Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

このブログについて

主にゲーム研究等に関わるテーマのメモです。

 

プロフィール(井上明人 INOUE Akito):

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(特にニュース性・公共性の高い話題について)

 

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RPG学研究 Japanese Journal of Analog Role-Playing Game Studies

RPG学研究が公刊されたとのこと。

https://jarps.net/journal/issue/view/1

 

基本的にCRPGではなく、TRPG研究という理解でいいのかな?

 

英語圏でも、「Role Playing Game Studies」を冠する本がZagalやDeterdingsらによって出されているので、名称的には、こうした流れの日本語版ということでよいのだろうか

https://www.amazon.co.jp/Role-Playing-Game-Studies-Transmedia-Foundations/dp/1138638900

 

 

瀬戸内哲学研究会「eスポーツの倫理学」

@広島大学です。山陽道をどんどんと西に移動しています……。

 

https://drive.google.com/file/d/19LrqFPLlLRSecinGoYQeyqphJs0rnOvo/view

日時:2019年9月4日(水)
場所:広島大学東千田キャンパス 東千田校舎A棟404講義室

第一部 eスポーツ倫理研究キックオフミーティング
岡本慎平(広島大学)「ビデオゲームがなぜ倫理の問題になるのか?」
萬屋博喜(広島工業大学)「eスポーツとしての格闘ゲーム
長門裕介(文京学院大学)「eスポーツ競技のエトスとはなにか」

に参加してきました。私も一応研究メンバーということで、名前を連ねさせていただいております。

 

下記、本当に雑なメモですが、晒しておきます。

 

■岡本発表
帰結主義的批判:悪影響を根拠にしたもの。 

(※井上:依存の話はあるので、あとで要追加)
 e-sportsを部活でやるとなった場合:子供が長時間プレイするということは起こりうる

*表現内容への批判:ゲームそのものが不道徳である(暴力的・差別的表現等) レーティング 「不道徳な芸術」問題 Garry Young 2014 人気のゲームの大半が暴力的、という批判は一理ある
対人プレイにおける倫理 特定のプレイが倫理的に不正 オンライン対戦における不正は帰結主義的にも、義務論的にも不正 Kimppa.K.K. and Bissett A. K. 2005 The ethical significance of Cheating in Online Computer Games", International Review of Information Ethics, vol. 4.
 義務論:相手に対する裏切り 帰結主義的:
 オンラインゲームのなかのものを「盗む」というのはありうる話なのか 2012 Litska Strikwerka
 AIに対する倫理 ゲームのCPU戦こそ、AIの倫理の適用可能な物足はないか

 

Christopher A. Paul (2018) The Toxic Meritocracy of Video Games: Why Gaming Culture Is the Worst,University of Minnesota Press.

 Miguel Sicart (2009) The Ethics of Computer Games, the MIT Press. 

Miguel Sicart (2013) Beyond Choices: The Design of Ethical Gameplay. the MIT Press 

Garry Young (2014) Ethics in the Virtual World: The Morality and Psychology of Gaming, Routledge.


RTA(Real Time Attack)の倫理

 

萬屋さん

格ゲー少史的な話の整理。

ヒュームの研究者であるが、長年の格ゲープレイヤーでもあるとのこと。

 

(井上:スポーツ概念の歴史的変遷については、阿部さんの『近代スポーツマンシップの誕生と成長』を参照するとよいのでは)


長門

 

「スポーツの試合の存在目的というのは、同意されたルールによって規制された制限の範囲内で、どちらが空間時間の中で身体/用具を動かす能力に優れているのかを、互いに試し合うための公正な機会を提供することである。」(フレイリー1989:56)

ウォレン・フレイリー (1989).『スポーツ・モラル』、不昧堂出版

 

規範的含意:
• 競技スポーツにおけるルールの改正は卓越者を正確に認識する可能性を高めるものでなければならない。
• ルールの改定はそれぞれのスポーツのエトス(本質)を参照して行わなければならない。

 

ビデオゲームはゲーム内部的には規制的 regulative な規則をほとんど必要としない、あるいは規範のありかたが典型的なスポーツと異なる。

 

