Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

エリート高校の効果ナシ、という論文

成田くんが紹介( https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=2969)していた論文。

回帰不連続分析こと、1点差で高校に入れなかった組と、入れた組のその後の成績を比べた場合、ほとんど差はでなかった(どころか、むしろややマイナスの効果があった)とのこと。

Econometrica, Vol. 82, No. 1 (January, 2014), 137–196
THE ELITE ILLUSION: ACHIEVEMENT EFFECTS AT BOSTON
AND NEW YORK EXAM SCHOOLS
BY ATILA ABDULKADIROGLU ˘ , JOSHUA ANGRIST, AND PARAG PATHAK

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/pdf/10.3982/ECTA10266

 

一点差で、マイナスが出たのは、2:8の法則の影響とかがありそう。エリート集団の中で、下位であるより、非エリート集団のなかでトップの方が自己評価は高まりそうな感じはする。

gaming disorderの報道関連について、思ったことのメモなど

簡単なメモ

 

  • gaming disorderに関する議論は、調べればすぐわかることだが、Griffithsらなどの研究等を筆頭に、「科学的」なプロセスでの国際的な合意形成に向けた議論は積み重ねられている。単にgoogle scholarで、ぐぐって読んでほしい。たとえば、下記のレビュー論文にざっと目を通すだけでもいい。King, Daniel L., Maria C. Haagsma, Paul H. Delfabbro, Michael Gradisar, and Mark D. Griffiths. "Toward a consensus definition of pathological video-gaming: A systematic review of psychometric assessment tools." Clinical psychology review33, no. 3 (2013): 331-342.https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0272735813000056
  • このプロセスは基本的にゲーマー寄りの側からの反論が「そんなものは科学ではない」ないし、科学方法論批判的なメタ的批判が多く、同じ土俵で戦えていないという感触がある。このままだと、噛み合わないまま、話がすすんでいく。(もっとも、SNS内での議論自体はやらないよりは、やったほうがいい。ただ、片方の側がネット上にいないので議論自体がほとんど成立していない。)
  • 正直なところ科学批判系の議論は、もちろん重要だとは思うが、単純なはなし、有効打になっていないと思う。
  • gaming disorderに関する「科学コミュニティの合意形成プロセス」に、どう介入するかを考えないことには、政策的にこの問題に意見を反映させていくのはむずかしかろうと思われる。
  • 「長時間プレイ」が特に問題化されているのだという誤解は、gaming disorderの批判側も推進側も等しくもっていることが多いが、これは非常に不毛としか言いようがない。長時間プレイが論点なわけではない。
  • gaming disorderの報道はかなり問題のある報道が多く、私がコメントした朝日の記事も全体的な論調としてはかなり微妙で、無力感が漂った。麻薬とかだと「薬物報道ガイドライン」が提唱されており、こういったガイドラインが必要だと感じる。「長時間プレイをことさら問題にするのは、本来、問題のないゲームプレイヤーに対して萎縮効果を与える可能性がある」ということは、取材されるたびに、繰り返し言っているのだけれども、ぜんぜん通じなくて怖い。なんなん。
  • 私に見えている範囲で、理解されていないと感じる、報道に考えてほしいと思うのは、だいたい次のような点
  • 1 どれか一つの要因が主要因であるかのような報道を行わない。:とりわけ、長時間のゲームプレイが主要因であるかのようなミスリードした報道が目立つが、こういった報道は「単に熱中している人」までが不当に避難され、ゲームをしていること自体をスティグマ的に機能させる懸念がある
  • 2 診断基準が複合的基準であることについて可能な限り言及する
  • 3 有病率についての強い合意はない。有病率を報道することの「わかりやさ」の魅力に引っ張られすぎてはいけない。:DSMとICDの基準で、まったく違う数値がでてくる。
  • 4 ゲームによる依存や障害の研究は最近始まったばかりなのではなく、すでに10年以上どういった基準が妥当なのかについて細かな議論を行なっている。最近になってはじめて調査がすすんでいるというわけではない。
  • あと、現状できることとして、やはり報道によるレイベリング効果が心配なので、一連の「ゲーム依存報道」による、再帰的なネガティブな影響がどのような形で現れたのかを、同じ対照群できちんと見ていったほうがいいだろう。小中学校の子供に追跡調査ができたらいいと思うが、社会心理学界隈でそういったことに興味のある人がいたら、ぜひやってほしいのだけれども……。
  • 結局の所、「科学」のコミュニティ内部で可視化されている実証的研究のバリエーションがgaming disorderの実証&治癒に偏るとする、この件についてのレイベリング効果は「科学」からは不可視な現象となってしまうので、ないことと同じになってしまう。
  • 数週間程度でできることなら、もちろん自分でやる。けれども、話の負荷がかなり大きいので、この分野でキャリアを積もうと思っている人が現れないことには、話にがっちりタッチするのが大変。ここらへんが、ゲーム研究コミュニティの層の薄さの問題だと思う。社会心理学の人にもっときてほしい。
  • ってか、今回、報道のあった樋口さんの調査はどこで見られるのかがわからない………。はげひげ先生がコメントしてるのを見ると、なんか、どっかで公開されてるのだろうか……。
  • ここで公開されていた。https://www.ncasa-japan.jp/docs
  • 「ネット・ゲーム使用と生活習慣についてのアンケート結果(概要) 」を読んだが、正直、これは、樋口先生らの「要約」通りにNHKは報道している印象なので、NHK側の問題というよりも、樋口先生サイドの問題だと思った。(NHKの人、すまんかった)。
  • いや、樋口先生、こういう要約はやめましょうよ………。
  • 「別添」のほうが、調査票と、調査結果なので、そちらを中心にデータをみたほうが、よさそう
  • パット見「イースポーツの選手になるために、ゲームをしていますか?」に「はい」答えている子が64人もいるが、この子らについては、プロ選手を目指してスポーツにのめりこんでいる子と、同様の枠組みになるので、単に「disorder」の枠組みで片付けるのは無理が出そう。
  • あとは、はげひげ先生も言っているが、ワンショットではない縦断調査は必要。
  • この質問表に、レイベリングによる負の効果の調査もできるような枠組みをつけてほしいな。っていうか、ゲーム依存のような社会的にレイベリング効果が懸念される調査研究の場合の、調査設計では、そういう質問項目のをデフォルトでつけてほしい……。

