Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

『コンテンツ産業論』だいぶ遅れて謹呈御礼+ジットレインの生成力のはなしとかダラダラとまとまりのない話の書き散らし

コンテンツ産業論―混淆と伝播の日本型モデル

コンテンツ産業論―混淆と伝播の日本型モデル

小山先生にいただいた。

個人的にも問題意識の近い話がとても多くてたのしいです。

コンテンツ産業における大規模開発をどう考えるか


小山先生の問題意識は特に、コンテンツ産業における大規模開発システムをどのようにとらえればよいのか、ということでしょうか。


まず、最初に第三章 小山友介「2つのコンテンツ産業システム」(pp61〜pp90)で、

 ハリウッドのビジネスモデルは 1)制作者のプロフェッショナル主義、2)厳密な権利管理 3)大作指向(ブロックバスター戦略)による、ハイリスク・ハイリターンのビジネス、で特徴づけることができる。ハリウッドのこれらの特徴は合理的計算から生まれてきたのではなく、発展史の各局面での現状への適応が積み重なってできあがったものである。
 漫画・アニメ・ゲーム・ライトノベルといった世界で注目されている日本的コンテンツを生み出している環境には、1)制作者のプロ・アマの境界が曖昧さによって生み出された膨大なクリエイターとその候補者たち、2)緩やかな権利管理、3)大規模作品のみでなく中小を含めた分厚い市場、といった特徴がある。(P61)

と書き、コミケみたいなものとなだらかにつながった日本のコンテンツ産業と、ハリウッド型の大規模作品開発システムを別のビジネスモデルだと位置づけます。
 しかし、その後、ゲームビジネスについては近年は顕著に「ハリウッド化」=大規模開発が進行してきており、その波に対してどうすればいいんだろう、というところで、第十章 小山友介「家庭用ゲーム産業の「ハリウッド化」」(pp263〜pp285)という議論がなされます。いろいろと、ゲーム産業の日米比較についてバランス良く目線を配った議論をした後に、

 現在の日本企業は大きなジレンマに陥っている。すなわち、「日本市場向けにDSとWii向けの開発体制整備にリソースを振り分けると世界市場で不利となり、世界市場向けにPS3Xbox360にリソースを振り分けると日本市場で不利となる」のである。また、2008年に日本で一番売れたタイトルがPSPの『モンスターハンターポータブル 2nd G』であったように、新しいタイプのゲームの売上が少し弱まり、旧来型のゲームが盛り返しつつある。今後、日本企業の世界市場での地位は、「ゲームは任天堂が描くような構造変化を起こすのか」、「日本で構造変化が起こるとして、今後、世界のゲーム市場も日本と同様の構造変化を起こすのか、起こすとすればいつなのか」にかかっている

 と結論づけています。
 細かいところでは異論もありますが、大筋では同意できる議論か、と思います。

樺島さんの「インディーズ」と、「生み出す力」(ジットレイン)関連、簡易まとめ

 もう一つ、個人的に興味がすごく重なるのは、樺島さんの話。

第九章 樺島榮一郎「ポピュラー音楽におけるインディーズの成立」(pp237〜pp262)

現在のインディーズの繁栄は、制度化された新規参入の機会、アーティストおよび消費者が状況を見晴らすことのできる情報共有の仕組み、開かれた流通プラットフォーム、個人で賄える範囲に低下した音楽活動の費用、という4つの条件が、お互いに関連し合いながら成立したために、起こったことを明らかにした。(p256)

