Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

<学習過程>としてゲームを捉える〜「おもしろい」のゲームデザイン〜

「おもしろい」のゲームデザイン ―楽しいゲームを作る理論

 Raph Kosterの『「おもしろい」のゲームデザイン』(原題:"A Theory of Fun for Game Design")読み中。

 ゲームの形式について論じていても仕方ナイジャン!っつって、プレイヤーの意識のほうにアプローチしようと思うと、しばしばチクセントミハイの「フロー体験」とか引き合いに出してそれ以上の理論的な進展の方向性にアタリがつけなくなる場合が多い。だけれどもRaph Kosterは、「フロー体験」とかで説明してもよさそうなところを、「フロー体験」には言及するにとどめ、「チャンク」とか「パターン」といった概念によって、ゲームにおける学習過程を説明することで独自の議論の深め方を行っていく。この点は大変に興味深い。

 で、こうした、ゲームについて説明をしようとするRaph Koster氏の欲求は、たぶんJesper JuulとかEric Zimmermanらとはたぶんちょっとだけ別のところにある。*1

 この本を読んでいて、Raph Koster氏的な立ち位置があるということで(1)同時に自分がZimmemanらに対して抱いていた物足りなさ、(2)前々からゲーム性の定義を「学習過程」として捉えるようなid:ityouさんのような議論を計りかねていた 二点もスッキリ納得できた気がしますた。

 えー、これだけ言ってもなんのコッチャイという感じだと思いますが、

 そこで、はてなダイアリーキーワード「ゲーム性」に以下の記述を加えてみました。

「ゲーム性」という概念の統合的な捉え方

 ゲーム開発者の桜井政博はこの概念を「リスク&リターン」という枠組みで捉えればよいのではないか、と提案している。ほかにも、多くの論者がいろいろと考えた末に、この概念を「駆け引きの妙」だとか「トレードオフ」といった側面から捉えられるのではないかと論じており、ここには一定の共通性がみられて面白い。
 また、他の有力な捉え方としては、「トライアンドエラーでスキル向上をしていく学習過程」というような方向性も挙げられる。こちらは"A Theory of Fun for Game Design"(邦題:『「おもしろい」のゲームデザイン』2005)のRaph Kosterあたりが代表格だろうか(「ゲーム性」って言葉は実は使ってないけど、ゲームの面白さの本質を記述しようとする姿勢は海外の人もおんなじ)。Raph Kosterはゲームプレイ時において生じる学習過程を「チャンク」「パターン」などというようなゲームプレイヤーによる意識の形成から説明し、ここにゲームの面白さの発生の仕組みを見出している。

 両者は、双方ともにゲームの「面白さ」を説明しようという点においては一致点を見出せる。だが、なぜこのような差異が生じるのか?
 私見を述べると、前者の「トレードオフ」「駆け引き」といった捉え方ではゲームのルールの形式や構造に着眼されており、後者の「チャンク」「学習過程」といった捉え方では、ゲームのルールをプレイするプレイヤーの意識、感覚に着眼されている。そう見るならば、両者の定義するところには異なっていても実は着目する対象が少し異なっているだけということであって、両者の立場は対立しているというよりも相互補完的なものであると考えられるだろう。

 なにわともあれ、ゲームプレイヤーの主観的な意識の構成について説明しようとする立ち位置はマジで貴重なので、その意味で本書は大変に重宝できるかと思われます。

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追記。

Raph Koster Website
http://www.raphkoster.com/

著者への松浦雅也氏によるインタビュー
http://www.oreilly.co.jp/editors/archives/000078.html

*1:邦訳版の16ページでは、実際そういってる。Zimmermanらに言及した上で「しかし、おもしろさは非常に根源的なものでもっと基本的な概念で理解できると思えませんか?」といって、Zimmermanにちょいとケンカ売ってます。

2005年度―今年のゲーム十選

2004年の十選にひきつづき、2005年度分も選んでみました。ちなみに、プレイしたソフトの数は約40本

 2005年度やってみてダントツによかったのは『ひぐらしのなく頃に』です。間違いなく。
 これとあと、『ワンダと巨像』の二作をプレイしたことで、本年度は幸せな気分になれました。