 

関連するエントリとしては、下記も参照

 

(1) 2018.3.1

ロシアの自殺ゲーム「Blue Whale」の衝撃 井上明人×高橋ミレイ対談(前編)|Real Sound|リアルサウンド テック

 

(2) 2018.6.14

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第25回 ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤)【毎月第2木曜配信】 | PLANETS/第二次惑星開発委員会 

  

(3) 2018.7.17

ゲーム依存関係の話について

http://hiyokoya.hatenadiary.jp/entry/2018/07/17/124831

 

追記メモ@2020年6月29日:

↓オンラインゲーム・プレイヤーと、そうでない人の間のコミュニケーション特性に有意な差が見られないという論文

 
木暮照正. (2012). オンラインゲーム・プレイヤーのコミュニケーション特性: オンラインゲーム場面と日常場面における協調的コミュニケーションの比較.

http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000004292/21-27.pdf

 

 

2020年7月20日

井出先生のブログが、しっかりと文献レビューを含めて行っている。この問題について、関心の高い人には強くおすすめ。

ides.hatenablog.com

田中辰雄・浜屋敏(2019)『ネットは社会を分断しない』角川新書 メモ

 

田中先生の新著。面白かったので、ざっと読みながら興味深かった部分などのメモ。

 

ネットは社会を分断しない (角川新書)

ネットは社会を分断しない (角川新書)

 

 

基本的な主張:

2章:ネットの書き込みの分極化は確認できる。

ネットの書き込みの分極化は確認できる。また、ネットを利用する人のほうが、意見が過激化する

3章:中高年のほうが、分極化は強く観察される

(ネット利用率が少ないはずの)中高年のほうが、分極化は強く観察される。

たとえば、下記の研究なども参照。

Boxell, Levi, Matthew Gentzkow, and Jesse M. Shapiro. Is the internet causing political polarization? Evidence from demographics. No. w23258. National Bureau of Economic Research, 2017.

https://www.nber.org/papers/w23258

17年間分の世論調査を確認し、分極化がすすんでいるのは、中高年に顕著であることを示している。

 

4章:2章と3章の乖離を説明するための検証

2章と3章の結論は、互いに反するように見える。これに対する整合的な説明が必要。これは、因果が逆なだけではないか(もともと、過激なことを言いたい人がネットを使って発言している可能性)ということで、同一の被験者が、同じ時期に意見を変化させたかどうかを調べる。

図19:facebookは分極化を加速。twitterとブログ利用は穏健化を加速しているようなデータになったが、いずれも統計的に有意ではなかった。

図21:政治的動機を持つと思われる被験者を除外して、データをとりなおすと、twitter,faceboo,ブログのいずれでも、穏健化が観察できた。

細かく見ると、39歳以下のブログ利用(図24)、女性のブログ利用(図25)、もともと穏健的な傾向の人によるtwitter利用(図26)では、特に統計的に有意に確認できるレベルで、たしかに穏健化の傾向が見られた。

他方で、政治的にもともと急進的な人がtwitterを使うと、さらに過激化する傾向が見られた。(図26)

全体的には、ネットメディアの効果は、穏健化が優勢であるように思われる。

 

5章:選択的接触の実証研究

有名論客のフォロー状況から調べている。

選択的接触は、少なくともtwitterのフォロー状況を見る限りは、自分とは異なるタイプの論客をフォローしており、保守・リベラルどちらかに偏っているひとは5%以下と考えられる。

過激な人のクロス接触率(異なるタイプの論客をフォロー)は低くなる、傾向だが、全体に影響を与えるほどではない。

 

6章:ネット世論と実質分布の乖離を指摘

ネットに書き込みをしていないユーザー全体の右派・左派バランスはむしろ、一峰性の分布を描いている。

 つまり、「ネットで見える世論」と、実際の意見分布の間には真逆と言ってもようような乖離がある。

左・右の両極の意見にアクセス可能な状態のほうが穏健化はすすむのではないか。

 

 

 

関連する書籍・論者:

辻大介

辻 大介, 2018「インターネット利用は人びとの排外意識を高めるか―― 操作変数法を用いた因果効果の推定」 『ソシオロジ』63巻1号(通巻192号), pp.3-20 http://d-tsuji.com/paper/p17/ では、4章の議論とかなり近い調査をやり、逆の結果が出ている。

「二〇一七年一一月に実施したウェブ調査データをもとに、操作変数法を用いた双方向因果モデルによって、[i]ネット利用が排外意識を強めるのか、それとも、[ii]排外意識の強い者ほどネットをよく利用するのか、因果の向きを分析した。その結果、[i]の向きのパスは有意な係数値を示し、正の因果効果が認められたが、[ii]の向きのパスは有意でなく、因果効果は支持されなかった。」(上記論文の概要より)

 

辻大介によるコメント(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57355?page=4)は、「分極化がうながされる政治的イシューとそうでないイシューの違いがあるのではないか」とのこと。

 

また、辻の下記の議論は、田中・浜屋の議論とも衝突はしないだろう。下記は、辻のコメント。

「ネットをよく利用すると、排外主義的な意識が強くなる一方で、アンチ排外主義的な意識も強くなる傾向が確認された。つまり、排外主義的になっていく人、反排外主義的になっていく人が両方とも現れる」

外国人参政権などの排外意識が関わる質問では、分極化の効果を確認。他方で、原発再稼働や、憲法9条改正などは分極化の傾向は薄い。
思想的なポジショニングが変わるというよりも、敵/味方感情が増幅されているのではないかとのこと。