(井上:公平性をエトスとするというのは面白い、ゲームの場合売れるかどうか、面白いかどうか
ルール、規範を必要としない
ルールの階層性があるのかガバナンスのプロセスからして、スポーツと言えないのではないかと
>プロセスの階層性はたしかに薄いが、そこがないわけではなく、 実質的にはunofficlalにconventionalなruleなどの階層性は生じるといところと、official ルールに反映されないという齟齬が沢山おこる構造になっている  そこが未熟だとも言えるし、面白いとも言える
 そこを民主化していないだけで、独裁的にプレイヤーたちの期待を予期しているのでは
サーフィンや登山は、ルールや卓越性と関係がないのでスポーツではないとみなす学者は多い)

 

■質疑
長門

ゲームのルールを構成的規則で説明すべきではなく「波動拳がでる」とかは、因果関係ではないか簡単にサール的な枠組みを使うことはできないのではないか
萬屋

因果的と言えるのでは
>質問

regulative と、構成的というのに分けるのが本当によいのか。サールの枠組みはゲームに簡単に敵とすることはできないのではないか

 

 

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■雑感

全体的に質問のレベルも発表のレベルも高めで、楽しかった。

サールの「構成的規則」をビデオゲームにそのまま適用してよいのかどうか、という論点は、とても興味深い。

31日の松永本の書評会でも「因果」概念の構成が問題になったが、ビデオゲームにおいて「因果」概念をどのように適用するのか、ということはもう少しつきつめて考えておきたい。

 

FIT講演:ゲーミフィケーションの「次」のステップに向けて

岡山にいます。

FIT2019 第18回情報科学技術フォーラムにて「ゲーミフィケーションが拓くサイバーワールドの可能性」東京情報大学の河野 義広先生にお招きいただき、岸本先生、坂井先生らとセッションでお話をさせていただきました。

 

井上の話としては主に、ゲーミフィケーション系のサービスの進展にとって、技術的にどういう部分が変化すると、インパクトがあるのか、という話を簡単にまとめました。

 

  1. センサリング技術のイノベーション:血液の情報取得、食事内容の解析etc…のコスト変化
  2. ファジーな情報判断のイノベーションDeep learningなどのAI/AI関連技術のイノベーション
  3. データフォーマットの標準化と普及:データフォーマットのバラ付きがある公開情報:食事の成分情報、コンテンツの作品情報などを扱いやすく
  4. IOT/タンジブル・インターフェイス  
  5. XR技術のイノベーション:重ね合わせの技術、スマートグラス

 また、社会制度的な問題として、技術のレイヤーとは別に、

  1. データ利用の権利に関する制度変化
  2. 倫理基準の策定
  3. ゲーミフィケーションのデザイナーの誕生

 などが、大きな影響のあるポイントだろうという話をしました。

メモ「ビデオゲームの世界はどのように作られているのか? --松永伸司『ビデオゲームの美学』をヒントに」

2019年8月31日イベント 

https://univ.osaka-seikei.jp/news/747

のメモです。

(井上:………)の部分は、思ったことのメモです。

 

 

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加藤隆文(大阪成蹊大学) 司会
松永伸司
三木那由多
ナンバユウキ

■松永伸司発表

 

松永による資料


すべて画面がある。これをビデオゲームという
(井上:ということは、NIMRODやJoust JSとかはビデオゲームに含まない?)

本書は、特に画面に注目している
画面からどのような意味を引き出しているのか

画面は、フィクションと、ゲームメカニクスを表す機能を持っている。

(井上:メカニクス概念は人によってちょっと違う)