 全般的には、同人・フリーなどで製作された比較的開発規模の小さなものを本年はガシガシあげていますが、これは特に意図したわけではありません。

以下、気の向くままに、各作品へ締まりのないコメントしてゆきます。

続編だけど…『メタルギアソリッド3』『英雄伝説6』

 他のみなさんが高い頻度で挙げているのに、挙げなかったものとして『地球防衛軍2』『みんな大好き塊魂』『ロマンシング・サガ〜ミンストレルソング』とかは挙げませんでした。はい。もちろんとってもとっても面白かったんですけれども。
 そもそも前作『塊魂』は人生のベスト5とかにも挙げてたぐらいに高く評価してるんですが、主観的な評価だけでいえば僕は続編とかリメイクとかとよりも、新しい体験を与えてくれるような新作であれば多少みおとりする部分があってもそっちを選ぶんだ、というようなところがあるようです。それは、客観的な評価として「エポックメイキングなもののほうがえらい!」とかっていうようなモノシリ顔で評価してるわけじゃなくって、単に一ゲーマーとしてゲームにそういうものを求めているものだと思われます。

 これは、浜村通信がしばしば嘆いているような「オリジナルタイトルが減って悲しい」というような話に通じなくもないのですが、オリジナルタイトルなのか続編なのか、って議論って実は作品内容の話というよりも、その作品が流通にのりやすいか否かというようなマーケティングの議論だと思うのでちょっぴり違います。

 アガー。
 はやい話がぼくがゲームをやりつづける理由は、ある似たような楽しみを再現/量産することにあるのではなくて、別種の世界や別種の知覚を提示してくれるというところにこそもとめられるのかもしれません。むかし、あるネットゲーマーの知人に「このゲームだけで2年は軽く遊べるYO!金もかからなくって経済的だYO!」とネトゲーをやるようにすすめられたことがありました。ですけれど、推薦してくれた知人の思惑とは真逆に、そんなゲーム絶対やりたくないな、と思った次第です。二年も同じ世界などを見せられていたら、ぼくにとっては苦痛なのです。

 そんなわけで、今回続編モノのなかで10選に挙げた『メタルギアソリッド3』『英雄伝説6』は、オリジナルタイトルではなかったわけですが、ゲームプレイヤーに新しい世界を見せてくれるものだったと思います。
 メタルギアソリッド3は具体的には、衛星による敵兵の位置把握システムをなくして迷彩によるカモフラージュによる潜入システムを実装してくれたところにかなり大興奮でございました。草むらの中に延々と佇む緊張感はすばらしいの一語につきます。あとネタバレになるので控えますが、ラストの死の表現もサイコーですた。基本的には回避不可能な死を表現しつつも、プレイヤーに操作可能性を付与することで、プレイヤーが<死>に対して積極的なコミットメントを・していたか・というような手触りを与える、とても面白い手法でした。
 英雄伝説6 FirstChapter』は、ほとんどの部分は基本的に「ウェルメイドなものとして優秀なクオリティのRPGだ」という程度にとどまるのですが、物語展開の手法としてラスト付近で一挙に見所が増えます。物語のナゾが解けるという側面に加えて、続編モノとしての「ヒキ」をみせるというあたりはもちろんよいです。ですが、実はいちばん面白いと思ったのは、最後まで延々と発行されていたゲーム内の「新聞」というシステムかもしれません。*1。この作品は実はけっこう意図的かどうかわからんのですけれど、19世紀の近代的メディアの成立と近代市民の誕生みたいなものとかを意外と描けてしまってるようなところがあります。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』で記述される「公定ナショナリズム」だとか、新聞メディアを通じてプレイヤーキャラクターがとりあげられることで公共的感性がグイっと獲得されちゃう雰囲気だとかが感じられて、それが大変に面白い。もちろん、世界観はファンタジーなのでこれを19世紀フランスだとか、ブラジルだとかって主張したら途端にドキュンに感じられてしまうものですが…。こういう近代ナショナリズムの成立みたいなものを描くことがゲームって可能なんだな、と感じさせてくれたことで「ゲームって面白いんだな」と改めて思ったぐらいです。プレイヤーが積極的に世界に参与してゆく、という主体性があるがゆえに、価値観の主体化がはかられる、みたいな。そういう可能性を示唆してくれるものとしてぼくはたいへんにおもしろかったのです。

思想とあわせておいしい『雪道』

 ゲームとしての機能美もさることながら、開発者の思想もあわせておいしい作品としてPornさんの『雪道』。以下、Pornさんの「思想」http://f8.aaa.livedoor.jp/~sanctuar/text/thought.html より部分的に引用

あまりに再現クオリティの高い仮想世界を見てしまったがために、主人公が現実と仮想の区別を失ったことを『悲劇』あるいは『バッドエンド』として描くことで暗に“現実寄り”の価値観を読者に強制しようとする物語を非難したところで、この現状が覆るわけでもない。仮想は現実を越えられない。それは認める。ならば我々の目的は、これを否定することではない。

