Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

ビデオゲームプレイヤーの認知向上・変化について

例によってWiki的な、先行研究整理用のメモです。

 

Green C.Sが、ビデオゲームプレイヤーと、非ゲームプレイヤーを比較して、認知機能に差があることを示している。

  • Green, C. S., & Bavelier, D. (2003). Action video game modifies visual selective attention. Nature, 423(6939), 534.
  • Green, C. S., & Bavelier, D. (2006). Enumeration versus multiple object tracking: The case of action video game players. Cognition, 101(1), 217-245.

 

古い論文だとこれ

  • Griffith, Jerry L., et al. "Differences in eye-hand motor coordination of video-game users and non-users." Perceptual and motor skills 57.1 (1983): 155-158.

 

 

論文メモ:Richard N. Landers

Richard N. Landers

https://rlanders.net/

ミネソタ大学の心理学者、big 5の研究とかをやっていた人だったが、最近はゲーミフィケーションまわりでもいろいろと活躍されていらっしゃるらしい。

 

Defining Gameful Experience as a Psychological State Caused by
Gameplay: Replacing the Term ‘Gamefulness’ with Three Distinct
Constructs

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1071581918304543

・ゲームの経験を多層的にモデル化しようとしている。

・1.Gameful design, 2.gameful systems, 3.gameful experiences の三レイヤーの定義付けを丁寧に行っている。

 

Casual Social Games as Serious Games: The Psychology of Gamification in Undergraduate Education and Employee Training

https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-1-4471-2161-9_20

Game Evaluation Bias Indexを公開しています。

下記URLにて、Game Evaluation Bias Indexを公開しています。

http://www.critiqueofgames.net/local_index/

 

■このデータセットが作成されている目的

 このデータセットは、「重要なゲーム」とされる様々なゲームが、どのような評価の偏りをもっているのかを、可視化するために作られています。

 具体的には次のような点が可視化されることを目的としています。

 

(1)言語圏によるとりあげられやすいゲームの違い:

 英語圏と、日本語圏のゲーム史のなかでとりあげられるゲームはそれぞれ違っています。たとえば『ザクソン』は日本のゲーム史の中ではあまり多く取り上げられませんが、英語圏のゲーム史では重要なゲームです。逆に『弟切草』や『不思議のダンジョン』シリーズなど、日本のゲーム史上重要なゲームが英語のゲーム史のなかではほとんど触れられません。

 こうした言語圏による顕著な違いがみられるタイトルを可視化できるようにしています。

(2)ゲームのリストの性質による違い:

 賞、ファン投票、売上上位作品、ゲームの展覧会での展示作品、ゲーム史の本、ゲーム研究の本など、様々なものがゲームの選定をしています。

 それぞれのゲームの選定の仕方に偏りがあり、この違いについても可視化できるように試みています。

(3)時期によって変化する評価の違い:

 ゲームの評価は時期によって変化します。たとえば、1984年に発表された『TETRIS』は、発表された時点では賞を総なめに…といったことはありませんでしたが、コンピュータ・ゲーム全体の歴史のなかでも最重要クラスの作品の一つとなっています。

 

 

 また、現時点ではこのデータは言語圏をまたいだ、名寄せにかかるコストの膨大さや、ソースデータの偏り等の問題があり、少なくないデータ統合上の問題があります。

 データの改善のためのアンケートを行っておりますので、ご協力いただけましたら幸いです。

 

アンケート: Do you know this game? - Questionnaire(194games/EN Bias Ver)

 

