Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

『ハクティヴィズムとは何か』塚越健司 #2

 先日の記事の続き、(http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20120824)。

ハクティビズムとは何か ハッカーと社会運動 (ソフトバンク新書)

ハクティビズムとは何か ハッカーと社会運動 (ソフトバンク新書)

 またパラパラとめくっておりましたら、
 P148から、拙著引用いただいていたようでありがとうございました。

 ゲーミフィケーションの話をご紹介いただいたあと、slacktivism(怠け者でも参加できる、政治・社会運動)の話へつなぎ、slactivismへの評価の難しさに言及。そして、アノニマス内部の運営プロセスにも一種のゲーミフィケーション的な側面があるのではないか、というご指摘。

 *

 論旨としては、

  • ウィキリークスが「ジュリアン・アサンジ」という象徴的、カリスマ的なリーダーを必要とする形で運営されていたという、20世紀から脈絡と続くタイプの大衆動員の方法(本書では「人称的動員」と呼ばれる)だった。
  • 一方で、アノニマスは、アサンジの代わりに「仮面」のキャラクターによって運営がなされ、抗議活動はネットにおけるある種の「祭り」として行われている。 

 という文脈なので、ぱっと読んだ限りは、ゲーミフィケーションというよりかは、「祭り」による社会運動論みたいな話として位置づけられてらっしゃるのかな。という気がいたしました。
 ただ、「祭り」云々という方向性だと、それは鈴木謙介さんのカーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)でも、本書の中に挙げてらっしゃる、北田さんの嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)でも参照先はいいわけで、ゲーミフィケーションとういワードをご参照いただく必要はないのかな、という印象を持ちました。
 ゲーミフィケーションは、そのテクニックの一つとしてネットの「祭り」を利用することはあるにはあるわけですが、それはかなり脇道という感じです。自然発生的な祭り、だけだと一過性で終わってしまうので、そういのは、たしかに「楽しさを介した社会運動」ではあるのですが、継続性や、再現性をもたないものになってしまう場合、「楽しさ」ではあっても、「ゲーム」とはちょっと違うかな、という感じがします。ゲームの設計者の意図との関わりがかなり薄くなりがちな社会運動になってしまうきらいがあるので、スラックティヴィズムではあっても、ゲーミフィケーションと呼ぶのはちょっとニュアンスが違うかもな…と。
 「ゲーミフィケーション」という言葉は、「ゲームの要素を持ち込むこと」ですので、要素を持ち込むための主体がいる、ということを多くの場合想定していると思っています。つまり、一種の設計主義的な話なわけです。
 ですので、「祭り」を意図的に生み出したり、祭りの再現をするようなメカニズムを内部に持ち得ていたら、ゲーミフィケーション、という表現をしてももうちょっとしっくり来るかな、という感があります。たとえば、ねとぽよ第一号(http://www.netpoyo.jp/sample/01/)で、2chの大規模OFF主催グループがいかに意図的に、うまく大規模OFFを演出するためのノウハウを溜め込んでいるか、という話がありますが、そういう話であれば、けっこう、ああゲームっぽく運営してんのかもな、という気にはなります。

 おおざっぱな言い方で恐縮ですが、ネラー風に記述させていただくと、

「ネット上の「祭り」ヤベーwww。これ社会を変えるんじゃね?wwww」

 というのが、ちょっと前までの「祭り」論だとすれば、

「>>1 ポテンシャルはあると思うけど、うまく祭りをマネージできなけりゃ、ただの現代的大衆運動でしかないだろ」

 というノリがゲーミフィケーションの話には、ちょっとあります。

#「ゲーミフィケーションで儲かる!」とか言ってると、なんか、そういう社会思想的な文脈とかと切り離されて、また別の世界観になってますけどね) 

#まあ、こういうことを言うと、むろん、2chであれば、「設計主義乙ww」みたいな返しがかえってくるわけです……が、極端な設計主義者disみたいな藁人形叩きは、ご勘弁願いたく。

献本御礼: 塚越 健司『ハクティビズムとは何か ハッカーと社会運動

編集者の上林さんから下記の本、ご献本いただきました。

ハクティビズムとは何か ハッカーと社会運動 (ソフトバンク新書)

ハクティビズムとは何か ハッカーと社会運動 (ソフトバンク新書)

 まだ、30分ぐらいさらっと目を通しただけですので、かなり乱暴な感想ですが、しっかり読んだ後に感想書こうと思うと、書かずに終わることが多いので、感想メモ。献本御礼エントリーという程度でさらっと流し読みいただければ幸い。