しかしながら、人間の認識はこの物質世界ほど強固ではない。巨大なディスプレイをガラス窓と見まがうことはあるし、フィクションとそうでないものを混同することだってある。カルト問題や仮想現実物語の使い古されたテーマではそれは危険な落とし穴として扱われるが、我々はそこにこそ、新たな世界を切り拓くチャンスを見る。RPGでもいい。カードでもいい。麻雀のようなテーブルゲームでもいい。まるで現実の自分の預金残高のようにその数値を愛した心理状態とサイコロの偶然とが創り出した一瞬に、一度でも奇蹟を感じたことがあるなら、そして再びそれに手を伸ばそうと思うのなら、あなたは我々の同志だ。

 こういう形で一つの明確な立ち位置を主張する人っていうのは多くないんですが、Pornさんは開発されている作品内容とあわせて、この議論がたいへんに説得力があります。『雪道』というは誤解をおそれずにいえば、「不思議のダンジョン」「Rogue」シリーズのさらにエッセンスを搾り取って、精錬したような作品です。
 「不思議のダンジョン」をプレイしている感覚を思い起こしてもらえればたぶん想像がつくと思うのですが、二時間、三時間とプレイしたときゲームプレイヤーである我々は、ある数字が並べられていることになにか超越的なものを見取ったような気分になることがあります。むかし糸井重里が80年代に『ファミスタ』をやりながら、ありもしないはずの「ここの腰のひねりが…っ!!」とかって叫びながらプレイをしていたという話がありますが、それとも似たようなものかもしれません。
 『雪道』はどんどん極めて、極めていこうとすれば、並べられた数字の一桁一桁の裏にある不在のはずの物語のようなものを見取ってしまう境地にまで至ります。コンピュータ・ゲームにおけるインタラクティブなコミュニケーションの表現が、実際には人間的な会話よりも遥かに劣るとみられるような「フラグ」だとか「パラメータ」によって管理されているというのは周知の事実です。これに対してPorn氏はコンピュータ・ゲームにおけるコミュニケーションのあり方が「フラグ」や「パラメータ」といった極めて数値的なインタラクションである/でしかないことに失望を覚えるのではなく、むしろそこを前提とするところからはじめて、どこか超越的なところに至れるのではないか、と問うているように思えます。

 これは、かつて存在していたゲェム右翼のような「打つ!たたく!はしる!それこそがゲームの本質!」というようなタイプのゲーム性至上主義とも違いますし、その逆にFFの「映画性」を賞賛するような<ゲームの芸術性>への評価とも異なる立場です。

 「不思議のダンジョン」を賞賛するような立場はふつう、「ゲーム性が高いからすばらしい」というような「ゲーム性至上主義」とかに回収されてしまいがちですが、フラグやパラメータといった数値的なコミュニケーションのあり方を、単に代替可能で管理可能な資源としてクールに見つめるのではなく、きわめてホットにそうしたものと向き合う可能性がありうるのだ、ということをPornさんの立ち位置は主張している。

二次元と三次元の往復 『大神』(体験版)

 3Dの世界の改造度があがるにつれて、ゲームの映像は意外と同じようなつくりのものがふえてきましたが、わかりやすい形でそれに対するオルタナティブを提示してみせたのが『大神』でしょう。
 ひどく単純なコメントとしては「墨で3D世界を描くだなんてスッゲェェ!」という一言になっちゃうんですが、それだけだったら本作はけっこう普通の3Dアクションゲームなのですよね。

 そういった技術的な優位以上に『大神』がすぐれて新しいのは、三次元の世界を三次元の姿態をもったプレイヤーキャラクターが動き回ることにあるのではなく、三次元の世界に対して、二次元からの統御が行えることにあります。

 これは大神が「筆」というモチーフを扱ったことからある意味、必然的に欲望されたことなのかもしれませんが、三次元の世界を我々は平面に配置されるはずの「筆」によって描かれた映像を通して認知しています。そこで、我々に与えられる三次元の世界は実は、三次元の世界によってではなく、むしろ二次元のものによっても干渉可能な世界なのではないかというような欲望がフツフツと沸いてきます――それは、たとえば、三次元の存在であるはずの風景をパシャっと写真にとって、写真に傷をつけたら、現実の世界にも傷がつけられてもいいのではないか?――というような欲望です。

 では、そういうことがができるのか、どうか?

