Critique of Games メモと寸評

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ミゲル・シカール『遊び心の哲学』関連メモ

目次:

 

特に丁寧ではないメモです。 

おくればせながら、ようやく読む時間をつくったので、

 

良かったところ

  • メタケトル
  • 建築家へ(7章)
  • 学術的な議論への応答は本文ではなく、脚注にかなり丁寧に書かれており、ゲームスタディーのプロパーにとっては脚注はかなり読み応えがある。

 

 

原注リンク集

http://www.kaminotane.com/2019/04/26/5627/

すばらしい!

このリンク先をあらかた見てから、本文読めばよかったかもしれない。

 

ほかリンク

 

松永X吉田 対談

http://www.kaminotane.com/2019/07/22/6084/

吉田発言部

それに対して、彼は、これからはアーキテクトの時代であるべきだと言うわけです。しかし他方でアーキテクチャは、ローレンス・レッシグ東浩紀環境管理型権力を論じる際のキーワードでもあったわけで[4]、やはり権力装置としての側面を無視できない。強制や命令ではないかたちで権力が作動する機構がアーキテクチャと呼ばれてきたわけですが、しかし『プレイ・マターズ』のなかではそこについての議論がないままアーキテクチャの話がされるので、読んでいて何か足りないなと思いました。

 じつは個人的には、そこはすっと読めたというか、シカールの本でいちばん良かったです。

 もちろん、吉田さんらの論点もわかるのですが、まあ、このあとで、松永さんも補足している通りで、建築家の青木淳さんが書かれた『遊園地と原っぱ』の議論の原っぱてきなものを想定しつつ読みました。

 この後にくる松永くんの整理にはほぼ賛成で、「空間性」というところでいうと、ジェンキンスの議論と一見近いのだけれども、シカールがここで想定しているのは、ほぼほぼ青木さんの原っぱ概念に近いだろうな、という気はしました。

 青木さんとは、ゲンロンの拙稿を読んでくださったとのことで、昨年にイベントでも対談させていただきした。現在では、遊園地と原っぱの二項対立ではなく、その両者が合わさったようなモデルでお考えのようです。

 そこらへんは、青木さんと、僕の対談をセッティングしていただいた、浅子さんがいろいろと書いてくださっています。

https://medium.com/kenchikutouron/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E5%BB%BA%E7%AF%89-%E5%BA%8F%E8%AA%AC-%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%B7%B3%E8%AB%96-b50f89c37cfe

 

松永発言部

古いところだと中沢新一さんが「バグと戯れる」っていう話をしているじゃないですか[8]。これは『ゼビウス』が具体例ですけど、バグというのはようするに機械の内にすでにあるものです。作り手は想定していない、それが正当な遊びだと思ってはいないんだけれども、ただ機械の内にもうそれが物として存在しているので、プレイヤーはバグを使って遊べる。 

 

 シカールに対する言及としては、問題ないと思うのですが、

 この後吉田さんも僕の話に言及してくださってますが、

(1)『ファクトリオ』のプレイヤーが、徐々に飽きながら焦点を変える

(2)ゼビウスのプレイヤーが、いろいろやりつくして、半ば飽きながらバグで遊ぶほうほうを創り出す

(3)飽きるのとは、関係なく、何かの物体を「遊び心」によって流用をする

 というのは、個人的には、分けて考えたいと思っています。(2)のような、飽きが関係した末の予定外の方向へのシフトだと、学習プロセスの一部に位置づけられうるものになるので、シカールの言うところの純粋に「ディオニュソス的」なものというより「アポロン的」なもの中間として位置づけられてしまうかな、と思っています。

 シカールの議論は(3)の部分に全体として注目しているところが多い議論だろうと思っています。

 この(1)(2)(3)が違うというのは、かなり前から、地味に脚注とかで何度か主張している程度なのですが、けっこう重要な区分だと思っています。

 これに関わるところで、

 

 松永発言部

「縛りプレイ」とかがわかりやすい例で、自分で何か縛りを設定することによってチャレンジを作るということで、それもある種の流用として理解できるのかなと思います。

 ここも、細かいツッコミされても正直こまるとは思うんですが、この議論の流れだと、ちょっとだけ違くて、

 『ファクトリオ』の焦点移動は完全にゲーム開発者の想定範囲内で起こることなのですよね。「飽き」のタイミングは、ゲーム開発者がけっこう予測できてしまうので、「飽きるかな?」というところをテストプレイなどの結果をもとに、予測・調整して、ゲームの標準的な遊び方のプロセスに組み込んでしまえるものなんですよね。