「画面」が2つの方向を持っているとはどういうことか

記号のレベルを統語論
記号と内容の関係のレベルが意味論

三項のモデルをつくることで何がいいか
メカニクスとフィクションの間の食い違い、についての記述を可能にする

この種の食い違いは二方向の意味の食い違いで生じる

例:
 3Dゲームでの見えない壁、MGS V TPP (コリジョン
 ローランを閉じ込める(どうぶつの森
 MCPIXEL、動画実況

ほかにもいろいろな論点はあるよ

■三木那由他大阪大学)、ビデオゲーム統語論と意味論
専門は言語、コミュニケーションの哲学

ビデオゲームを言語のように見る

特にビデオゲーム統語論と意味論を与えようという話がよかった
言語として見られるのではないか、と

統語論:記号がどうつながるかについての理論
意味論:記号とその意味内容についての理論

1.記号と記号をつなげるという話がない:
  マリオが土管に乗る。マリオがはしごを登る。

2.ふたつの意味論の関係がはっきりしていない:
  フィクションと、メカニクスの意味論の関係

  二重の意味論というのが面白いと思った。
  同じ記号体型に対する2つの意味論というのは、なんのこっちゃいと思った。

 GTAのような複合的な記号を扱うケースタ、
 虚構的内容からメカニクスが推測できるのか

 恋人同士の暗号の例:
 「今日は晴れているね。散歩にでも行きたいな」
 =今晩会いたい。私の家に来てほしい。

 囲碁五目並べのどちらを遊んでいるかは盤面だけからはわからない。
 虚構的内容から、ゲームメカニクスを「常に」推測できるわけではない。


・言語の統語論
 チョムスキー
  Lという言語があるとする。
  Lという言語の統語論をつくるとき
  Lの文となる文法的な文字列の並びをしらべ、文とならないものを区別すること

 「文だけに共通の構造を探す」

 ビデオゲームに文と非文はありうるか
 →認可画面と、不認可画面(バグ画面)がありうる
  これを、文と非文に対応させるといいのではないか

 
・虚構的内容から、ゲームメカニクス的内容の推測がどのように確保されているのか
 日本語文
 「外で雨が降っている」→ 日本語としての意味 → フィクションでの使用


 ゲーム制作者が、任意に、フィクション記号の内容を、ゲームメカニクス的内容に結びつける。(そこには、準因果的情報関係があるのではないか)
※準因果的:「焚き火と、煙」というような自然的な因果関係ではなく、共通の原因から出てくる推測がなりたつもの
 「私の食事から、弟の食事の推測が可能」:母という共通の原因


意味論はひとつだけ

 

■「ゲームプレイ/ヤの美学 プレイ鑑賞、4つの特徴、2つのプレイヤ」ナンバユウキ

「ゲームプレイの鑑賞者として、ビデオゲームの美学について考えたい」
プレイ鑑賞は、自分がプレイするわけではない。
ただ、十分にまとめきれなかったとのこと。

 既存のアプローチは社会学やファン研究であるが、
 本発表では、形式的な特徴づけを行いたい

ゲームプレイはゲームプレイのアーカイブの対象となりうるか:
 (井上:
  なりうるけど、どういった手法でそれをおこなうかが問題
  メタデータの構造上、そういった部分を設計することはできる
  ただ、長期の保存体制の設計についてはまた議論がありうる。
  また、何をもってゲームプレイのアーカイブとするのか)
  

タンデム・プレイ:
 ゲームメカニクスと、ゲーム行為


 ゲームプレイと、ゲーム行為の違い
 1.標準的な意味でのメカニクスインタラクティブではない
 2.標準的な意味でのゲームプレイではない
 3.標準的な意味でのゲーム行為ではない

 プレイ鑑賞の4つの特徴
 ※井上:典型性を何によって担保しているのでしょうか……?

 engagement プレイ鑑賞者からプレイヤへの情動的な関わり

 ゲーム内プレイヤ:アバターを介したプレイヤの現れ
 ゲーム外プレイヤ:vtuber キズナアイなどのレイヤーのプレイヤの現れ

 「RTAは、人間がやっているというところがRTAの面白さになるのではないか。
 もっとも、機械学習した面白さもあるにはあるが、それは別種の面白さ」

 
 

■松永

 足りていない部分は、描写の哲学、の人たちにいろいろと押し付けたいという気持ち

 フィクションのほうは、意味論ではなく、語用論ではないか。
 >その通りなのだが、言語哲学からみるとへんなことになっている。
  Goodmanなどの発表
 
 統語論とゲームメカニクスを同一視するのは避けたい
 「画面としておかしい、おかしくない」→これは統語論
 「ゲームのメカニクスとして成り立っている。成り立っていない」→これはメカニクス

 準因果的情報関係
  これはいい概念である、と。

 BABA IS YOU
 は明らかに画面がメカニクスを伝えている

>みき

 統語論的関係そのものはあるのではないか、と。
 なにかしら、くっつくかたちで画面はできあがっているのではないか。

 mario on 土管 というのは?