 なんと、『大神』の世界はそれを実現してしまっているわけです。これに比べたら実は、世界が筆のタッチで描画されていることなど、実はホンのオマケにすぎません。

 また、今思えば、『大神』において実現されたこうした欲望は、かつて1999年にドリームキャストから発売された傑作『ジェットセットラジオ』においてお実は強力に欲望されていたものだったように思えます。
 『ジェットセットラジオ』は、3Dの世界をマンガディメンション――今で言うトゥーンシューディング――というコミック調の方法で描画したもののハシリですが、あの作品も実はそういう欲望の(たぶん)名残だと思うのですが、三次元の世界にラクガキというのをどんどんやっていくわけですね。それっていうのは、三次元の世界を、三次元の世界としてそのまま成立させるのではなく、そこにペンキを投げかけて、ドロドロに塗りたくって、三次元の世界なのだけれどもそこを強引に二次元のツールによって文字通り「塗り替えてしまおう」というような試みとして最初はあったはずだろうと。ビルを全部黄色く塗りたくってしまったらそれは三次元の物体なんだけれども、極めてフラットな形のものとして再構成されるような可能性をもってしまう。そもそも、わざわざ三次元のものを二次元の感性をベースにして描画しよう、という試み自体が極めて倒錯的というか、ちょっと捻った欲望の成立の仕方なわけで、そういう倒錯的なやってしまう欲望によってはじめて『ドラゴンクエスト8』とかも作りえていたわけで…うーん、なんか話がまとまらなくなってきたので、寝ます。
 

*1:いままでも、ゲームがすすむにつれて「新聞」などのようなアイテムが配置されていくというようなことはあります。もちろん。

ゲームの社会思想史の試み。

 http://d.hatena.ne.jp/hally/20051213
 の記事がマジですばらしかったです。あらためてhallyさんの力量に敬服いたしました。アタリショックの話と同じぐらい、大きなインパクトのある話です。論文なり書籍なり、ぜひ研究者などが引用できるような形で残していただきたいですね。

 ということで、なんだかhallyさんの記事へのコメントばっかりしている野郎とかに成り果てている感がありますが、これだけの分量に詰めるにはかなり込み入って話になっていたかと思いますので、論旨を私なりに要約させて確認させていただくとともに、理解のおよばなかった点についてコメントしていきたいと思います。*1

 以下、全てわたしのコメントは脚注です。

まず、hallyさんの議論のおおざっぱな図式は以下のように理解しました。

この図式は非常に強いインパクトがありますし、とても勉強にもなりました。
以下、もう少し細かく論理展開を要約しつつ、コメントさせていただきます。

(A)、「ゲーム」が人間によって革新可能・デザイン可能という概念が成立する。

【前近代】:ゲームデザイン概念の不在。
 1)ゲームを個人作品化する手立てがなかった
 2)その理由は、ソフトとハードが分離していたためである。特にハードが固定化していたため個人がゲームを能動的にデザインするという発想が成立しなかった。*3

【近代への転機】:近代的な環境がゲームデザイン概念の成立をエンパワーメントする。
 1)ソフトウェア・デザインとハードウェア・デザインを同時に行うという事件が発生する
 2)それは、教育ゲーム、ウォーゲーム、メカニカルゲーム機という三つのジャンル(?)において見出される。
 3)これらの事件はそれぞれ、近代啓蒙思想、決定論的な*4世界認識、工業技術の発展*5という近代化の過程と密接にリンクしている

(B)、(A)に支えられて、実用第一主義から娯楽第一主義への転換が起こる。

【近代】:ゲームデザインの目的の変容
 1)20世紀初頭という時期に、またしても教育ゲーム、ウォーゲーム、メカニカルゲーム機において同時並行的に大きな変化が起こる。
 2)それは、ジョージ・パーカー、H.G.ウェルズ、デヴィット・ゴットリーブという天才パイオニアたちによってもたらされた「実用第一から娯楽第一」という転換だった*6