 

笹原和俊『フェイクニュースを科学する』(2018、化学同人

http://hiyokoya.hatenadiary.jp/entry/fakenews

で紹介された、各種の議論とも整合性を考えたい。

確か、facebook資本で行われた研究では、エコーチェンバや、選択的接触の効果のほうが大きく、フィルターバブルの効果は少なめにでたとのことだった。

 

田中・浜屋(2019)では、仮説間の不整合を、因果関係の錯誤の問題として処理していたが、

Sasahara et al,2017 で、示されていたような、創発系のモデルを用いることで、辻(2018)との研究結果の不整合を解決できる道もあるように思われる。Sasahara(2017)では、確証バイアス、社会的影響、社会的切断などの諸条件が整うことで、はじめてエコーチェンバーが成立する可能性がシミュレーションモデルによって示されていた。

すなわち、「中高年のネット利用」「もともと政治的意見が強い人」というのに、辻が仮説として提示していた

1.論点ごとの分極化傾向の違い

2.対象となった中高年の社会的影響

3.対象となった中高年の社会的切断

などを含めて、変数を増やして解析したら、さらに実態に近づけるのではないだろうか。

 

GLOCOMでの研究会PDF

QAが参考になる。

http://www.glocom.ac.jp/wp-content/uploads/2019/09/20191008report.pdf

特に、政治的にポヤヤンとしているだけの、無垢な中立層を「(ネットではない)実態分布」の中に含めているのかどうかが気になったが、

田中さんいわく、「選択肢の中では、「どちらでもない」「わからない」で分けられており、興味がない人はサンプルからすでに外れている。」とのことで、一応、「興味がない人」はサンプルから外れているらしい。

ただ、無垢な層は、香山リカが昔、「プチナショ」とか、言っていた層ともつながっているので、無垢な層をどう排除したかが、分布にかなり大きな影響を与えている可能性は否めないので、そこの説明はもうすこしほしい。(もっとも、田中さんらは、同じ人の傾向変化も調べているので、全体の議論としては、ガードできている。)

 

 

その他の井上所感

質問紙の改善

amazonコメントで、質問表の作り方が悪いと批判されていたが、確かに6章の質問は誘導的な質問になっているものが多く、問題があるだろう。改善したほうが良さそうだ。とりあえずの改善案を晒しておく。

 

元の質問「ネットで実りある議論をするのは難しいと思うか」

改善案「ネットで議論をした際に、どの程度よい議論をできたと思うか」とても生産的/やや生産的/やや不毛/とても不毛

 

元の質問「ネットで議論する人に不寛容な人が多いと思うか」

改善案「ネットで議論する人が、どの程度まで寛容だと感じているか」 とても寛容/

やや寛容/やや不寛容/不寛容

 

元の質問「ネットは政治を良くしていると思うか」

改善案「ネットの政治に対する影響をどう評価するか」 とても悪い/やや悪い/やや良い/とても良い

 

 

 

宇野「遅いインターネット論」との関わり

1.ブログがだいたい穏健化にポジティブな効果だったというのは、興味深かった。宇野さんが、twitterfacebookの惨状を批判する形で「遅いインターネット論」というのを昨年から言っているが、twitterfacebookよりもブログのほうが、穏健化に貢献しているというのは、宇野さんの議論と整合的なようにみえる。

2.ただ、実際には、穏健な意見を言う人が、ブログに集まっているだけという可能性もある。私もここのところ、facebooktwitterはいささか、疲れるのでやっていないのだけれども、これはブログが良い場所というよりも、集合的な相互行為の結果としてたまたまブログが逃げ場として成立しているだけという側面もなくはない。

 A:ブログのようなものが、メディア自体の内在的な性質として穏健化を促すのか、

 B:それともネットの生態系のバランスの中で、たまたま今ブログが相対的に良い場所になっているだけなのか

 どちらの仮説が妥当するのかを調べてみるのも面白そうだと思う。

 