 第1に、後述する展示・情報共有の場への新規参入の機会が制度として設定され、新たなコンテンツ制作者に、広く開かれていることである。インディーズの場合は、ライブハウスのオーディションが主にこの役割を果たしている。第2に、消費者のみならず、多くのコンテンツ制作者が参加し、数多くの他者のコンテンツを見て技術や流行などの状況を広く知ることができ、制作者間でネットワークを広めることができるような、展示・情報共有・ネットワーク形成の場(ショーケース)が存在し、それが活発であることである。インディーズの場合、ライブハウスでの活動とレコードの流通がこの部分を担っている。一般に、アーティストの活動や評価が上がるほど、コンテンツが広く知られ、他者のコンテンツに触れる機会も多くなり、制作者間のネットワークも広がる傾向にある。第3に、コンテンツの制作に垂直統合されておらず、物流、商流ともによく整備されてコンテンツ制作者の負担が少なく、かつ新規参入者にも開かれた流通プラットフォームが確率していることである。インディーズにおける流通プラットフォームは、1980年代前半から形成されはじめ、2000年ごろに完成したと言える。第4に、個人レベルでの新規参入を可能にし、継続的に展示・情報共有の場で活動していける程度に、設備投資と運転資金が低いことが挙げられる。ポピュラー音楽の場合、演奏のための設備投資や運転資金は以前から個人で十分に負担できるレベルではあったが、プロレベルの録音が個人レベルの投資でできるようになったのは、ITの進歩によるところが大きく、90年代半ば以降である。個人の負担は、アーティストがプロに近づくほど減少していくと言えよう。第四に、コンテンツの流通が制作と切り離され、プラットフォーム化されていて、開放されていることである。インディーズでは、90年代半ばごろから、プラットフォーム化された流通が整備されはじめ、2000年にメジャーとほぼ変わらない流通プラットフォームが完成した。
 近年のインディーズの繁栄の要因は、上記四つの条件を実現する環境や仕組みが向上したことにある。(P240〜)

 樺島さんのここらへんの話は、ぼくが、前にした話(ノウハウ教育、技術基盤、流通、評価、収益、決済経路のプラットフォーム間連結が必要)ともかなり同じような発想ですね。

 で、樺島さんの話に対して、ぼくのほうでもう一つ付け加えたいと思っている話は、は広告・宣伝・流通・制作・ライブといった単位のモジュール化をどう扱えばいいのか、ということでしょうか。樺島さんが論じている通り、複数の要素が開放されプラットフォームとして機能しているのが重要というのは、視点としては全く同意なのですが、

  • 1.単にオープンなだけでは不十分で、<機能している>と言いうる程度に連携が保たれるための条件をもう一つきちんと考えてやる必要があるだろう、と。
  • 2.どういった「モジュールのサイズ」が適切か、というのは実は分野ごとに条件が違っていて、そこが難題だろう、と(というか、この話って、解けるとしても数学的に解ける、とかそういうのが限界な気もする)

 という二点をどう考えるか、というのが僕の側で考えている課題、といったところです。

 あと、樺島さんの話に近そうで、かつ、最近みんな読んでいるジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』(ハヤカワ新書、2009)の生み出す力の話もついでのメモとして引用しておこう。

インターネットが死ぬ日 (ハヤカワ新書juice)

インターネットが死ぬ日 (ハヤカワ新書juice)

(P128)
何が、ある物に生み出す力を与えるのだろうか。以下のように、基本的に五つの要因が考えられる。
1.テコの作用により、どこまで作業を簡単にしてくれるか。
2.幅広い作業にどこまで対応できるか(順応性)
3.どのくらい簡単に使い方を学べるか(習熟性)
4.新しい活用方法を作り出す意欲と能力を持つ人がどのくらい簡単にアクセスできるか(アクセシビリティ
5.専門家以外の人にも(おそらく、特に専門家以外の人へ)どのくらい簡単に改変を伝承できるか

ゲームの話にコンバートすると、こんな感じだろうか、

  • 1.テコの作用 
    • → ライブラリ、ミドルウェアの話。大規模開発の開発予算・スケジュールを縮めるためにはクソ重要。
  • 2.順応性
    • → C++などのプログラミング言語の技術。制作のために汎用的に使える技術。汎用性がそこまで高くないツールしか使えないと、狭い範囲の課題に対してはプロフェッショナルになれても、課題の範囲が広まった時にしょぼーんなことになるという罠。
  • 3.習熟性
  • 4.アクセシビリティ 
    • → 技術・流通・収益プラットフォームのオープン性(樺島さんのはなしとか、新さんのMODツールのオープン化の話につながるところ)。
  • 5.簡単に改変を伝承できるか 
    • → 技術伝播の効率性の問題。オープンソース系の簡易な言語のプロジェクトとかだと、技術伝播の効率性は高い……けれど、ソースコードレベルでの改変の伝播はほとんど行われず、一度ミドルウェアなり開発フレームワークなりライブラリのような中間的なパッケージを介さないと、そんなに技術伝播は容易ではないやも。
    • ライブラリだとかのようなものでないとすれば、三宅さんががんばっているような活動だとか、技術解説系のウェブサイトだとか、GDC/CEDECみたいな各種の技術系カンファレンスが一定の役割を果たすわけで、ここで日本はいつも負け気味になる問題。


