Critique of Games メモと寸評

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ゲーム研究という分野も歴史がないなりに10年以上が経過した

吉田さんと、松永さんの対談

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 (吉田)……アドバイスはいくらでもできますが、本当のことを言えば、ゲームのことしか知らない人よりも、ほかの分野のこともたくさん知っている人の方がゲーム研究に向いていると思いますね。

 

松永氏:
 結局基礎になる学問が大事で、さっき美学について言ったことと反対に聞こえるかもしれないですが、昔ながらの学問も勉強するべきなんですよ。

 

 ここは同意ではあるのだけれども、同時に、「ああ、なんか、時代が一周したなあ」と思った。

 90年代とか、ゼロ年代に「ゲーム研究」に関わっていたアカデミシャンは、いうほどゲームやっていなかったり、ゲームに詳しくない人が多くて、私は、「井上さんは、研究者の人としては珍しく、まともにゲーマーでもある」というのような形で認知されたりしていた。

 つまり、10数年前は研究者キャリアでゲームについて、ちょろっと触れたりしている人は、たいてい「あー、あんまりちゃんとゲームのこと解ってないんだよな……」という罪悪感のある人というのが多かった印象で、ガチのゲーマーだという世代が上の研究者とは、なかなか出会う機会が少なかった。「既存の学問の勉強は、もちろん大事だけど、既存の学問に詳しい人はたくさんいるし、ほっといてもそういう学者はたくさんいるから、ゲームのことに詳しい研究者は希少」という、上記で言われていることとは逆の事態が、10数年前の状況だったと思う。私の体感としては。*1

 

 しかし、私もすっかり指導する側にまわると確かに吉田、松永の見解に同意したくなる気持ちはあって、

「ゲームが好きだから、ゲームの研究で食べていきたいので、大学院に来たいです」

 という学生が、相当数いる。

 もちろん、「ゲームが好き」で、かつ「研究も好き」ならば、ぜひ大学院に来てくださいということになるので、それは問題ない。

 「ゲームが好き」なだけの学生が大学院にすすむと、正直、困った状況になることが多い。

 修士課程だけで就職するつもりなら、さておき。

 「ゲームが好き」なだけで、博士(後期)課程まで行くというのは、指導する側としても、指導される側としても、お互いに「話が通じないなあ……」という感じになるので不幸な状況に陥りがちである。これは、クオリティが低くてダメだとか、どうこうという以前の問題になっている人が多くて、博士論文を通すこともできないし、もちろんアカデミック・キャリアを積み重ねるということは、通常ルートからはまず無理である。

 「ゲームが好き」というだけの人と比べると、「研究は好きだけれども、ゲームはそれほど」という人は、それと比べるとだいぶ指導する側としてはやりやすい。「研究」として何をやっていかなければならないか、という観点での話がまともに通じるし、まあ、たとえゲームに関する研究がうまくいかなくても、研究フィールドを変えることで芽がでるならば、アカデミックなキャリアをきちんと積むことは可能だろう。ゲームの分析としてはだいぶ、ざっくりした内容だったりすることも多いが……、まあ、「大学」の制度にのっけることは可能だ。

 

 まあ、私はまだ、大学院で単発の授業はうけもっていても、幸いに(?)、誰かを大学院に受け入れる試験の合否判定は行っていないし、直接、大学院生の指導教官としての立場もないので、今後、大学院で誰かを受け入れるということになったら、そこの合否判定は厳しくいこうと思うが、いずれにせよ、「ゲームが好きです」というだけで大学院に来ようとする学生が多いのは確かだと思う。

 

 

 10数年前までは、そもそも「ゲームの研究のために大学院に行く」などという発想をするのは、ほとんど酔狂の類だった。そんなのは一般的な学生が思いつくことではなかった

  たとえば、2011年に私が書いた文章とかだと、「私のことを、少し頭のおかしい人のように思われるかもしれない。」とか書いているし、実際、少なからぬ人に「ゲーム研究とか言ってる、やばい人がいる」とか思われていたと思う。*2

 当時は、「自分がこの分野を切り開いてやろう」みたいな気概をもった一部の特殊な人か、そうでなければ、いろいろな巡り合わせでゲームに関わる研究をたまたますることになったみたいな人しかいなかったと思う。

