Critique of Games メモと寸評

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松永伸司,2019「動詞とパターン――ゲームとシミュレーションの関係をめぐって」(『エクリヲ vol.11』所収)

よそで書いたコメント。自分のコメントなので、こちらにも貼っておきます。

 

2021年11月2日の井上 > 松永コメント

  • どこまでが素朴な自然主義なのか
    • なにが、<素朴な表象主義>な芸術観なのかについては、もう少し議論しても良いかも。
    • たとえば、UIの自然主義みたいなのは、HMDによるVR体験や、Kinectみたいなものだというのは比較的同意が得られやすいと思う。しかし、一次的現実を、ゲームデザインとして変換するという時点で素朴自然主義とは変わるので、もう少し細かな議論をしたいな、と思いました。
    • 自然主義自体から距離をとろうといタイプの話は、もちろん基本的な論点として重要で、東浩紀動物化するポストモダン』(2001)『動物化するポストモダン2 ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)もそういう話ですし。
    • 同じ事象のモデル化を、経済学的記述、心理学的記述、政治学的記述、といった形でできるわけですが、それらのは自然主義的といえばそうですが、
      • 1.現実の描写としての妥当性を評価基準として記述・モデルの評価がされるわけですが、
      • 2.それぞれのディシプリンがそれぞれに仮定する捨象された人間像(経済的人間など)を前提とする
    • といったような、形で明らかにいくつかの非現実的な要素を前提しており、「自然主義」といった概念の射程がどのように考えればいいのだろうな、と思いました。
    • 素朴な強い自然主義はいずれにせよ素朴なわけですが、こういった限界を自認しているタイプの自然主義は、ある意味で自らの語りの形式が嘘を含んでいることを理解しているので、そこんところは素朴な強い自然主義とはちょっと距離をとってもいいような気はします。
  • (査読論文的なコメントで、たいへん恐縮なコメント)
    • 自然主義から距離をとったタイプのメディア内の自己参照的メカニズムとして、本稿では、パターン主義的なアプローチが記述されていますが、先述の東(2001)(2007)や、椹木のシミュレーショニズムなど(まあ、別の方向の先行研究でもいいと思いますが)そういったゲームのメディア内での自己参照メカニズムについて記述している先行研究との差異などが言及されているとより、議論の独自性がわかりやすくなるのではないかと。
    • まあ、でもそこは、注の13なのかな

11月5日の追記

上記のコメントは、いくつかの誤解があったことが松永さんからの説明を受けてわかった。

1.本稿の批判対象は、自然主義ではなく、表象主義なので、東(2007)なども表象主義であるので、本稿の潜在的な批判対象になりうるとのこと。

2.ゲームにおける表象主義に関わる要素が複数あるのは確かだが、(a)CGのリッチさとかについての批判は、言うまでもないので除外 (b)今回のエクリヲの特集自体に「動詞」があるので、特にシミュレーションの特権化が議論の対象に 

 なお、KinectなどUIについては今回は扱われていない。

 

 ゲームにおける表象メカニズムが、CG、UI、シミュレーションなど複数のレベルで併存しているということを整理しようとしているのが、松永『ビデオゲームの美学』(2018)の一つの論点なわけだけど、僕の場合は、表象メカニズムの複数併存について、最近はちょっと集中的に考えてないので、改めて考えないとな。などとつらつらと思った。