>みき
 基本的には、ゲーム画面のバグはゲームごとに判断するしかなかろう
 ユニバーサルグラマーはあったら面白いが、ないのでは

>まつなが
 バグかどうかは、プログラマーの意図に沿う意図主義の立場をとる

(意図主義VS学習とで、立場は異なりうる)

(井上:たしかに、バグだとユニバーサルグラマーはむずかしいので、クソゲーの判定のほうが、よっぽど重要なようが気がする)


>みき
syntaxに沿ってきまる虚構的内容があるのでは

言語のsyntaxを転用して、ビデオゲームのsyntaxは成立しているのではないか
それこそが、the 哲学のようなものになるのではないか。

 

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質問はSlido

https://www.sli.do/

にイベントコードを発行しておこなっており、これは使いやすくてよかった

 

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全体の雑なまとめとしては、

1.三木さんの2つの指摘は妥当である

2.「統語論」概念については、松永はGoodmanらの用法を引き継いでおり、Chomskyなどの用法からすると奇妙には見えるであろう

3.記号同士の意味については、松永の議論体系の上では問題ない。ただし、よりすすんだ話は、描画の哲学などの人にまかせたい

 

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僕として、論点として思ったことは、

1.バグはユニバーサルには判定できず、ゲームごとにそれが、機能していない画面であることを確認するほかないのは同意

2.一方で、ゲームとして「成立している」「成立していない」は問えないが、「クソゲー」かどうかは、もう少し(相対的に)一般化可能であるような気はする。まあ、あるゲームがクソかどうかは個人差があるが………

 「何をやればいいかわかる」「何をやればいいかがわからない」

 「楽しみ方がわかる」「楽して方がわからない」

 あたりは比較的、多くのゲームの開発途中の状況たよくみられるもので、開発途中のゲームのそういった状況をみつつ「これでは成立していない」「これならアリ」みたいのをゲーム開発途中では、都度判断していることが多いので、そこらへんの判断とかにユニバーサルな側面を見いだせるかどうか、みたいなことは論じられうるかも? 

 

笹原和俊『フェイクニュースを科学する』(2018、化学同人)メモ

基本的な先行研究などを含めて、よくまとめている良書で、勉強になり、非常に面白かった。

特に、三章がこの分野での実証系の先行研究を丁寧に紹介しており、素晴らしい。

 

 

■一章

 略

■二章

認知バイアスについての一般的な研究を紹介する章。認知バイアスについて、一般によく言われることを手際よくまとめてある。関連分野に詳しければ概ね知っているか、というぐらいの内容ではある。

 

認知バイアスCognitive Biasの4タイプ:情報過多、意味不足、時間不足、記憶容量不足

 確証バイアス Confirmation Bias :Hastorf 1954

 利用可能性ヒューリスティクス Availability  Heuristic

 バンドワゴン効果 Bandwagon Effect

 同調圧力 Peer Pressureソロモン・アッシュによる実験(Asch 1951)

社会的影響の実験:ヒットソングにおける社会的影響の効果 Salganik 2006(ダンカンワッツも参加している実験)

情動感染 Emotion Contagion : Berger et al 2012, Fan et al 2014, Kramer 2014

道徳的感情の伝播 Brady 2017

同類性 Homophily : Chiristakis 2007(BMIが近い人どうしで社会的クラスタの形成が見られた。)、Centola 2011(同質性の高いクラスタほど、コミュニティが活発化)

 『デマの心理学』(1952)

   噂の流布量=話題の重要さ X 状況の曖昧さ

 

■三章 本書のもっとも重要な章。

<エコーチェンバー Echo Chamber>

 サンスティーン,2001『インターネットは民主主義の敵か』:エコーチェンバーを民主主義の根幹に関わる問題として指摘。デビット・ショーが1990年に書いた本の中で使われている。