ゲーム依存関係の話について

 いろいろと複雑な話なので、改めて現時点での立場をなるべく簡潔に書いておきます。

  1. 精神医学における基準であるDSM-5での「インターネットゲーム障害」、ICD-11で提案される「ゲーム障害」は、単なる長時間の繰り返しのゲームプレイとは全く別物であるという認識にたっています。よって、ゲームへの「依存」や「障害」をその根拠として、ゲームを長時間プレイすることを積極的に排除すべきだという言説については、明確に反対してます。
  2. 過去の先行研究の蓄積からも、私自身が実施した調査からも、DSM-5上の「インターネットゲーム障害」に該当する事例は存在すると捉えています。(それが、「疾病」概念に相当するものかどうかはわかりませんし、「疾病」概念の妥当性を構成する要素については私は知識がありません)
  3. ただし、DSM-5や、ICD-11の基準を妥当なものとして支持するどうかについては、検討を必要とすると考えています。ICD-11の定義は広範すぎるのではないか、という懸念をもっていますが、DSM-5については、ICD-11の基準よりは相対的に支持できるものだと捉えています。とはいえ、DSM-5の「インターネットゲーム障害」は9個中、5つ以上のチェックがついた場合に、障害として分類されていますが、「5つ」という基準の妥当性については本当にそれが妥当かどうかは悩ましいと思っています。問題を扱うための標準的なスケールが必要であるという立場には賛同しますが、現状のDSM-5やICD-11の内容のまま話がすすむのは望ましくない状態になる可能性があると考えています。とはいえ、「ゲーム脳」のようトンデモ話ではありませんので、具体的な線引きをめぐって根拠をだして議論していくべき問題だろうと考えています。(ただ、残念ながら、私自身はこの問題自体を専門的に研究しているわけではないので、より近い立場の専門家を支援するという以上のことはできません)
  4. 一方で、確実に合意ができるだろう線引きとしてはDSM-5で、9つすべてに当てはまるようなケースでは、確かに社会的対応をしていったほうがいい。その水準のケースについてまで「存在しない」「問題ない」とは言えないと思います。
  5. 社会的な対応を行うべき「障害」の対象となる人数については、先行研究でもかなり大幅な違いが出ています。50万人~70万人規模の人数がその対象となりうるという研究結果は、積極的に支持できないと考えています。主張の手続きがないとか偏見だというより、前提の置き方について議論が必要だと思っています。一方、社会的対応をすべき人数が0人であるとも思えません。かなり少なく見積もって、DSM-5のチェックポイントを9つすべてを満たす人だけでも、100人以上はいるだろうと思います。具体的な人数の算定は、今後の研究・議論を必要とする論点だと考えています。

 

 1点目と3点目は、ゲームを擁護する立場に近いものですが、2点目と4点目は、ゲームを問題視する立場の人の意見とも整合的です。

 なお、私としては、ゲーム依存/ゲーム障害については、立場を示せと言われれば上記のように示しますが、この問題の専門家かと言われると違うので、この話で取材がきた場合、まずは渋谷明子先生とか、篠原菊紀先生を推すようにしています。

 樋口進先生とかは私の立場とけっこう違うと思いますが、この問題についての標準的なスケールを構築するという仕事が必要だという観点については、同意できると思っています。

 

 ゲームと依存については、下記の記事でも論じています

 

 

(1)2018.3.1

ロシアの自殺ゲーム「Blue Whale」の衝撃 井上明人×高橋ミレイ対談(前編)|Real Sound|リアルサウンド テック

 

(2)2018.6.14

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第25回 ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤)【毎月第2木曜配信】 | PLANETS/第二次惑星開発委員会 

  

 

 

 

 

メモ:佐藤裕『ルールリテラシー』新曜社、二〇一六

問題意識を共有できそうな内容なので、少しメモをとりながら読みます。(読みながらメモなので、読みすすめていくうちに、疑問が解消されることもありうるかと思います。)

以下、批判的に検討していますが、基本的に本書に対してポジティヴなので、私自身の理解を深めるためのメモという意味合いが強いものと思っていただければ幸いです。

 