追記:書き手のリテラシー問題

 若年齢層(39歳未満)の中で、ブログがポジティブな効果を与えているのはいいとして、やはり、ブログというメディア特有の問題なのか、ブログ利用者の社会階層や政治的リテラシーがそもそも高いだけなのか、という問題の検証は、積み残している論点としては大きいのではないかという気がする。

 だいたいのネットコミュニティで起こってきたのは、「サービス初期のアーリーアダプター層は高リテラシーだったが、徐々に多様なユーザーが参画してきて、カオスになる」ということだった。ブログの場合は、逆の現象がいま起きていて、社会的階層が、平均的にも、高くなっていたりするのではないかという感触がある。長文書くのは大変だし。

 となると、

1.twitter,facebook以前の2010年以前のネットユーザーの分極化のデータとの整合性

2.ブログの書き手/読み手のRST的な調査や社会階層の確認を行う

3.社会階層や、政治的論点の基礎的知識で書き手/読み手のクラスタを分けて、最もリテラシーが低いと思われる層が、長期のブログ利用でどう変化したかを調べる

 等の調査をやるといいのではないかという気がする。もう既に、行われているような気がしなくもないが。

 

 

RPG学研究 Japanese Journal of Analog Role-Playing Game Studies

RPG学研究が公刊されたとのこと。

https://jarps.net/journal/issue/view/1

 

基本的にCRPGではなく、TRPG研究という理解でいいのかな?

 

英語圏でも、「Role Playing Game Studies」を冠する本がZagalやDeterdingsらによって出されているので、名称的には、こうした流れの日本語版ということでよいのだろうか

https://www.amazon.co.jp/Role-Playing-Game-Studies-Transmedia-Foundations/dp/1138638900

 

 

瀬戸内哲学研究会「eスポーツの倫理学」

@広島大学です。山陽道をどんどんと西に移動しています……。

 

https://drive.google.com/file/d/19LrqFPLlLRSecinGoYQeyqphJs0rnOvo/view

日時:2019年9月4日(水)
場所:広島大学東千田キャンパス 東千田校舎A棟404講義室

第一部 eスポーツ倫理研究キックオフミーティング
岡本慎平(広島大学)「ビデオゲームがなぜ倫理の問題になるのか?」
萬屋博喜(広島工業大学)「eスポーツとしての格闘ゲーム
長門裕介(文京学院大学)「eスポーツ競技のエトスとはなにか」

に参加してきました。私も一応研究メンバーということで、名前を連ねさせていただいております。

 

下記、本当に雑なメモですが、晒しておきます。

 

■岡本発表
帰結主義的批判:悪影響を根拠にしたもの。 

(※井上:依存の話はあるので、あとで要追加)
 e-sportsを部活でやるとなった場合:子供が長時間プレイするということは起こりうる

*表現内容への批判:ゲームそのものが不道徳である(暴力的・差別的表現等) レーティング 「不道徳な芸術」問題 Garry Young 2014 人気のゲームの大半が暴力的、という批判は一理ある
対人プレイにおける倫理 特定のプレイが倫理的に不正 オンライン対戦における不正は帰結主義的にも、義務論的にも不正 Kimppa.K.K. and Bissett A. K. 2005 The ethical significance of Cheating in Online Computer Games", International Review of Information Ethics, vol. 4.
 義務論:相手に対する裏切り 帰結主義的:
 オンラインゲームのなかのものを「盗む」というのはありうる話なのか 2012 Litska Strikwerka
 AIに対する倫理 ゲームのCPU戦こそ、AIの倫理の適用可能な物足はないか

 

Christopher A. Paul (2018) The Toxic Meritocracy of Video Games: Why Gaming Culture Is the Worst,University of Minnesota Press.

 Miguel Sicart (2009) The Ethics of Computer Games, the MIT Press. 

Miguel Sicart (2013) Beyond Choices: The Design of Ethical Gameplay. the MIT Press 

Garry Young (2014) Ethics in the Virtual World: The Morality and Psychology of Gaming, Routledge.