 

 まあ、今はよくも悪くも、「ゲーム研究をしよう」ということを考える、普通の良い子がそれなりに成立するようになったのである(ゲーム研究の総人口はさほど増えていないが)。特殊な気概のある人でなくても、そういうことを考えるようになった。

 それは、研究分野として、「一般的な選択肢」の範疇として見える範囲におさまってきたということでもある。本当にそうかというと、じゃあ、新しいタイプのメディア研究をしている人間が、科研費のどの枠に出せばいいのかとか、そういうことを考え始めると、文学研究とかと違ってゲーム研究は出すべき分野がまだだいぶ迷子であったり*3、「制度化」がなされた分野ではまったくない。

「普通の良い子」に来ていただくには、だいぶまだ整備されていない道を歩いてもらう覚悟が必要なのではある。まあ、しかし、そこに道が整備されつつあるということは確かで、歩きやすい道ではないことを覚悟の上であれば、研究の道を志す人にはぜひ、もっとやってきてほしいとは思っている。

 

2020年9月30日追記:

 この記事は、さほど考えずに書いたものだけれども、少し拡散されているようなので、蛇足かもしれないが追記しておく。

 私はいろいろな人に「ゲーム研究」をキャリアの選択肢として考えてもらえるというのは、とても光栄なことだと思っている。昔より多くの人が、ゲーム研究のことを知ってくれたという状態は、日本のゲーム研究コミュニティをほそぼそと作ってきた人間の一人としては、間違いなく嬉しいことである。

 「ぜひ、みんな、どんどん、この分野に来て!」と。できることならば、それだけを言いたい。

 しかし、この分野に来てもらったところで、来てもらった人のアカデミック・キャリアについて楽観できる状況はどこにもない。なので、残念なことに、釘を指すような物言いやや強調せざるを得ない。「ゲーム研究コミュニティにとって、嬉しい事態だからこそ、釘をさすような発言をせざる得ない状態になってるのだよね」ということだ。分野の黎明期は、誰もゲーム研究でキャリアが形成可能だとか思う人はいなかったから、そんな釘を刺す必要もなかった。けど、そういう釘を刺すようなタイプのことを事前にご了解いただかないと、まずかろうという時期にさしかかってきたということである。

 わかりにくい記事構成になってしまっているという自覚はあるが、強調したいのは「嬉しい事態だからこそ」の部分のほうにある。そのニュアンスとはちょっと違う方向で言及されるのは、やや不本意というか「最近の若者は、たるんどる」「最近の若者は、わかっとらんヤツが多い」的なことを言うのは、全く本旨ではない。それどころか、私の意図とはだいぶズレたものであることにご留意されたい。

 

追記2:大学制度の外側の研究史

 いうまでもないかもしれないが、上記の話はあくまで「大学制度」の中の話であって大学制度の外側ににあるものについてはまた別の世界が拡がっている(研究としての歴史も違う)。大学制度の外側の「研究」にも、日々お世話になってはいるものの、それがどのように成り立ち、生計を立てているのかというのは私よりも別の人に論じてもらえればと思う。

*1:私が「ゲームに詳しい人オリンピック」で優勝できるという話ではなく、ぜんぜん知らない人が多すぎた、というぐらいで理解してもらえればと思う。とりあえず「ゲームは毎日やってます」「確実に千本はゲームやってます」みたいな人は、ゲーム業界にいけば、結構な量で居ると思うが、当時の大学研究者でそういう人は、かなりレアか、いたとしても隠れキリシタン的に棲息していた。

*2:今でも、ある程度はそう思われているだろうが)。ゲームというものを研究対象として選ぶ時点で、「アレな人」だと思われるという、タイプの差別的な眼差しは、それなりに受けてきたという自覚がある。いまは、一応、名前が通じる大学に勤めているので、「へえ、そういう世界があるんだなあ」と思ってもらえているというぐらいの話で、いまだって、まあ、「在野の文学研究者」と「在野のゲーム研究者」に対する視線は、だいぶ違うものだろう。

*3:「ゲーム情報学」カテゴリーで出して通ることもあるが、「ゲーム情報学」の審査は、現状では、概ね情報工学系の先生なので、人文・社会科学の研究者にあのカテゴリーがよいのかというとかなり微妙。