  • 私と問題意識の重なりそうなところ:(1)「ルール」「リテラシー」の双方の概念について、私もいろいろと書いているので(2)志向性を共有する技法としての「ゲーム」を用いるというのは、私とほぼ同じ方向であるといっていい
  • あと、全体的な構成として各章で言いたいことを2行ぐらいでうまく参照しやすい「ルール」にまとめているのは、本の構成として素晴らしい。
  • (おそらく)全般的な疑問:なにゆえ「ルール」概念を多層的なものとして想定しないのだろうか(ref:ルール - ゲーム関連資料)。おそらく、あえて、多層的な概念としていないのだとは思うのだが、今ひとつその理由がみえない。
  • 二章:「ペナルティによってルールを守らせることはできない」。佐藤の議論では、ペナルティによって遅刻を罰するような場合には「ペナルティを避けるゲーム」によって「バレなければよい」という態度が発生するということを論じているが、これには幾通りかの議論の余地があるように思う。▼第一に、「ペナルティを避けるゲーム」と「ペナルティをしないタイプのゲーム」は別のタイプの志向性が発生するだけで、両者ともにゲームであるということ。どちらかが「ゲームではない」と言いうるのだろうか?※おそらく佐藤の主張は前者は佐藤の言うところの「ゲーム」ではない。…のだろうが、現時点では今ひとつ説得されない▼第二に、これは、ルール概念を多層的にすれば済むタイプの話であるように思える。というのは、明示的なFormal Ruleのレイヤーとは別に、慣習 conventionや、ヴィジョンの共有などのInformalな仕組みを通じて、多くの場合は協力的な仕組みが成立している。私の場合は、「ゲーミフィケーション」の話とかしているけれども、会社におけるヴィジョン共有や、Conventionといった多層的な志向性の道具付けの仕組みのうえに、ゲーム的な仕組みがうまく協調する形で付加されていればそれでよい、と考える立場である。Formal Ruleのなかでペナルティを課すことは理想的だとは思わないが、達成したいことの性質によってはペナルティを課す仕組みがあっても別にそれはかまわないだろうと思う。問題は、「ペナルティを課す」ということがさまざまな採りうる選択肢の一つでしかないということを、ルール設計/運用者が意識しているかどうかということではないだろうか。
  • 三章:…と思ったら、この章がConventionの話のようだ。「ルールは社会的カテゴリーと結び付けられることで強制力をもつ」と。▼ただ、教師やサッカー選手などすでに何らかの社会的なカテゴリーに、アイデンティティをもっている人の場合はそれでよいかもしれないが、小学生とかのような社会化の途上であるような人々や、伝統的な社会的カテゴリーから抜け出ようともがいでいるようなイノベーターのような人たちをどのように扱えばいいのだろうか?
  • ゲーム理論との対比についての説明:起こりうる現象については同意だが、説明の仕方は一読した限りだと充分に理解できなかった。ここで言われている「論理」の概念がうまくのみこめない。囚人のジレンマゲームにおいて、「自白」を選ばないようなインセンティヴ構造は、ここで佐藤が指摘しているとおり、いろいろあると思う。現実は、一回限りのゲームでの利得構造には従っておらず、多層的なゲームの利得構造が重なり合わさった状態なので、囚人のジレンマゲームそれ自体の構造とは別の理由によって裏切らないことはあるだろう。
  • 四章:参照可能性が重要であるという話。これは、やはりFormal Ruleについての理論なのだな、という宣言だと受け取った。
  • 五章:「免責されなかったルール違反は、反ルールを正当化するか、もしくはルール違反した者を社会的カテゴリーから切り離す」▼ここで、イノベーターのような人々を、既存の社会的カテゴリーのオートポイエティックな仕組みとして活かすか、それとも排除するかという話にもつながるように思う。イノベーターを扱える体系であることは重要だと思うのだが、具体例を読むとそういう話ではないっぽい。
  • 六章:p67「違反者はインフォーマルに排除されることにより、ルールを意識する契機を失い(ルールを参照しなくなり)」としており、ここでインフォーマルな仕組みについての言及がでてくる。基本的には、フォーマルな仕組みにのっとって、免責(深刻なルール違反とみなさないケースへの個別判定)、排除、赦し(排除した人の復員を赦す)といった仕組みが必要であるとしている。インフォーマルな仕方で排除されることは確かに問題だが、インフォーマルな仕組みに排除だけでなく、包摂の仕組みももっている(いわゆるアジールの話とか)。なので、インフォーマルな仕組みについての言及が、排除のケースについてのみなのが気になる。基本的に、この本は、フォーマルシステムメインでいこうという話なのだとは思うが、「社会的カテゴリー」みたいなものはフォーマル・システムと完全には紐付かないと思うのだがそこらへんはどう考えるのだろうか。ただ、ここでルールを維持するためには、何よりも「参照可能性を高めること」と宣言しているのは、オリジナルな主張だと思うし、興味深い
  • 七章:「ルールを維持するためには、メンバーすべてがルールをルールとして提示し、ルールとして読み取るコミュニケーション能力を持たなくてはならない」:これは、単に大変すぎるのではないだろうか。ここでもやはりルールの多層性の話をもちだして恐縮だが、高くなりすぎた複雑性の処理をどうにかするために、レッシグ/濱野のいうような「アーキテクチャー」のような仕組みが機能したりするということがあると思うのだが、「コミューニケーション能力」と言い切り姿勢は、やや過激すぎる主張ではないかと思える。
  • コラム2:志向性が、現象学でいうところの志向性ではないとのこと。てっきり現象学的な意味かと思っていた(※私がゲームの話で「志向性」と言った場合は、概ね現象学的な意味)。私の言葉で言い直せば、ここで佐藤が「志向性」と言っているのは、行為に関わるトレードオフ状況の理解と選択が行われているような場合のことだろう。行為の目的に階層性がある場合などももちろん、これに含まれる。
  • 八章:「直接ルールと間接ルールの違いを理解して使い分けなければいけない」と。ここでフォーマルルールの仕組み内部における階層性の整理があるのが個人的には興味深い。佐藤のいう区分は直接ルールは社会的な意味が直接に見出しやすいもので、間接ルールは「店長に従うべし」とかといったルール間調整のルールのようなもの。この両者の意識と使い分けをみんなができるべきだということだ。ここらへんは、ルールの「リテラシー」の話だなという感じが確かにする。
  • 九章:
  • 十章:

 

 

 

 

 

ルーブリック表の導入に関する個人的所感メモ

 