(C)、(B)の徹底化に支えられて、モダニズムが成立する

1)モダニズムとは:特定のイデオロギーを変数として持つことによって進歩主義的でありうるような状態。常に<伝統>が革新され続ける運動として成立するものと捉えられる。これは、井原[2002]の議論を援用するものである。
→井原[2002]の議論では、ベンヤミン[1936]が参照される。写真という複製技術がルーブルという場所から芸術作品のアウラをひきはがし<歴史>という大きな物語の中に過去の作品を再配置することを可能にする装置として機能すると論じる。これによって、モダニストの芸術家たちは総決算すべき、乗り越えるべき対象としての<伝統>という像を手に入れることが可能になる。モダニズムの成立のためにはこうした前提がある。
→ここでは、モダニズム成立の条件が二つある。一つは、のりこえるべき対象としての伝統イメージが成立していること。二つ目は、どのようにして乗り越えるべきかというベクトルが用意されていること。
2)こうした歴史意識/伝統イメージを成立させるための装置として機能したのがコンピュータである。コンピュータはルールのロジックを遺漏なくうつしとることができる。これはゲームの複製技術…とまでいわないが、ゲームの大衆化*7を可能にし、「ゲームの伝統」という歴史意識を成立させることを可能にした。
3)この伝統を乗り越えるベクトルとして用意されていたのは娯楽第一主義である。その娯楽第一主義はコンピュータ・ゲーム登場以降〜90年代中盤までどのようにしてあらわれたかというと、[α]リアリティの追求、と[β]前例なきプレイ体験 という二本柱という形で具体的には現象した(この二つを出してきたのもhallyさんのオリジナル?)

4)こうして、コンピュータ・ゲームのモダニズムは成立する。コンピュータのモニタの中に映し出された数多くのゲームが「過去の伝統」として見出されつつ、ゲームデザイナーたちは「過去の伝統」のゲームより、より強力な[α]リアリティの追求、と[β]前例なきプレイ体験を求めてゲームを作り続ける。これがゲームのモダニズムである。

(D)、(C)モダニズムがゆきずまる。それはモダニズム自体が必然的に内包していた結末でもある。そして、ゲーム(デザイン)がポストモダン化する

1)[α]リアリティの追求[β]前例なきプレイ体験が、どんどんと高いレベルで達成されてしまい、乗り越えが不可能か、あるいは困難な水準にまでやってきてしまったのが現代である。
2)新しいものを提示しようという運動だけは残っている。しかしそれは、[α]リアリティの追求[β]前例なきプレイ体験というメソッドでは提示できなくなる。
3)近代的ゲーム像とは異なるゲーム像が提示されることになる。*8

以上、要約でした。

 コメントは脚注に。特に、ゲームにおけるモダニズムの成立について記述されている「コンピュータとモダニズム」の部分の論理展開がかなり高速にドライブされて省略がいろいろとはさまれていたように感じましたので、もう少しそこらへんを敷衍して語っていただくと理解がしやすかったか、と。

 何か基本的なところの理解が抜けている点などありましたら教唆いただければ。

*1:できればhallyさんのところの掲示板に貼り付けようかと思ったのですが、字数オーバーといわれてしまいました…

*2:しかし、これだと「すべての前近代のゲームはコンサマトリな娯楽でなかった」という話にもきこえかねない。「ゲーム」の思想史というか、「ゲームデザイン」の思想史として語ったほうが妥当なのでは?

*3:ここでhallyさんは<ソフトウェア・デザインだけでは「ゲームの作者」「ゲームのデザイン」という概念が流通/成立しない>ということを暗に前提としている―――というか省略されているのかな?と。

*4:ここでいわれている「決定論的な世界認識」とは<神によって決定された世界>という宗教的なものではなく、ニュートン的な近代科学思想によってたつ「自然法則によって世界は決定可能。計算可能」というような発想によるもの、ということを強調しておいたほうが誤解がないかと思います。あるいは、ここは、近代科学主義的な世界観としないで、「軍事の近代化とリンクしている」とかって方向性で論じるのはナシでしょうか?

*5:ここは単に「産業革命」とだけ言ったほうが、インパクトを受ける人が少し増えるような気がします。いや、それだけだと胡散臭く思われる可能性もありますが…

*6:この転換は「個人がゲームデザインする」という環境を前提にしてもたらされるものだった、とするところにhallyさんの主張の独自性があるのではないかと推測します。ただ、この主張がどういった経緯で出てきているのかが見えにくかったです

*7:ここで「大衆化」という概念をえらびとったのはhallyさんのオリジナルでしょうか?「普及」と「伝統」をつなぐメゾ概念として登場させられているような気が。少なくとも井原[2002]の議論からはだいぶ独自路線をいっている気がするので、ちょっと読んでいてこの概念の位置づけに混乱しました。

