Critique of Games メモと寸評

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「暴力」の概念がいいかげんなのではなかろうか、という話。

3月20日のコメントが長引いているので、見ていただいている方へのフォローと、僕の方での理解のレベルの提示という意味をこめてもう少しきちんと書いておきます。

たとえば坂元章氏の「暴力性」の研究などでは、
「暴力」という概念そのものを問う姿勢があまり見受けられない。
何を問うべきか、という議論が薄いというべきでしょうか。

このTatsukiさんの指摘は、実際、ゲームの「暴力性」研究の話を考えていく上ではとても重要な指摘です。

どういうことか、というと久保正明さんのスポーツ哲学のページにある、スポーツと暴力の問題提起がわかりやすいので引用します

 街角で、目つきの悪いお兄さんが若者を殴ったりしていたら、それを暴力って言いますよね。でも、このお兄さんと若者が上半身裸になってトランクス姿で、リングの上で殴ったりしていたら、これ、暴力って言いますか。普通、ボクシングって言いますね。

 このように、スポーツには殴ったり、蹴ったり、押し倒したり、投げたりする場面ありますね。ボクシング、レスリング、剣道、柔道、アメリカンフットボールラグビー・・・、あるいはバスケットボールのハッキング、サッカーのチャージ、みんなこんなことしてますね。あれって、暴力・・・じゃあないですよね。でも、殴ったり、叩いたりはしてますよね。どこが違うんでしょう。また、ストリートファイトなんてTVゲームありますね。あれ、実際にやったら、スポーツになりますかね、あるいは暴力ですかね。

 話は変わりますが、犬に咬まれたことある人いますね。あれって犬の暴力ですか。じゃあ、蚊に刺されたことある人、あれって暴力でしょうか。

 また、よく殴る先生(監督・コーチ)いますよね。あれって、暴力ですよね。でも、殴られたあとに「ありがとうございました」なんて言っている人もいますよね。あれってサド-マゾなんでしょうか。それとも、愛するが故に・・・なんて考えると、さっきの関係を思い浮かべちゃいますね。そうではなく、教育者として子どもたちに教え込むために、あえて手をあげる・・・。

 こうやってみてくると、一体どこまでが暴力なのか解らなくなりますね。暴力って何なんでしょうか。

 ここで言われているように、「暴力」という行為は、一見自明なように思えますが、考えていくと何が暴力で、暴力でないのか、というのは実は文脈によってマチマチだということがよくわかります。では、我々は一体、どういう理由で「暴力」を暴力とみなしているのか。
 一言で言ってしまうならば、個別の犯罪的な暴力*1というのはソキウスの暴力概念の解説の中で引用されているデュルケムの「われわれはそれが犯罪だから非難するのではなく、われわれが非難するから犯罪なのだ」という言葉に集約されるものかと思われます。つまり、客観的に観察可能な「暴力」というものが存在するわけではなく、肉体的・精神的に危害を与える行為を社会の側が「暴力」だとして取り扱うからこそ、それは「暴力」としての認定を受けることになるのだ、ということです。
 こういうことを言うと、「暴力」概念がものすごく相対的で根拠のないものであるかのように思えてしまいますが、我々の日常的な感覚として「暴力」イメージはかなり明瞭に存在しています。そこで実質的な「暴力」認定、定義のための基準が必要となります。
 それがたとえば、その行為が本当に被害者にあたる人の「基本的人権」を侵害しているのかどうかなどといったことや、刑法における規定といったものがあるわけですよね。これは基本的に一目見てわかるものというのではなく、加害者が責任能力*2のある状態にあったか、とか被害者の側にその行為に対して同意が存在したのかといったこと水準によって判定されているわけですよね。

 さて、それではどうしてこの話が重要なのか。

 テレビゲームの影響論に関する実証研究をいくつか見てみると、「暴力性」を測定した、という話になっています。たとえば湯川進太郎・宮本哲弘・吉田富士雄(1999) 「暴力的テレビゲームが攻撃行動に及ぼす影響」や、坂元氏の文章の中で触れられている電気ショックを与える時間と、テレビゲーム遊びとの相関性についての研究などが挙げられます。これらの研究の中では攻撃的思考、攻撃思考だとか、暴力性といった言葉がほとんど同じ意味で使われていますが、考えてみると、それって本当に全部「暴力性」という言葉にくくってしまっていいのか?と。
 少し考えてみれば「攻撃」と「暴力」はぜんぜん違うものだろう、という今までの話から明らかです。「攻撃的思考」によって「暴力」が発生する可能性は確かに上昇するかもしれない。だけれども、そこで社会的に振舞おうとする意識があれば、別にそれはボクシングとか別の格闘ゲームをプレイするだとか、そっちのほうへ向かう確立だってぜんぜんあるのではないか、と。とすれば、人に電気ショックを与えた時間を測定する研究みたいなことで、「暴力性」が証明されたといえるかどうかはきわめて怪しいという話です。
 たとえば95年1月に日経新聞で報道された事件に、「格闘ゲームで見た技がどれくらい効くか、試してみたかった」という動機で起された中学生によるリンチ事件がありました。この事件について格闘ゲームの「影響」があったことは、加害者コメントからも明らかです。ですが、格闘ゲームの技を実際に決めてみたいという、欲求が生じたとしても、それをボクシングや空手の試合の場所ではなく、それを「リンチ」という形で実現してしまう感覚はテレビゲームの影響というよりも、事件を起した中学生達のモラルだとかそういう水準の話にもっていったほうが妥当だろう、と。*3

 以上が僕なりに噛み砕いたTatsukiさんの話…だろうと推測します。

*1:「国家的暴力」「構造的暴力」という概念と区別してこう呼んでいます。

*2:いわくつきの刑法39条ですね。未読ですが『そして殺人者は野に放たれる』日垣隆なんかでも最近話題になりました。

*3:これに対しては、こういう反論も考えられます。「普通、暴力に類する行為がメディアなどで表象されるにせよ、スポーツなどとして教えられたりするにせよ、そこには通常の場合は勧善懲悪の概念や、スポーツマンシップというモラルがセットになっている。それに対して、暴力的表象だけが提示されてモラルがセットになっていないテレビゲームはその意味で「悪影響」ではないか」と。こういう反論であれば、わからないではないです。もっとも、モラルと暴力的表象は他のメディアでも必ずしもセットになっているわけではない(たとえば映画『ゴッドファーザー』)ですが。そう言ったらこういう反論があるでしょう、「テレビゲームは他のメディアよりもインタラクティブであるがゆえに臨場感・リアリティが強く、表象から行為欲求へとつながる相関関係についても実証研究があるにはあるし、子供達の日常的な接触量も多い。だからテレビゲームの責任は他のメディアよりも強力である」と。この反論については、認められるかどうかさらなる実証研究を待つしかありません。