 

 Adamic 2005 政治系ブログの引用関係がしっかりとクラスタ化されていることを明らかに

 Conover 2012 RTのクラスタ化傾向を明らかに。保守系ユーザーのほうが、よりクラスタの密集性が高い

Jasny 2015:気候変動を論じるグループの中で、エコーかつチェンバー※と言いうる状況があることを確認

※推移的トライアド(Transitive Triad)概念を前提としている

 2者が同一の意見を持つ:エコー

 同じ情報が複数の経路を経由して伝播:チェンバー

 

Sasahara et al 2017 シュミレーション実験。確証バイアス、社会的影響、社会的切断などの諸条件が整うことで、はじめてエコーチェンバーが成立(単独条件だと、エコーチェンバーは成立しない)

 

デモサイト

http://bl.ocks.org/haoopeng/raw/055662c96ec770be1930574cfe1553f2/?lang=japanese

 

<フィルターバブル Filter Bubble>

アルゴリズムによるクラスタ形成促進。エコーチェンバーとは区別されている。

イーライ・パリサー『閉じこもるインターネット』で提唱

 

Personalization 2009年にはじまった(ということになっている)

Kosinski 2013 「いいね!」からの属性の推定

Youyou 2015 BIG5(性格特定因子)を推定

 

Dumber's Number ダンバー数:人が安定的な社会関係を維持できる人数の上限といわれている(ロビン・ダンバー,2011『友達の数は何人』)

 

Bakshy et al 2015 フェイスブックはフィルターバブルの原因ではないことを主張する論文(著者らは3人ともフェイスブックのなかの人)。アルゴリズムによる影響力よりも、友人によるフィルタリングの影響のほうが大きいとのこと。また、とりわけ、リベラル派のほうが、イデオロギーが反対のニュースに出会う確率が低い。

 

Politecho https://politecho.org/ 自分の政治的偏りを可視化してくれる

SmartNews ユーザーの政治的好みとは異なるタイプのニュースをある程度配信する

 

■四章

Information Overload もともとはアルビン・トフラー『未来の衝撃』で有名になった概念

Social botTwitter botなど、botの中でもソーシャルメディアで使われるもの

 

Weng 2012 ハッシュタグの人気度はべき分布のなかでも特に「ヘビーテール分布」と呼ばれる裾の重い分布に従っているとのこと。この分布についてシュミレーションモデルを作り、再現することに成功

 

この章の結論として、情報過多な状況下では、注意力のスキを付く形でフェイクニュースが拡散される素地があるのではないか、とのこと

 

 

■五章

対策が紹介されている。この章も知らない話が多かった。

 

メディアリテラシー教育>

ESCAPE Junk News : Evidence, Source, Context, Audience, Purpose, Execution

情報のシェアをする価値があるかどうかのフローチャート

https://twitter.com/newseum/status/901095583229902848

 

<各種のファクトチェックプロジェクト>

大統領候補者のファクトチェック

https://www.politifact.com/truth-o-meter/article/2016/aug/16/post-truth-election-comparing-2016-past-elections-/

 

政治家のTruth meter

https://www.politifact.com/truth-o-meter/statements/

 

Factitious http://factitious.augamestudio.com/#/

 Fake news を見破るゲーム

 

自動ファクトチェックシステム:

 クレームバスター(テキサス大学アーリントン校)

 https://idir.uta.edu/claimbuster/

 この仕組をもとに疑いのある情報を新聞社などと共有

 

 ファクト・チェック・イニシアチブ

 https://fij.info/

 

<法規制>

 ネットワーク執行法(通称:フェイスブック法) at ドイツ

  ←過度な規制として表現の自由と衝突するのではないかとの声もあり

 

■終章

 

ミゲル・シカール『遊び心の哲学』関連メモ

目次:

 

特に丁寧ではないメモです。 

おくればせながら、ようやく読む時間をつくったので、

 

良かったところ

  • メタケトル
  • 建築家へ(7章)
  • 学術的な議論への応答は本文ではなく、脚注にかなり丁寧に書かれており、ゲームスタディーのプロパーにとっては脚注はかなり読み応えがある。

 

 

原注リンク集

http://www.kaminotane.com/2019/04/26/5627/

すばらしい!