 また、ジットレインの話でほかに、個人的におもしろいな、と思ったのが「生み出す力が強い例」と「生み出す力が弱い例」というものを挙げていて、そこでゲーム/おもちゃというまとまりで次のような表を描いている(P136)

生み出す力が強い例生み出す力が弱い例
サイコロ、トランプボードゲームサイコロとトランプがあれば、さまざまな種類のボードゲームが楽しめる。ボードゲームは、基本的に一種類のゲームしかできない。アクセシビリティはいずれも高い。サイコロとトランプは同じように、モノポリーのボードと駒、お金を使い、まったく違うルールの遊び方を考えることもできる
レゴのレンガ、プラスチック製柱とパネルの製作セット、組立セットオモチャの家(完成品)レゴなら家にすることもできるし、その他さまざまな使い方ができる。オモチャの家も遊び方次第で用途が広がる。レゴほどの柔軟性はないかもしれないが、いろいろな出力が可能なプラットフォームとなれる。つまり、ボードゲームと比較すればオモチャの家のほうが肥沃なオモチャだと言える。
チェス、チェッカー四目並べ昔から、さまざまなゲームでチェスやチェッカーが使われてきた。構成部品を使ってまったく異なるゲームを作ることも可能である。
エッチ・ア・スケッチ、クレヨン、紙塗り絵帳、ペイント・バイ・ナンバース


 ボードゲームを「生み出す力が弱い例」としているあたりは、慧眼だな、と思う。
 だいぶ昔にid:hallyさんも書いていたように、ボードゲーム(特に双六)というのは、ソフトウェアのデザインとハードウェアのデザインを統合したオモチャになっている。チェスやトランプなどは、ハードウェアを使ってどのようなルールを構築するか、ということは無限にバリエーションがあるが、ハードモジュールと、ソフトモジュールを一体化させているのがボードゲームだ。よく言われるコンピュータゲームの「ルールが変えられないオモチャ」*1というのは、要するにハード/ソフトのモジュール化がない状態で、ぜんぶ一緒くたになってるものだ、ということだ。


 で、ちなみに、「自由度」をめぐる議論なんかは、

  • (1)「サイコロ」型の、ハード/ソフトがモジュールとして分離しやすい『Oblivion』『GTA』『Sims』(Sim People)のようなSandbox typeと呼ばれるゲームの「自由度」の高さをめぐるはなしと、
  • (2)「双六」型の、ハード/ソフトが一体化していて切り離せない(という側面が強い)、『タクティクス・オウガ』、みたいな「自由度」の構築の話。これは、話の分岐ルートを全部つくらなければいけない。

 とで大きく分かれるのだよね。後者はすげー大変で、松野さんみたいなネ申がいないことには、プロジェクトとして実現しようと思うと、まじで死ぬ。っていうか、ネ申が降臨しているプロジェクトであっても、ほぼ確実にデスマーチ上等だろうなーっていう。

 ほとんど、後者のタイプの「自由度の高い双六」のような作品製作は途絶えてしまって、両者の手法の合成されたような『ガンパレードマーチ』みたいな方向を目指すか、「単なる一本道双六」=ファイナルファンタジーのようなものをシコシコつくるか、という二択だよなー、とかつらつらおもった。


 **


 ちなみに、ジットレインにせよ、ぼくが一昨年にした話にせよ、樺島さんの話にせよ、(あと、七邊さんの同人の話*2にせよ)、そうなんだけれども、

 基本的に、この手の 話って、どうしても指標をシンプルな形で、単一化しにくい。合成変数の話になってしまう。

 ジットレインは、「生み出す力」の話をしたあとに、フリーソフトウェアの話をして、コモンズの話をして、アフォーダンスの話をして、モジュール化の話をして、エリック・フォン・ヒッペル(民主化するイノベーション)の話をして、という話になっていく。まあ、言いたいことはとってもよくわかるというか、禿同なんだけれども、定性的な議論から一歩抜け出せない。この議論自体が、他の議論を喚起するような汎用的概念・汎用的モデルとしての強みを持ちきれずに、他の議論へと応用しにくくなる。

