Critique of Games メモと寸評

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「ゲーミフィケーション」:バズワードになってもいいけど、消費はしてもらいたくない件

 隊長…ではなくて山本一郎さんからコメントいただいておりました

今日の蜘蛛の糸メソッド
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/01/post-dca5.html

 この告知文は私が書いたわけではありませんが、私が同意したものですので、一応、わたしがこの告知文の責をもつ、ということで応答させていただきます。
 隊長にコメントいただいているように、告知文のところは、ご指摘いただいたようにも読める(俺たちの専売特許!!)というのは確かにそうだろうと思います。
 ですが、まあ、さすがにそんな痛々しい立場宣言をさせていただきたいわけではなく、「井上」や「深田」といった特定の人がの専売特許になるものだとは、もちろん思っておりません。

 告知文をもう少し敷衍するならば、こういうことです。
 たとえば、「ゲーミフィケーション」というと、もっとも浅薄な理解としては<「バッジ」や「レベル」を設定すれば、ゲームになる!>みたいなものという印象をもたれ、批判されています。この文脈は、ある意味で海外でゲーミフィケーションの議論をやっている人たちが、話をわかりやすくしようとしすぎた結果として生じてしまったある種の誤解だと思うのですが、誤解のほうがわかりやすく、広まりやすいインパクトを持っています。
 希望がもたれているもの、とうさんくさいもの、はどちらとも曖昧であり、ほんの少しのスイッチの掛け違いで交換可能なものです。今のところ、「希望」と「うさんくさいもの」のどちらの文脈も発生しているし、わけのわからないものだからこそ、こういう状況になっているのだと思います。
 ゲームに全く関わりのない文脈の方が、「ゲーム」について語る、ということはあっていいと思っています。そういうタイプの語り手の「語り」自体を受け入れられるような状況すら、この概念を広めるためのプロセスとしては、否定できないものだと思っています。
 しかし、そのタイプの語りは、波及にとって否定できないにせよ、そのタイプの語りだけだと、曖昧な言葉、が落ち着く先がありません。その先にある落ち着いた議論への道を開いておきたい。そういうことを考えています。
 たぶん、「ゲーミフィケーション」という語のふわふわした感じは、この分野の代表的なサービスのそのものが広く社会に実感として広まるまで続くものでしょう。できれば、それまでにこの話が失速せずにいてもらうための手を尽くしたいと思っています。
 「バッジ」や「レベル」といった、タイプのノウハウを擁護したいわけではなく、私がどうにかしたいと思っているのは、
 
 「ゲームが社会にとって意味のあるものになる」
 
 ということです。
 その状況を成立させるために、微力を尽くしていきたいと考えております。