このリンク先をあらかた見てから、本文読めばよかったかもしれない。

 

ほかリンク

 

松永X吉田 対談

http://www.kaminotane.com/2019/07/22/6084/

吉田発言部

それに対して、彼は、これからはアーキテクトの時代であるべきだと言うわけです。しかし他方でアーキテクチャは、ローレンス・レッシグ東浩紀環境管理型権力を論じる際のキーワードでもあったわけで[4]、やはり権力装置としての側面を無視できない。強制や命令ではないかたちで権力が作動する機構がアーキテクチャと呼ばれてきたわけですが、しかし『プレイ・マターズ』のなかではそこについての議論がないままアーキテクチャの話がされるので、読んでいて何か足りないなと思いました。

 じつは個人的には、そこはすっと読めたというか、シカールの本でいちばん良かったです。

 もちろん、吉田さんらの論点もわかるのですが、まあ、このあとで、松永さんも補足している通りで、建築家の青木淳さんが書かれた『遊園地と原っぱ』の議論の原っぱてきなものを想定しつつ読みました。

 この後にくる松永くんの整理にはほぼ賛成で、「空間性」というところでいうと、ジェンキンスの議論と一見近いのだけれども、シカールがここで想定しているのは、ほぼほぼ青木さんの原っぱ概念に近いだろうな、という気はしました。

 青木さんとは、ゲンロンの拙稿を読んでくださったとのことで、昨年にイベントでも対談させていただきした。現在では、遊園地と原っぱの二項対立ではなく、その両者が合わさったようなモデルでお考えのようです。

 そこらへんは、青木さんと、僕の対談をセッティングしていただいた、浅子さんがいろいろと書いてくださっています。

https://medium.com/kenchikutouron/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E5%BB%BA%E7%AF%89-%E5%BA%8F%E8%AA%AC-%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%B7%B3%E8%AB%96-b50f89c37cfe

 

松永発言部

古いところだと中沢新一さんが「バグと戯れる」っていう話をしているじゃないですか[8]。これは『ゼビウス』が具体例ですけど、バグというのはようするに機械の内にすでにあるものです。作り手は想定していない、それが正当な遊びだと思ってはいないんだけれども、ただ機械の内にもうそれが物として存在しているので、プレイヤーはバグを使って遊べる。 

 

 シカールに対する言及としては、問題ないと思うのですが、

 この後吉田さんも僕の話に言及してくださってますが、

(1)『ファクトリオ』のプレイヤーが、徐々に飽きながら焦点を変える

(2)ゼビウスのプレイヤーが、いろいろやりつくして、半ば飽きながらバグで遊ぶほうほうを創り出す

(3)飽きるのとは、関係なく、何かの物体を「遊び心」によって流用をする

 というのは、個人的には、分けて考えたいと思っています。(2)のような、飽きが関係した末の予定外の方向へのシフトだと、学習プロセスの一部に位置づけられうるものになるので、シカールの言うところの純粋に「ディオニュソス的」なものというより「アポロン的」なもの中間として位置づけられてしまうかな、と思っています。

 シカールの議論は(3)の部分に全体として注目しているところが多い議論だろうと思っています。

 この(1)(2)(3)が違うというのは、かなり前から、地味に脚注とかで何度か主張している程度なのですが、けっこう重要な区分だと思っています。

 これに関わるところで、

 

 松永発言部

「縛りプレイ」とかがわかりやすい例で、自分で何か縛りを設定することによってチャレンジを作るということで、それもある種の流用として理解できるのかなと思います。

 ここも、細かいツッコミされても正直こまるとは思うんですが、この議論の流れだと、ちょっとだけ違くて、

 『ファクトリオ』の焦点移動は完全にゲーム開発者の想定範囲内で起こることなのですよね。「飽き」のタイミングは、ゲーム開発者がけっこう予測できてしまうので、「飽きるかな?」というところをテストプレイなどの結果をもとに、予測・調整して、ゲームの標準的な遊び方のプロセスに組み込んでしまえるものなんですよね。

