Critique of Games メモと寸評

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Jesper Juul に対する「だめな批判」とそのボーダーライン

 たいした、エントリーではないのだが、Jesper JuulのClassic Game Model に対する、「うーん……、そんなこと言っても仕方なくない?……」みたいな批判を聞くことが多くなってきたので、短めに釘を指しておきたい。

 

1.「JuulのClassic Game Modelは、ビデオゲーム経験を上手く書き出せていない」

 

そりゃ、ビデオゲームについてのモデルではなくて、"Classic Game"のモデルなのだから、ビデオゲームのモデルになっていないのは当然だろう。東京の産業について論じた論文を見て「これは大阪の産業を論じていない」みたいなタイプの批判に近い。そりゃそうだろうけれど、それは論文の欠点ではない。

「自分はビデオゲームのモデルがほしい」というのなら、それは別の仕事になるとは思うし、video game difinitionについての議論をしたいのなら、別の論文を引いて論じればいいと思う。

 

たとえば、次のような論文がある。

https://scholar.google.com/scholar?hl=ja&as_sdt=0,5&q=videogame+definition

Esposito, N. (2005). A short and simple definition of what a videogame is.
Djaouti, D., Alvarez, J., Jessel, J. P., Methel, G., & Molinier, P. (2008). A gameplay definition through videogame classification. International Journal of Computer Games Technology, 2008.
Tavinor, G. (2008). Definition of videogames. Contemporary Aesthetics (Journal), 6(1), 16.
Karhulahti, V. M. (2015). Defining the videogame. Game studies, 15(2).

 

あと、国内文献であれば、松永(2018)『ビデオゲームの美学』でもいろいろと議論がされているので、そちらをあたってほしい。

 

2.「JuulのClassic Game Modelは、ゲームに関わる経験の全体を上手く書き出せていない」

 

 Juulの話は、ゲームに関わる全体を描くことではなく、どちらかというと、ステレオタイプの中心がどこにあるかみたいな話である。ゲームを通じて巻き起こるさまざまな現象の全体をすべて捉えようみたいなタイプの野心的モデルとかではない。プレイヤー同士のコミュニケーションの話とかのモデル化とかはほとんどされていないのは確かである。

 これは、「東京の産業について論じた論文だけでは、日本全体の産業構造はわからない」みたいな批判に近い。欠点というか、議論の限界ということになるだろう。こういう批判は合ってもいいと思うが、Juulを貶めるというよりは、まあ、Juulと自分との立場の違いの主張という形でやる分にはいいと思う。

 ただ、この手の論点をもってきて、「Juulの論理的欠陥」とか言われると、「???」となる。

 これも、基本的には、Juulを引き合いにだして批判するというより、別の論文を引いて論じたほうがいい。

 ゲームに関わるどの経験を主眼に据えるのかによって参照すべきものは違うと思うが。

 

3.「JuulのClassic Game Modelは、"Play"の問題を無視している。」

 

 "Game"の話だから、そりゃ違うだろう、という話で、単に上記の点を指摘しただけの批判だと、かなり微妙。

 「ゲームのモデル化の際に、Cailloisなど、game/playの区分をしない言語圏の論者から論点を引っ張ってきているのは雑である」という批判なのであれば、まあわかる。

 Playまで含めた、"game"概念とかを論じたいのなら、

 Brian, Sutton-Smith. (1997)"The ambiguity of play."
 とか、より広範な「遊び(play)」研究文脈の議論を参照したらよいのではないだろうか。
 

4.もっと定量的なアプローチをできるのではないか

 

 これは、一番言ってることはわかる。

 人文系の研究というか、言語の定量的な方面の研究でできるんじゃないかという批判で、プロトタイプ研究とかをやっている認知系の研究者からは当然でてくる疑問だろう。使うコーパスやアプローチによってJuulの議論を必ずしも支持しない結果は出てくることは、もちろんあるだろう(ただ、どういったコーパスを使うべきか、については議論が難しくなりそう)し、上記の批判に基づいて、建設的な話にすすむことは十分ありうるだろう。実際、下記の言語認知系の研究者は、英語のgameについては、もっと必要十分条件を満たす定義ができるという主張もしているらしい(論文が入手できていないので、定量的な研究がどうかはわからない)

Wiezbicka, Anna. (1990). ‘Prototypes save’: On the uses and abuses of the notion of ‘prototype’ in linguistics and related fields. Meanings and prototypes: Studies in linguistic categorization, ed. by Savas L. Tzohatzidis, 347–67. London: Routledge and Kegan Paul.

 

 また、何かしら定量的な研究ができるとしても、その研究のモデルが、概念モデルの記述として的確かどうか、ということについては、やはりメタレビューが必要だということにはなるだろう。

 

 また、「これだから人文学の研究は………」みたいな、不要な含みをもたせてしまうと、Juulがどうこうというか、ディシプリンをめぐる終わりなきバトルという感じになると思われるので、不毛感は強い。

 

 

***

 

 以上。

 私も、よく論文を読み込めておらず、反省すべき時は多々あるので、強烈に断罪したいみたいなことではないのだが、とりあえず、Juulのclassc game modelを批判したいということは、少なくとも上記の批判は一度、考えていただいてからお願いします。