RTA(Real Time Attack)の倫理

 

萬屋さん

格ゲー少史的な話の整理。

ヒュームの研究者であるが、長年の格ゲープレイヤーでもあるとのこと。

 

(井上:スポーツ概念の歴史的変遷については、阿部さんの『近代スポーツマンシップの誕生と成長』を参照するとよいのでは)


長門

 

「スポーツの試合の存在目的というのは、同意されたルールによって規制された制限の範囲内で、どちらが空間時間の中で身体/用具を動かす能力に優れているのかを、互いに試し合うための公正な機会を提供することである。」(フレイリー1989:56)

ウォレン・フレイリー (1989).『スポーツ・モラル』、不昧堂出版

 

規範的含意:
• 競技スポーツにおけるルールの改正は卓越者を正確に認識する可能性を高めるものでなければならない。
• ルールの改定はそれぞれのスポーツのエトス(本質)を参照して行わなければならない。

 

ビデオゲームはゲーム内部的には規制的 regulative な規則をほとんど必要としない、あるいは規範のありかたが典型的なスポーツと異なる。

 

(井上:公平性をエトスとするというのは面白い、ゲームの場合売れるかどうか、面白いかどうか
ルール、規範を必要としない
ルールの階層性があるのかガバナンスのプロセスからして、スポーツと言えないのではないかと
>プロセスの階層性はたしかに薄いが、そこがないわけではなく、 実質的にはunofficlalにconventionalなruleなどの階層性は生じるといところと、official ルールに反映されないという齟齬が沢山おこる構造になっている  そこが未熟だとも言えるし、面白いとも言える
 そこを民主化していないだけで、独裁的にプレイヤーたちの期待を予期しているのでは
サーフィンや登山は、ルールや卓越性と関係がないのでスポーツではないとみなす学者は多い)

 

■質疑
長門

ゲームのルールを構成的規則で説明すべきではなく「波動拳がでる」とかは、因果関係ではないか簡単にサール的な枠組みを使うことはできないのではないか
萬屋

因果的と言えるのでは
>質問

regulative と、構成的というのに分けるのが本当によいのか。サールの枠組みはゲームに簡単に敵とすることはできないのではないか

 

 

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■雑感

全体的に質問のレベルも発表のレベルも高めで、楽しかった。

サールの「構成的規則」をビデオゲームにそのまま適用してよいのかどうか、という論点は、とても興味深い。

31日の松永本の書評会でも「因果」概念の構成が問題になったが、ビデオゲームにおいて「因果」概念をどのように適用するのか、ということはもう少しつきつめて考えておきたい。

 

FIT講演:ゲーミフィケーションの「次」のステップに向けて

岡山にいます。

FIT2019 第18回情報科学技術フォーラムにて「ゲーミフィケーションが拓くサイバーワールドの可能性」東京情報大学の河野 義広先生にお招きいただき、岸本先生、坂井先生らとセッションでお話をさせていただきました。

 

井上の話としては主に、ゲーミフィケーション系のサービスの進展にとって、技術的にどういう部分が変化すると、インパクトがあるのか、という話を簡単にまとめました。

 

  1. センサリング技術のイノベーション:血液の情報取得、食事内容の解析etc…のコスト変化
  2. ファジーな情報判断のイノベーションDeep learningなどのAI/AI関連技術のイノベーション
  3. データフォーマットの標準化と普及:データフォーマットのバラ付きがある公開情報:食事の成分情報、コンテンツの作品情報などを扱いやすく
  4. IOT/タンジブル・インターフェイス  
  5. XR技術のイノベーション:重ね合わせの技術、スマートグラス

 また、社会制度的な問題として、技術のレイヤーとは別に、

  1. データ利用の権利に関する制度変化
  2. 倫理基準の策定
  3. ゲーミフィケーションのデザイナーの誕生

 などが、大きな影響のあるポイントだろうという話をしました。