*8:ここは議論として若干つらいものを感じました。hallyさんの議論では近代的ゲーム像はコンサマトリな「娯楽主義」の産物として捉えられたはずですが、hallyさんがポストモダンであるとして位置づけるNintendogsなどの水木潔作品は、コンサマトリな「娯楽主義」という軸だけで言うと、近代的ゲーム像の延長戦上にあると捉えてよいということになると思われます。たしかに「精細なグラフィックスとオーディオ」によって達成されたゲームではないですが、「娯楽主義」を「精細なグラフィックスとオーディオ」などとしたのはhallyさんが独自に結びつけた定義であって…ちょっとレトリカルな記述になってしまっているのではないでしょうか…。そして、また、ここで、hallyさんが近代的ゲーム像の否定として、「ゲームであってゲームでないもの」としての近代的ゲーム像として参照しているイメージは、コンサマトリな「娯楽主義」によるものではなくて、むしろJesperJuulやGregCostikyanが定義するようなモデルです。しかし、hallyさんは残念ながら今回は、JuulやCostikyan的なゲームのモデルが成立してきた経緯を語っているわけではありません。だけれども、ここではいつのまにか近代的ゲーム像が、(a)娯楽主義+(b)Juulの古典的ゲームモデル、という二本立てになってしまっています。しかし、hallyさんの言う水木氏の「ポストモダン的立場」とは、ゲームが(a)娯楽主義から脱却すること、ではなく、むしろ(a)娯楽主義が強力に駆動されることで(b)Juulの古典的ゲームモデルが否定される、という図式であったはずです。▼なので、hallyさんが水木氏のゲームをポストモダン化として位置づけるためには、「近代的ゲーム像とは(a)娯楽主義である」という議論だけでは十分でなく、「近代的ゲーム像とは、(a)娯楽主義と(b)Juulの古典的ゲームモデルがセットになった状態である」ということまで論じておかないと、この後の議論が空回りしてしまうように思います。ポストモダン化ということで、おっしゃりたいことはもちろんよくわかるのですが、(a)娯楽主義と(b)Juulの古典的ゲームモデルがセットである、というところまで論じるところまでいけたらサイコーですね…。これを論証するのは大変に骨の折れることだとは思いますが。

ワンダと巨像しつもん。

ワンダと巨像
ワンダと巨像、クリアーしますた!

 そしてせっかくなので、↓こんな質問をしてみましたので、みなさまふるってご回答くださいまし。
http://www.hatena.ne.jp/1132173606

最近発売されたPS2ゲーム『ワンダと巨像』についての質問です。
■1.レビューサイト(ex: http://psmk2.net/)や 個人サイトでの『ワンダと巨像』の評判(参考 http://d.hatena.ne.jp/keyworddiary/%a5%ef%a5%f3%a5%c0%a4%c8%b5%f0%c1%fc#keyworddiary)などをたくさん読んでください。
■2.そして、そこに書かれた感想をあなたなりの基準で二種類以上に分類してみせてください。「肯定派/否定派」とかでもいいですが、できればもうちょっと工夫して、「<感動>メインの感想 / <面白かった>メインの感想 / <分析>メインの感想」などちょっと小細工を弄していただければなお良いです。
■3.あなたにとってどのタイプの感想がいいと思ったのかを選んでください。できればそう思った理由を教えてください。

【質問の狙い&注意】みなさんがどのような形で感想を分類してみせてくれるか、そしてそれをどのように理由付けて肯定したり、否定したりするか、という点に興味があります。質問者である私の要望に沿っていない回答はポイント対象外となりますのでご了承ください。

 さしあげられるポイントはせいぜい「うまい棒」が何本が買える程度かと思いますが…

ゲームの「定義」をめぐる立場

http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/comment?date=20051102#c
のhallyさんのコメントに対する応答です。

 私もhallyさんやjuul氏の立場をまだまだ理解・整理できていないと思います*1ので、お互いの立場を手探りしていくように議論につきあっていただければ幸いです^^

1:立場について

 まず、「定義できる/できない」というのではなく「定義することの意味をどこまで、どのように重視するか」というのがhallyさんと私の差異ではないでしょうか。私は定義そのものが無用だ、とは思っているわけではありません。

2:境界設定の問題について

 そのような立場の違いが生じる理由は、hallyさんの言うように「境界領域」の問題にどのようなスタンスをとるのか、ということにかかってくるかと思います。この「境界領域」の問題を大きく

 A.範囲設定の問題:どこまでが、どの程度「ゲーム」か?
 B.中心設定の問題:典型的な「狭義のゲーム」は何か?