 リチャード・フロリダなんかは堂々と、合成変数を使って、定量的な分析なんだ、ということにしてしまって議論を構成して、「クリエイティヴ・クラス」の話をぶちあげていた。……わけだけれども、合成変数って、「おまえ、その合成変数の根拠は何よ」とか言われると、超びみょーな雰囲気になる。(%% 合成変数自体の妥当性を何かしらの別の指標と、パラレルに並べつつ、合成変数の妥当性をどうにかして担保できていれば、いいのだろうが、フロリダってそうしてたっけ?忘れた。読み直そう%% → 読み直したなう。そういう議論構成になっていた。P315「地域のクリエイティヴ・クラス人口比率*3、才能指数(一人あたりの特許件数)、ハイテク指数(人的資本を単純に学士号以上の学位を取得した人工の比率として測定)、イノベーション指数(一人あたりの特許件数)、ハイテク指数(ミルケン研究所のハイテク都市指数に基づく指数で、その地域におけるソフトウェア、エレクトロニクス、バイオメディカル、エンジニアリングサービスなどの成長産業の規模と集中度によって測定)」という四つの指標との相関がとれるかどうか、ということを合成変数の妥当性を担保するための前提として使っていた。)

 理想的には、定性的な議論にしてしまうなら、よっぽど人をハッとさせるような気づきを与えるような事例を一つか二つもってくることができるか、あるいは、スコット・ペイジ『「多様な意見」はなぜ正しいのか』(2009,日系BP)でやっていたシミュレーションや、数学を用いたモデル化ぐらいまでしてやらないと、今ひとつ、インパク値&応用可能性が高い話になりにくいよなー。

 合成変数で話をしてしまうのも一つの手なのかもしれないけれど、まっとうに考えると、複数の指標を合成した変数で計るよりも、複数の制度間均衡とかがけっこう複雑に絡み合って成立するような話であるような気もする。…なので、それぞれの指標間のトレードオフだとか、ゲーム形みたいなものをちゃっかりモデル化できればそれが一番キレイだろうなあ、とかおもう。まあ、トレードオフ構造とかを下手に細かくモデル構築しすぎても、誰がそんな細かい話を読むんだYO!的な地味ーなものになっちゃうのかもしれないけれど。

 なんか、だらだらとまとまりのない話を書いてしまったなう。

 とりあえず、最後に、井上/樺島/ジットレイン/ヒッペル/池上英子/フロリダの比較表でもはっておくなう(つくりかけ)

 まあ、「ちょwwおまww並べるのはおこがましいだろw」というツッコミはあえて聞こえないことにする。



論者対象ドメイン主張
ジョナサン・ジットレイン[2008=2009]生みだす力generativity、が重要なドメインいろいろ1.テコの作用により、どこまで作業を簡単にしてくれるか。、
2.幅広い作業にどこまで対応できるか(順応性)、
3.どのくらい簡単に使い方を学べるか(習熟性)、
4.新しい活用方法を作り出す意欲と能力を持つ人がどのくらい簡単にアクセスできるか(アクセシビリティ)、
5.専門家以外の人にも(おそらく、特に専門家以外の人へ)どのくらい簡単に改変を伝承できるか
リチャード・フロリダ[2007,2008]「クリエイティヴ・クラス」のドメイン技術、才能、寛容性の高い地域が重要になるとの前提に、クリエイティヴ資本理論では「地域の経済成長は、多様性があり寛容で新しいアイデアに開放的な場所を好むクリエイティヴな人々が原動力となる」ととらえる。、クリエイティヴ資本を惹きつけ、ハイテク産業の成長を刺激することを検証するための指数としてCDI(合計多様性指数)を作成。これは1.メルティングポット指数(移民の集中率を元にした指数。*4、2.ゲイ指数(非婚のパートナー関係が同性によるものならば、ゲイまたはレズビアンとみなし、国勢調査を元に地域集中度を調査。*5のMODの話に言及して「メーカーがプラットフォーム製品で一定の儲けを確保しさえすれば、ユーザーによる補完製品の開発と提供は、社会福祉の観点からはプラスの効果をもたらすはずだ。なぜなら、手に入りやすい補完製品の存在は、ユーザーにとってのプラットフォームの価値を上昇させ、その結果、メーカーはプラットフォームに高い利幅を確保したうえで売上げ数量を増やすことができるからである」と書いている。この話って、valveがMODプラットフォーマーみたくして、定期的に利益の生み出せるビジネスをやってたら、まったくもっておっしゃるとおり。でも、実際には、Valveカウンターストライクとか、ハーフライフをパッケージとして売っていたので、補完財がただで手に入るビジネスをやりすぎてしまった結果、「次の製品」を購入させるための、ビジネスモデルが構築できずに困ったわけだよね。

