浜村の「ユーザーと同じ気持ちになること」発言は、単に浜村通信という一個人がやってしまった保身の愚かさ、として片付けられるわけでもない。

 おそらく、浜村が「同じ気持ち」発言をしている背景にはクロスレビューが「権威化」したことと密接な関係がある。先ほど引用した昨年の浜村通信の発言には、次のような文章が続いている。

それなりの教養とスキルを積み、好みにおいてつねに中立を保てるスタンスを貫けること…(略)…そんな評価者を育てるということは、生半可な訓練でできることではないのだ。しかし、ゲーム雑誌の本来の役割は、よいゲームを見つけ、ファンに忠実に届けること。評価者の育成は、じつはゲーム雑誌の命運を分けるほど重要な課題となるはずだ

 クロスレビューの利点はもともとは、価値(嗜好)の多元性を前提と据えつつ、多様な立場からの意見を集積していくことだった。価値の多元性を押し出すがゆえに「バカ」なレビューもありえた。だが、それが「ファンと同じ気持ち」になり「教養」を身につけた「中立性」のある<理想的な評価者>*1になるのだ、などといいはじめた。つまり、権威あるレビューをやってやろうではないか、ということだ。

 だが、言うまでもなく、小規模な統計調査であるクロスレビューは「権威あるレビュー」をするための装置ではない。むしろ、多元的な価値を持つ個々人のレビュアーが「権威でない」ことを前提としてはじめて利用可能になるものだった(だから、文章自体は短くてもよい)。みんなが同じ評価をしないとわかっているから面白いのであって、みんなが同じ方向性で評価を下してしまうのでは意味がない。だが、それが90年代前半にファミマガを抜き売り上げダントツナンバー1のゲーム誌となり、売り上げは97年まで年々拡大してゆき*2ファミ通側の意図はどうあれ業界内での声が大きくなってしまい事実上の「権威化」がなされた*3浜村の「同じ気持ち」発言は、そのときに沸き起こってきたファミ通外部からの「権威としての責任を」という声に応じた、ファミ通内部からの反応にすぎなかったのだろう。「おまえ権威なんだから責任もて!」と言われて「じゃあ、権威にふさわしいものになってやろうじゃないか」と。
 そこでおそらくSoftwareImpressionのようなコーナーを充実させることも考えたのだろうが*4、実際に業界で大きな声を持ってしまったのはそんな人気のないコーナーではなく、人気のある「クロスレビュー」コーナーだったわけだ。そして、クロスレビューをどうするか、とさんざん悩んだ末が「同じ気持ち」発言なのだろう。*5権威として、大御所としての振る舞いとしては「同じ気持ち」発言に行かざるをえなかった感覚はわからないでもないのだ。

*1:昔の読者論であったような「理想的な読者」に近い議論をやっていると思います。

*2:「出版指標年報」より。ファミ通含む、ゲーム雑誌全体の売り上げは各年度の出版指標年報のデータを拾い上げてみると94年75億、95年103億、96年114億、97年134億、98年104億、99年96億、00年87億、01年67億、02年60億、と推移している

*3:また、こういったクロスレビューの「権威化」を支えたシステムの一つとして、四人の総合得点による「ゴールド」「シルバー」「プラチナ」殿堂入りをさせるという、四人の総合点の重視をさせてしまうような仕組みを押し進めてしまったという点も挙げられるだろう。四人、という少ないサンプル数の中で総合点や平均点の重視などをやったら当然のように一人一人の点数が重みを持ったものとして捉えられてしまうのも仕方がない。

*4:このコーナーの存在を知らない人も多いのでは。ファミ通の中にある長文のレビューコーナーです。

*5:だが、「同じ気持ち」発言までいくような悩みがどうこう以前に、結局ファミ通クロスレビュアーは、「ファミ通の編集者」という同質性に強く束縛されていて、権威を目指す以前に、サンプルとしては偏っていて使えないかも…という問題はけっこうあった。この問題もかなり重要なので、サンプルとしてあまりに偏っているとなると「各人が思ったこと書けばいいんでないの?」ということも気軽に言えない。

「理想的な評価者」は可能か

 に、しても、浜村通信の言うような理想的な評価者の存在は可能なのだろうか。
 結論から言えば、そんなものありえないと思う。文芸批評にせよ、映画批評にせよ、漫画批評にせよ、教養のある批評家や、分析が面白い・鋭いと言われる批評家が存在したことはあっても、それは別に中立的な価値の上にファンの気持ちを代弁してたからではない。
 一昔前のヨーロッパとかなら、貴族の教養階級が「俺は洗練された趣味を持った偉い批評家なのであって、おまえらバカな大衆どもは啓蒙されればいいのだ!」という感じで<良き趣味>の押し付けも可能だったかもしれない。しかし、ゲームで啓蒙といっても一体何するの?という問題もあるし、「洗練された趣味」は「ファンの気持ちを大切にすること」とは両立しないだろうし。

 ただ、一応留保をつけておくと、「ファミ通」ではムリでもへヴィーゲーマー向けの「コンティニュー」などの雑誌であれば、理想的な評価者<まがい>の人物はギリギリ登場できなくもないかも。とは思う。
 なぜならば読者層がある程度似たような人々であると思われるので、似たような前提を共有する批評家/読者の間であれば、解釈や価値の多元性とかにそこまで極端に配慮しなくとも、済んでしまう可能性はある*1。ただ、それは「コンティニュー」読者層というスモールワールドを抜け出してしまえば別に理想的な評価者でもなんでもない。

 で、なんだか、いつのまにか話がやたらと長くなってしまったので結局ファミ通クロスレビューをどうすればいいのか、という話に戻そう。
 結論を言うと私としては、ファミ通クロスレビューはなくしちゃっていいんじゃないか派、である。もう最近では自分も年に数回ぐらいしかクロスレビューを読んでいないし、バイヤーズガイド的なものはほとんどPlaystation mk2やネット上のものを参考にしている。浜村通信がいくら頑張ったところで構造的にムリなところにきてしまっているのではないか、と。

 ちなみに浜村通信は尊敬しています。

*1:似ている、とは言っても、それなり以上に多様な嗜好を持つ読者層ではあるかもしれないがファミ通と比べれば読者層のわかりやすさは圧倒的だろう。