 一方で、しばりプレイの話は上記の(2)のケースで、これは開発者側にはこまかくは予測がつかない。なので、(1)の話の文脈と(2)の話の文脈がつながると、若干の違和感がありました。

 

追記:松永返事へのコメント

お返事いただいた。

 

>表

 表のような論理的分類として考えていたというよりは、ゲームを遊ぶ時の一連の運動的なプロセスとして想定していたので、表にされると「おおっ!」という感じで驚きがあり、よかったです。

 「カーニバルのような〈主体的ではないが形式から逸脱する遊び〉」は、面白いですね。「逸脱」というのが、主体的なコミットメントを必要としない概念として考えるのなら、そういうのはありうるのかも……。(個人的には、「逸脱」概念は主体的なコミットメントとセットだと思っていたので、ありうるとは想定していませんでした)

 シカールの話にもどすと、松永訳pp29-30あたりとか、一章の注44あたりを読むと、シカールのカーニバル概念は、ちょっと西田清和「遊びつつ遊ばれる」みたいな概念、ぽい感じがあり、「主体的なコミットメントがないけど、ある」みたいなタイプの想定のようなで、4つめそのものとも違うものみたいで……こういうの入れると2*2で4タイプじゃなくて、2*3の6タイプぐらいの話になるやもしれませんね。

 

ゲーミフィケーション(やメタAI)が既存の体制への抵抗かどうか

 「設計者の意図に沿う」という意味ではその通りだとおもいます。

 ただ、その場合、設計者が、

(1)中国共産党の幹部などの実世界の権力者が設計したゲームなのか

(2)デモの旗振り役の人が設計したゲームなど、既存体制への抵抗者が運動の組織化のために仕掛けたものなのか

によって意味が違ってくるので、すべてのゲーミフィケーションが既存体制に利用される、という懸念はあまりもっていないです。

 

>剰余説的な話

 剰余説は、個人的にはあまりピンときていなかったので、面白い論点だと思います。

 剰余説にしっくり来ていなかった理由というのがあるとすると、学説として聞くには聞くけど、認知科学的な議論のなかでの実証があるという話を聞かないためだと思います。(ただ不勉強なだけかもしれませんが……)

 心理系の話だったらそれに近そうなものとしては、カール・ビューラーが100年ぐらい前に言っていたの「機能快 Funktionslust」 の概念*1とかをおもいつくぐらいで、実証的とはとても言えない感じですが。「潜在的に」というのが、実証系の研究でやりにくい話なのかもしれません。

 

 ただ、

「繊細でいわく言い難い行為(=美的行為)をおこなう能力(身体能力であれ思考能力であれ)」

 を人間が備えうるというのは、剰余説的な枠組みではなく、一般的な認知科学系の議論でもいけそうな気はします*2

 その美的行為の能力が

 1.オギャーと生まれる頃には発現している能力なのか(ほぼ先天的)

 2.人間の発達プロセスのなかでだいたいの人に発現する能力なのか(臨界期のときに獲得。)

 3.人によってはそういう能力を身につけることもある(後天的な学習)

 のどれにあたるのかが謎で、

 強化学習とかフロー体験みたいなものを起こす能力は、発生的にはかなり幼い段階で獲得している印象があるんですが、「美的行為」みたいのは、強化学習的な話というより、強化学習をしたあとに見えてくる風景みたいな気がするので、すくなくとも2歳児ぐらいはまだ持ってないのではないかという気がします。5歳児ぐらいだと人によっては、ありそう(雑予想なので、雑に聞いて下さい)。いずれにしよ、臨界期のプロセスのなかで徐々に獲得される能力の一つなのではないかという気はします。

 ただ、僕もシラーはぜんぜんタッチできてないので、勉強しよう……

 

 

 

 

 

 

 

*1:Karl Bühler,Die geistige Entwicklung des Kindes. Verlag Gustav Fischer, Jena 1918.(=邦題:『幼児の精神発達』 (1966年、原田茂訳、協同出版)

*2:キーワード的には、これは、何を調べればいいのか、ぱっと思いつかないですが。なんか、知らないだけで多分、一群の研究がありそう