 話はWindowsについてもおそらく同様。Windowsがオープン化をどんどんしてAPI公開をして、補完財がただで手に入るようなビジネスをやる合理性は、Windowsのバージョンアップ製品をその後もユーザーさんが買ってくれるということを前提にしていないと成り立たない。あるいは、ユーザーから金を取らないのであれば、Googleみたいに、広告とかで金をとってくるだとか何かしらの別のマネタイズをしないと死ねる。

 

 にしても、すごいまとまりない話をメモってしまったな、とおもってしまっている、なう。

*1:本当は、「ルールが変えられない」のではなく、ルールの変更コストが高かったり、「ルールが決まっているのだということを納得させる」アーキテクチャとしてデジタルゲームは存在しているだけだ。これは、80年代前半にプログラム投稿誌のゲームプログラムをマイコンに打ち込んでゲームをプレイし、ときどき気まぐれにパラメータをいじりながらゲームをしてプレイヤーにとっては、当たり前の前提だと思う。「ルールが変えられない(変えにくい)」アーキテクチャというのは、アーケードゲームとコンシューマーのことだろう。

*2:七邊信重[2009]「同人・インディーズゲーム制作を可能にする「構造」−制作・頒布の現状とその歴史に関する社会学的考察−」『コンテンツ文化史研究』pp35-55,コンテンツ学会

*3:クリエイティヴ・クラスの分類は次の通り。1.クリエイティヴクラスには、▼1A.スーパー・クリエイティヴ・コアとして、コンピュータおよび数学、建築およびエンジニアリング、生命科学、物理科学、社会科学、教育、訓練、図書館、芸術、デザイン、エンタテインメント、、スポーツ、メディアに関連する職業 ▼1B.クリエイティヴ・プロフェッショナルとして、マネジメント、業務サービスおよび金融サービス、法律、医療、高額品のセールスおよび営業管理、▼2.ワーキング・クラスとして、建設および採掘、設置、保守管理、修理、製造、輸送および資材運搬に関連する職業 ▼3.サービス・クラスとして、医療支援、調理および飲食サービス、建物および土地の清掃および保守管理、介護、低価格品のセールス、事務および業務補助、コミュニティおよび社会福祉、保安サービス▼4.農業として、農業、漁業、林業に関連する職業、されている。pp.412-pp.414

*4:メルティング・ポッド指数はイノベーション指数および、クリエイティヴ・クラス指数との間に有意な相関は見られず、ハイテク産業との間には相関があり。

*5:ハイテク指数と高い相関があり、クリエイティヴ・クラス指数とも相関。 p321))) 3.ボヘミアン指数(芸術を職業とする人工の比率を測定する指数。国勢調査が元データになる。P327) の合成