  • ハクティヴィズムの歴史が、けっこうきちんと書いてあるっぽかった。カリフォルニアン・イデオロギーとか、サイバースペース独立宣言、スティーヴン・レヴィ、Winnyの金子さんの話とか、そういった話についてはひと通り。
  • 最新の、アノニマスに関する位置づけが興味深い。Wikileaksジュリアン・アサンジなどは、ある種のハッカーの伝統に基づくものとして、位置づけつつ、アノニマスは既存のハッカー倫理の分類とは異質なもの、として評価すべきものになってきている、という。
  • 実際に、既存のハッカー倫理の分類によって処理しきれないタイプの存在としてアノニマスが出てきているというのは、どの程度妥当なのかは、私にはあんまりよく評価できないけれども、「目立った活動」を実際にやってのけている人たちとしては、異質なのかしらん。ここらへんは、ちょっときちんと読んだら面白いことが書いてありそうだな、と。
  • この本についての専門的な評価については、日頃からお世話になっております山根信二さん(http://twitter.com/shinjiyamane)とか、多摩大の山内先生(https://www.facebook.com/yyamanouchi)とか八田真行さん(http://www.mhatta.org/)とかのほうが、ガチな評価が期待できそうなので、ガチな評価はそちらで。
  • 僕に近いところでの絡みでいえば、
    • 1.本書のなかでも言及いただいている通り、スティーヴン・レヴィの『ハッカーズ』には草創期のATARIゲームプログラマーなどが、ハッカーの代表的なクラスタの一つとして、書かれており、そこらへんは広げられそうではあるけれども、あんまり広がってない話の一つ。ここらへんは、多分、今現在だと、同人とかインディーシーンの話で、がっちりと話を接続すると何かおもしろい話に展開しそうではある。
    • 2.ゲーミフィケーションの実装や、展開自体に、どうハッカーが絡んでくるのか、というところは論点としては一個あるなと。ただ、現状、ゲーミフィケーションが胡散臭いと思われているのは、かなりの場合、ハッカー的な気質をもっている人からで、そこらへんはハッカー的な人たちに積極的に絡んでもらいたいわー
      • ゲーミフィケーションの話とハッカー的な「コンピューターにハマる」という話は、そもそもは相性自体はいいはずなのだと思っている。僕が、意外と山根さんと仲がよかったりするのも、いつの間にやら山根さんがハッカー倫理の研究者から、ゲームの研究界隈に来ていただりしている。それは、結局は、「ハマる」ことを介して世界を変える、ということが実は一貫したテーマという部分があったから、というところがある。自らを、ハッカーだとみなしている人の多くは、いまマーケティング界隈の胡散臭いワードとなっている「ゲーミフィケーション」と似たところがある、と言われると、イヤかもしれないが、実は似たようなもんだと思っており、じつはかなり一緒にやってけるもんだと思っている。
    • 3.あと、先月? Life(http://www.tbsradio.jp/life/index.html)で、「動員と革命」という特集に出させていただきましたが、それこそ、ハッカー的な話との絡みとか、攻殻のネタが出た時に、もっと頑張って話せればよかったな、と反省しました。僕が話しても、ちょっと微妙な感じになるかもわかりませんが。


 ということで、ガチな感想はそのうち誰かが書いてくれるでしょう、ということで。献本ありがとうございました

私がほとんど使わない言葉遣い 簡易まとめ

 私は性格的にめんどうなことはあまり言いたくないタイプ*1……なのですが、
 最近、私の議論の要約/話の書き起こしをご掲載いただくことが多くなり、かつ原稿チェックが入れられない場合がそこそこあります。そのこと自体は、最初からわかっていれば問題なかったり、言いたいことが概ね伝わるような内容であれば、あんま抗議とかをする気力は弱いのですが、「おまえ、あそこで、あんなことを言っとったやんか」みたいなことを言われても困るので…
 そうした取材をいただいた際に向けた、簡易チェック用まとめページということで、便宜的に、下記まとめさせていただきます。(実際の表現=言い換え、同義表現ではありません。)

ゲームに関わる概念

  • 1.使わない表現:「ゲーム性がある」「ゲーム性が高い」
    • 実際に話していると思われる表現:駆け引きの楽しさ、戦略性、作品としての方向性、ゲームの楽しさ
    • カギ括弧つきで「ゲーム性」という言葉を用いることはありますが、ベタにこの言葉を使う可能性は現時点で、ほぼありません。
    • ご参考:「ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって 」---http://www.critiqueofgames.net/paper/gamesei.html
  • 2.使わない表現:「遊び」、「ゲーム」、「面白さ」を同義で使うこと
    • 遊び/ゲーム/面白さは、それぞれ重なるところはある概念ですが、私の中ではそれぞれ違った概念です。たまに雑に言うこともありますが、だいたいは使い分けていますので、同義だと思って置き換えないでいただければ幸いです。

断定的/価値判断的表現:

 私個人の感想として「これは面白い/あんまおもろくない」という価値判断はけっこう言いますが、無前提に「正しい」「本質的」「健全」等の表現は、まず間違いなく使いません。断定表現を使う場合は、ほとんどの場合、他人についての話題(「○○さんは、〜だと言っている」)という言い方が多いと思います。

  • 3.使わない表現:「本質的に」、「本質は」
    • 実際の表現:ロバストな性質があると思われる、実際的には、理由として考えられるのは〜、それ抜きでは成立しない、相関が強い、因果関係がある可能性が高い
  • 4.使わない表現:「正しい」
    • 実際の表現:相対的に妥当性が高い、正当性を主張できる、レジティマシーが確保されている、一定の合理性がある、経済的合理性を考えると、社会的合意が構築されているかを考えると、○○の話はほぼ同意できる、正解とされている、一致する
  • 5.使わない表現:「健全である」
    • 実際の表現:私は望ましいと思います(「私は」という一人称が付きます) 
  • 6.「中立的立場からすると」「客観的には」
    • 実際の表現:第三者的には、その良し悪しの評価は一端脇に置くとして、そこで中立性を志向する立場を選択しようとした場合(「志向する」の一言が付きます)

*1:「和を以て貴しとなす」的マインドよりは、揉め事を一つ抱えると頭のリソースがとられてほかのことに気が回らなくなるのが嫌

近場の出演予定、インタビューなど

出演予定のもの

一般の方がオープンに参加可能なイベントでの出演予定を書いておきます。

  • 2012年3月17日(土)13:15 〜 17:00

 

現時点で、読める/見られる書籍『ゲーミフィケーション』関連のウェブ上のアーカイブ

書籍『ゲーミフィケーション』 反応まとめ

こちらに書評の反応まとめておきます。(おいおい追加)

再告知&急遽変更!

それと、本日ですが、
クローズアップ現代ゲーミフィケーション特集がされますので、その裏番組として、コメントしながらUSTさせていただきます!

http://www.s-dogs.jp/dgame/Event/radio01.html

濱野(智史)くんも、放送が終わったあとにかけつけてもらうことになりました!

「ゲーミフィケーション」:バズワードになってもいいけど、消費はしてもらいたくない件

 隊長…ではなくて山本一郎さんからコメントいただいておりました

今日の蜘蛛の糸メソッド
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/01/post-dca5.html

 この告知文は私が書いたわけではありませんが、私が同意したものですので、一応、わたしがこの告知文の責をもつ、ということで応答させていただきます。
 隊長にコメントいただいているように、告知文のところは、ご指摘いただいたようにも読める(俺たちの専売特許!!)というのは確かにそうだろうと思います。
 ですが、まあ、さすがにそんな痛々しい立場宣言をさせていただきたいわけではなく、「井上」や「深田」といった特定の人がの専売特許になるものだとは、もちろん思っておりません。

 告知文をもう少し敷衍するならば、こういうことです。
 たとえば、「ゲーミフィケーション」というと、もっとも浅薄な理解としては<「バッジ」や「レベル」を設定すれば、ゲームになる!>みたいなものという印象をもたれ、批判されています。この文脈は、ある意味で海外でゲーミフィケーションの議論をやっている人たちが、話をわかりやすくしようとしすぎた結果として生じてしまったある種の誤解だと思うのですが、誤解のほうがわかりやすく、広まりやすいインパクトを持っています。
 希望がもたれているもの、とうさんくさいもの、はどちらとも曖昧であり、ほんの少しのスイッチの掛け違いで交換可能なものです。今のところ、「希望」と「うさんくさいもの」のどちらの文脈も発生しているし、わけのわからないものだからこそ、こういう状況になっているのだと思います。
 ゲームに全く関わりのない文脈の方が、「ゲーム」について語る、ということはあっていいと思っています。そういうタイプの語り手の「語り」自体を受け入れられるような状況すら、この概念を広めるためのプロセスとしては、否定できないものだと思っています。
 しかし、そのタイプの語りは、波及にとって否定できないにせよ、そのタイプの語りだけだと、曖昧な言葉、が落ち着く先がありません。その先にある落ち着いた議論への道を開いておきたい。そういうことを考えています。
 たぶん、「ゲーミフィケーション」という語のふわふわした感じは、この分野の代表的なサービスのそのものが広く社会に実感として広まるまで続くものでしょう。できれば、それまでにこの話が失速せずにいてもらうための手を尽くしたいと思っています。
 「バッジ」や「レベル」といった、タイプのノウハウを擁護したいわけではなく、私がどうにかしたいと思っているのは、
 
 「ゲームが社会にとって意味のあるものになる」
 
 ということです。
 その状況を成立させるために、微力を尽くしていきたいと考えております。