 一方で、しばりプレイの話は上記の(2)のケースで、これは開発者側にはこまかくは予測がつかない。なので、(1)の話の文脈と(2)の話の文脈がつながると、若干の違和感がありました。

 

追記:松永返事へのコメント

お返事いただいた。

 

>表

 表のような論理的分類として考えていたというよりは、ゲームを遊ぶ時の一連の運動的なプロセスとして想定していたので、表にされると「おおっ!」という感じで驚きがあり、よかったです。

 「カーニバルのような〈主体的ではないが形式から逸脱する遊び〉」は、面白いですね。「逸脱」というのが、主体的なコミットメントを必要としない概念として考えるのなら、そういうのはありうるのかも……。(個人的には、「逸脱」概念は主体的なコミットメントとセットだと思っていたので、ありうるとは想定していませんでした)

 シカールの話にもどすと、松永訳pp29-30あたりとか、一章の注44あたりを読むと、シカールのカーニバル概念は、ちょっと西田清和「遊びつつ遊ばれる」みたいな概念、ぽい感じがあり、「主体的なコミットメントがないけど、ある」みたいなタイプの想定のようなで、4つめそのものとも違うものみたいで……こういうの入れると2*2で4タイプじゃなくて、2*3の6タイプぐらいの話になるやもしれませんね。

 

ゲーミフィケーション(やメタAI)が既存の体制への抵抗かどうか

 「設計者の意図に沿う」という意味ではその通りだとおもいます。

 ただ、その場合、設計者が、

(1)中国共産党の幹部などの実世界の権力者が設計したゲームなのか

(2)デモの旗振り役の人が設計したゲームなど、既存体制への抵抗者が運動の組織化のために仕掛けたものなのか

によって意味が違ってくるので、すべてのゲーミフィケーションが既存体制に利用される、という懸念はあまりもっていないです。

 

>剰余説的な話

 剰余説は、個人的にはあまりピンときていなかったので、面白い論点だと思います。

 剰余説にしっくり来ていなかった理由というのがあるとすると、学説として聞くには聞くけど、認知科学的な議論のなかでの実証があるという話を聞かないためだと思います。(ただ不勉強なだけかもしれませんが……)

 心理系の話だったらそれに近そうなものとしては、カール・ビューラーが100年ぐらい前に言っていたの「機能快 Funktionslust」 の概念*1とかをおもいつくぐらいで、実証的とはとても言えない感じですが。「潜在的に」というのが、実証系の研究でやりにくい話なのかもしれません。

 

 ただ、

「繊細でいわく言い難い行為(=美的行為)をおこなう能力(身体能力であれ思考能力であれ)」

 を人間が備えうるというのは、剰余説的な枠組みではなく、一般的な認知科学系の議論でもいけそうな気はします*2

 その美的行為の能力が

 1.オギャーと生まれる頃には発現している能力なのか(ほぼ先天的)

 2.人間の発達プロセスのなかでだいたいの人に発現する能力なのか(臨界期のときに獲得。)

 3.人によってはそういう能力を身につけることもある(後天的な学習)

 のどれにあたるのかが謎で、

 強化学習とかフロー体験みたいなものを起こす能力は、発生的にはかなり幼い段階で獲得している印象があるんですが、「美的行為」みたいのは、強化学習的な話というより、強化学習をしたあとに見えてくる風景みたいな気がするので、すくなくとも2歳児ぐらいはまだ持ってないのではないかという気がします。5歳児ぐらいだと人によっては、ありそう(雑予想なので、雑に聞いて下さい)。いずれにしよ、臨界期のプロセスのなかで徐々に獲得される能力の一つなのではないかという気はします。

 ただ、僕もシラーはぜんぜんタッチできてないので、勉強しよう……

 

 

 

 

 

 

 

*1:Karl Bühler,Die geistige Entwicklung des Kindes. Verlag Gustav Fischer, Jena 1918.(=邦題:『幼児の精神発達』 (1966年、原田茂訳、協同出版)

*2:キーワード的には、これは、何を調べればいいのか、ぱっと思いつかないですが。なんか、知らないだけで多分、一群の研究がありそう