  • ルーブリック(Rubric)評価についての覚書メモ集積です。 

  • 基本的に、ルーブリックの導入は、アクティヴ・ラーニングに関する話のなかでもかなりクリアでわかりやすい手法だと思う。ゲームづくりの理屈から言っても、評価方法を予め公開しておくことは合理的だと思う。
  • ただし、「学び合い」とかで論点となっている「学生自身が評価できる」という点についてはルーブリック表を注意深く作成・導入しないと、なかなか達成が難しいように感じた。
  • なお、それなりに先行研究が出てきている風だが、まだしっかりチェックしてません。繰り返しになりますが、個人的メモとして、参考程度にお読みください。

ルーブリック表作成にあたっての論点

:ルーブリック表作成にあたって:基本的にルーブリック表の出来のよしあしにかかわる議論は、心理学における尺度作成についての議論がかなり使えると思う。詳しくは、村上 宣寛『心理尺度のつくり方』(2006,北大路書房)や、村山航「妥当性概念の展開」などを参照のこと。主な論点として、信頼性の担保、妥当性の担保等について

  • 信頼性の担保:学生によって、評価指標の中身を教員側が意図しない形で読み替えてしまって、勝手な「自分ルール」で理解してしまうケースが少なくない。ダブルバレルなどを防ぎ、誰が読んでもある程度同じ解釈に落ち着くような文をつくることが重要だろうと思う。手間をかけてもよいのであれば、読解の同一性が保たれているかどうかのテストをきちんとやるとよいのでは。
  • 妥当性の担保:ルーブリック表の指標の妥当性をどのように担保するか。「優れたパフォーマンス」は、教員側の意図によって任意に決定可能だが、それは必ずしも望ましくない。これは操作主義的な妥当性概念である。次の三つの妥当性概念を検討することが望ましいだろう。
  1. 基準連関妥当性(criterion-referenced validity 尺度がその概念を反映している外的基準と相関するか。予測的妥当性・併存的妥当性)
  2. 内容的妥当性 (content validity 測定したい領域を反映しているか。網羅性やバイアスが考慮されているか
  3. 構成概念妥当性 (construct validity):理論的・仮説的な構成概念を測定しているといえるか。構成概念妥当性は、収束的妥当性 (convergent validity)と、弁別的妥当性 (discriminant validity)によって測定可能らしい。弁別性については、EFA(探索的因子分析)をやることで、共通因子の排除や、弁別性の強い評価ポイントを見出すことが可能だろう。

ルーブリック表導入にあたっての論点

  • ここでは、社会学における内容分析の調査実施プロセスなどが参考になるのではないだろうか。
  • 要するにルーブリック表の内容について把握してもらうための時間をきっちりと設けて、理解度テストなどのトレーニングも含めて実施する。
  • ただし、授業に欠席者が多いとあまり意味をなさないことがあるので、ルーブリック表の理解テストに合格しておくことを最終課題を出すための前提条件とかにしておく必要があるかもしれない。

 

 

先行研究っぽいもの(まだあんま読んでない)

Google Scolarでの検索結果「Rubric learning」

https://scholar.google.co.jp/scholar?start=10&q=Rubric+learning&hl=en&as_sdt=0,5

  • Roblyer, M. D., and Leticia Ekhaml. "How interactive are YOUR distance courses? A rubric for assessing interaction in distance learning." Online Journal of Distance Learning Administration 3, no. 2 (2000).
  • Andrade, Heidi Goodrich, and Beth A. Boulay. "Role of rubric-referenced self-assessment in learning to write." The Journal of Educational Research 97, no. 1 (2003): 21-30.https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00220670309596625

 

他メモ

 

  • 今の所、授業でルーブリックを使っていて、解釈のブレの少ないルーブリック表を、丁寧に浸透させていくことで、最終課題のクオリティは、確実に上昇したという印象を持っている。
  • ただ、D大の授業では、課題のクオリティは間違いなくあがっており、学生の授業への満足度も高かったのだが、「自分の到達クオリティが高かった」という自己評価については、大学全体の授業平均よりもアンケート結果が下回ることになった。これは、やや高めの目標をクリアに提示しすぎたために、自己評価が低かったということなのか何なのかわからないが、自己評価はもう少し高いほうが嬉しい。授業担当者として褒めるべき部分を十分に褒められていなかった可能性や、提示した目標の水準が高すぎた可能性もあるので、要調整

 

 

 2020年7月29日追記:

  • ルーブリック表を沢山つくっていると、これって内容分析のコーディングのルールつくってるのに近いよなあ……ということを思ってしまう。
  • 内容分析のコーディングのルールの場合、妥当性と信頼性の担保に関わる議論がいろいろとやられているので、そういった話とかを援用するとやっぱりいいのではなかろうかという感じがする。