 という二つに区分けして考えてみると、Juul氏の議論は、[A]範囲設定の問題に対しては「ゲーム」を構成する要素を分解しつつその組み合わされ方を立体的に提示してみせることによって見事に回答し、網羅的な定義になりえていると思います。単に網羅的であるだけの定義は「広義の定義」というだけに過ぎませんが、ボーダーライン・ケースの内側/外側というような段階的なイメージをしてみせることによって、ただの「広義の定義」というレベルを超えるものになっているところがJuul氏の定義の卓越した点かと思います。
 ですが、[B]中心設定の問題についていえば、Juul氏の定義では、これを回避することができないのではないでしょうか。チェスや野球などの古典的ゲームをを典型的なゲームとして捉えた場合と、日本で人気のあるような物語メディアとしてのゲームのようなものを典型的なものとして捉えた場合とではそこから見えて光景へ違ってくるものになるはずです。

『クエイクIII』、『エバークエスト』、チェッカ、チェス、サッカー、テニス、『ハート』、ソリテア、ピンボールはゲームであり、『シムズ』や『シムシティ』といった無期限シミュレーションゲーム、ギャンブル、完全確率ゲームはボーダーライン・ケースであり、交通、戦争、ハイパーテキスト・フィクション、フリーフォームな遊び、薔薇の花輪づくりは非ゲームである。

 という境界設定をJuul氏は行っていますが、これは彼の仕事を成立させるために必要な記述であると同時に、限界を設定するものでもあります。この[B]の問題をクリアーしようとした場合には、Juul氏のような精緻な議論によって境界例を探っていくような方法よりも、もっと別の一行ぐらいでできてしまうような「コンピュータを用いてディスプレイから映る映像との間にインタラクションを計れるもの」だとか「勝ち負けのあるもの」だとかといった緩い定義が価値を持つ場合もありうるだろうと考えます。(後述)

3.「よい定義」とは何か

 そもそもこのような議論をする前に必要となる前提を確認させていただきたいと思います。「ゲームは定義できない!」というラディカルな立場をとらないことを前提*2とした上で「よい定義とは何か」という議論について、Juul氏は

1.「ゲーム」であると事前に想定したものに対してきっちりと網羅性を持つこと。
2.境界例の内側/外側がきちんと存在すること
3.境界例がなぜ境界例であるのか、という点について理解させてくれること

 という三点を挙げて、定義に対する評価基準としています。
 また、Salen&Zimmerman[2003]は、英語において"play"と"game"という言葉の区分があるということをきっかけにして、その両者の差異をうまく設定できるようなものが"game"のよい定義なのではないか、と言っています、
 Juul氏の定義もZimmermanらの定義も自ら課した課題に対してはうまくクリアーするような定義を提出しえているとは思います。そして、そうした形での定義に対する評価基準を設定しておけば、定義を行った後に、単に定義をしただけではなくそれについての評価をしてみることも可能になるという意味で評価基準を設定しておくことは必要なすぐれた戦略です。

 しかし私が問題としたいのは、Juul氏やZimmermanのように、「定義に対する評価基準」を何らかの方法で用意した場合に、それが普遍的な評価基準として機能するのかどうか、ということです。Juul氏の定義が良い定義といえるかどうか、という議論をしようとしたとき、それがJuul氏の前提とするような評価基準をもとにしていう限りでは、Juul氏の定義はすばらしい定義だと思います。
 だけれども「<定義>というのはそもそも何のために必要だったのだろうか?」という問いが忘れられてしまうと、せっかくのJuul氏の議論が片手落ちになってしまう可能性を予感してしまいます。

 「定義とは何のために必要なのか」

 この問いに関してとりあえず答えるとすれば、厳密な議論をしたいとき――たとえば、論文を書くときや、多くの人の誤解を与えないようなものを書く必要にせまられたとき――に、「私が議論の対象としたいものはこういうものですよ」と、議論の対象を明示してみせるときに定義というのは必要とされるものだと考えています。*3
 このような観点に立った上で改めてJuul氏の定義を評価するとすれば、Juul氏がゲームの対象として設定しているようなものを論じたい場合にJuul氏の定義は使える定義だと言えます。私も今後は、Juul氏が対象として設定したようなゲームを対象として論じたい場合には、「Juul[2003]を参照」という言い回しをぜひ毎回使わせていただきたいと思います。その意味でJuul氏の定義はとても「使える」定義です。

 Juul氏の定義よりも他の定義がよい場合というのも考えられます。たとえば、桝山寛『テレビゲーム文化論』での「ゲームとは何か」という問いに対する答えは、<「相手をしてくれる」メディア>というものでした。桝山氏の議論の視野は、この後にゲームの議論をAIBOなどのコミュニケーションしてくれるゲーム以外のメディアへと接続されてゆくことを目的としています。「コミュニケーション・メディアとしてゲームを評価をする」というような発想に立つならば、<「相手をしてくれる」メディア>という定義をもちこんだほうが、議論の全体的な視野をよくするために、Juul氏の定義よりもよく機能するものだといえるのではないでしょうか。むしろ、ここでJuul氏のような定義を前提にしてしまうと、桝山氏の論旨が、不明瞭になってしまうだろうと思います。

4.諸芸術の定義は確立されてきたか?


 この話もたぶん、私なんかより、よっぽど詳しい人がガリガリいると思うので微妙におそれつつ書きますが…

id:hally

多くの芸術・芸能は境界領域の問題を抱えながらも定義を確立させてきた

 これは私の認識とは違います。
 確かに、多くの芸術・芸能は境界領域の問題を抱えていることを前提にしつつ定義をつくるという営為をやってきました。ですが、同時に現代芸術は芸術の定義を崩すような、「芸術の意味そのものを問う」というメタな水準での何かをやろうとする世界でもあります。よく知られたもので言えば、マルセル・デュシャンがそこらへんのトイレをもってきて展覧会に出品した『泉』のような作品をはじめとする、メタ・アート的な作品*4が当然のようにみなされている世界です。
 分析美学の西村清和氏の言葉を引用すれば「こんにちのアートの、あまりで多様な錯綜したさまざまな現象のあいだに、これらをひとつの定義によって包括するような共通の特性や本質をさがしもとめようとすれば、ひとはたちまち困惑してしまうだろう」(『現代アートの哲学』1995)というのが、現代芸術の現状かと認識しています。

 ただし、こういう話をしても仕方のない空間というのが一方ではあります。実際には美大ではデッサンの授業があったり、ハリウッドの映画学校ではシナリオ作成技術のイロハを教える授業があるでしょう。「よい美術作品であることとデッサンの技術とは一欠けらの関連もない」ということを断固として主張する人は、デッサンの授業にいかなる価値も認めないはずです。今現在、美大でデッサンの授業というものが行われている前提には<美術作品の水準>が、<デッサンの技術>と相関している/あるいは相関可能だ、という認識が少なからず存在しています。
 このような授業が行われている現状を取り出すのならば、諸芸術が「定義を確立させてきた」とまで言わないまでも、諸芸術が自らの扱う範囲に一定の前提を置いていることは事実でしょう。そしてまた、一定の前提を共有することによって諸分野が発展してきたのも事実だと思いますし、そもそも何かしらの前提を共有していなければメタ・アート的な性質持つ作品そのものが成立しないということも指摘できます。

 このような議論の上で、Juul氏やZimmermanらの議論がいかなる意味で必要なのか、ということを考えてみることもできると思います。Juul氏やZimmermanらの議論は、メタ・ゲーム的な作品までを問うという視野によって、議論をしようとしているのではないということはおそらく明らかです。Zimmermanは著書の中でも自分を「アカデミシャンではなく「実践」の側の人間だ」と言っていますし、彼らは自らが仕事をしていく前提を作る上で必要となる議論をしているのだろうと思います。つまり、美大でデッサンの授業をするまえに前提となる認識が必要であるように、市場に売り出していくためのゲームを製作していくための前提となる認識を丁寧につくりあげようとしているのが、Juul氏やZimmermanたちなのだろう、と。
 繰り返しになりますが――Juul氏やZimmermanらがそのような立場にたっていることを、彼らの「限界」として見出すことは可能です。だが、それよりも特定の立場を明確にしていくことが可能な彼らの議論は、技術をより精緻に深めていくための強みとしても機能するものだろう、という観点にたつこともできます。彼らの議論が精緻であることのすばらしさは評価されてしかるべきだと考える私の立場は、結局はhallyさんをはじめとする多くの方と近いところにいるものだと思っています。

*1:が、以下の議論では勝手にJuul氏の立場を憶測した上で議論しますが…

*2:注釈「2」の部分でヴィトゲンシュタインに言及。ヴィトゲンシュタインは言語の使われ方が、社会的な営みの中で調整され、変容していくものだという観点から定義することの不可能性を論じた。興味のある人は「言語ゲーム + ヴィトゲンシュタイン」あたりでググると乙。あるいは「ヴィトゲンシュタイン+探求」「ヴィトゲンシュタイン+後期哲学」

*3:もちろん、別の回答もありうるでしょう

*4:ゲームの世界で言えば、美大出身の飯田和敏による『太陽のしっぽ』はまさにそのような文脈において提出されています。元美大生だったid:TRiCKFiSHは、『太陽のしっぽ』において「目的の不在」が自覚的に盛り込まれたゲームである論じ、メタ的にゲームを問うものとして高く評価しています。もちろん、このような評価は別の文脈においてはガリっと逆転して『超クソゲー』という大ヒットした本の中で『太陽のしっぽ』はクソゲー=面白くないゲームとして位置づけられています。