エリック・フォン・ヒッペル[2005]民主化するイノベーション」のドメイン…(話の構成がほかとはけっこう違う)1.互酬性のあるユーザー・コミュニティが有効に機能(p139、第7章) 
2.情報の無料公開に対してのインセンティヴが働く場合(名声、恩返し、転職市場における利益、ネットワーク外部性がありうる場合など)、
3.低コスト・イノベーションが有効に機能(p101、第五章)(集合知が成立するための多様性が・分散性が活きるという話)
4.標準化された製品ではなく、カスタマイズしたものを作るプロセスにユーザーが大きな価値を認めるような状況が、有効に機能(※いわゆる功利的選択というよりは、製品をカスタムすることに内発的動機付けのなされた状態。第四章)、
など(いずれも、定量的データによる裏付けあり)、こうしたユーザー主導のイノベーションを起こすための公共政策として(A)知的財産権の見直し(レッシグ的な話)(B)製品改良に対する制限の見直し (C)流通チャネルに対する規制の見直し、(D)研究会開発(R&D)助成金と、税控除の見直し などを挙げている
…さらに加えて「ユーザー・イノベーションのための高品質なツールキットの、5つの重要な特徴」として、
(1)ユーザーは、試行錯誤を通じて学びながら次に進むという完成したサイクルをたどることができる。
(2)ユーザーが作り出したい設計内容を実現できるソリューション・スペースが提供される
(3)専門的な訓練をほとんど受けることなく操作できる、使い勝手の良さを提供する。
(4)ユーザーがカスタム設計に使うことのできる標準的モジュールのライブラリーが含まれている。
(5)ユーザーによって設計されたカスタム製品やサービスを、メーカーが手を加えることなく生産設備で生産することができる。
池上英子[2005]俳句などの趣味を介した江戸時代の広範囲なネットワーク・絆1.農民でも参加しやすいネットワーク(5,7,5と季語を覚えればとりあえず参加可能)、2.ローカルな「茶会」コミュニティと出版技術を通じた全国的ネットワークの形成、3.ヒエラルキーを超えたフラットな関係性の構築、などなど(いまちょっと手元にないのでうろ覚え)
樺島榮一郎[2009]音楽のインディーズ1.制度化された新規参入の機会、
2.アーティストおよび消費者が状況を見晴らすことのできる情報共有の仕組み、
3.開かれた流通プラットフォーム、
4.個人で賄える範囲に低下した音楽活動の費用
井上明人[2008]コンピュータ・ゲームのインディーズ/同人などの「ゲームをつくる文化」の話1.ノウハウ教育、
2.技術基盤、
3.流通、
4.評価、
5.収益、決済経路のプラットフォーム
それぞれがオープンであるだけでなく、「連携」して機能しやすい状況になっていることが重要。ネットワーク間の相互作用を機能させることがマジ重要。また、ウィル・ライトが指摘するような、ユーザーコミュニティのエコシステムが成立していることによって、多様性と、段階的なコミットメント(コミットメントのレベルデザイン)が成立している、ということも極めて重要。要素間にはトレードオフもある。

 
 あと、ちょっとズレるけれど、この手の話は、「生む力」的な議論であると同時に、集合知的な話にも、接続されているので、ジェームズ・スロウィッキーと、スコット・ペイジの「集合知が機能するための条件」と、の話も載せておこう。
  
 
論者対象ドメイン主張
ジェームズ・スロウィッキー集合知がうまく機能するための条件多様性(似たもの同士の集団だと、それぞれが持ち込む新しい情報がどんどん減ってしまい、お互いから学べることが少なくなる。)、
独立性(同調圧力や、ケインズ美人投票沈黙の螺旋…情報カスケードの起こりにくい状況)、
分散性(問題に近いところにいる人ほど、優れたソリューションをもっているはず)、
集約性(システムの一部が発見した貴重な情報が、必ずしもシステム全体につたわらない可能性がない。複数の情報をうまく集約する仕組みが機能している)
スコット・ペイジ多様性が能力に勝る、ための条件(P207〜)条件1:問題が難しい(どのソルバーも個人で必ずグローバル・オプティマムを見つけられることはない。)
条件2:微積分条件(すべてのソルバーのローカル・オプティマムをリストに書き出すことができる。すなわち、すべてのソルバーが賢い)
条件3:多様性条件(グローバル・オプティマム以外のすべての解が、最低一人のソルバーにとってローカル・オプティマムでない)
条件4:大勢のソルバー候補からかなりの大きさの集団を選ぶ(ソルバーの母集団は大きくなければならず、一緒に取り組むソルバーの集団にはある程度の人数のソルバーが含まれていなければならない)
多様性が能力に勝る定理:条件1から条件4が満たされれば、ランダムに選ばれたソルバーの集団は個人で最高のソルバーからなる集団より良い出来を示す

 
 ヒッペルとか、ちょいちょい読み直しておもったけれど、ヒッペルの話って、はじめ読んだとき、「比較的、手堅いけど、なんか今ひとつ意外性のある話がすくないなー」とか思った記憶がある。しかし、この手のふわふわした話をある程度まで「手堅く」やってるの重要ね。ほんと。あと、146ページで、Jeppesen[2004]((Jeppesen, L.B. 2004 Profiting from Innovative User Communities. Working paper, Department of Industrial Economics and Strategy, Copenhagen Business School、なお、この話の日本版としては新清士[2008]「MODおよびオープンコミュニティについて調査」(財団法人デジタルコンテンツ協会『デジタルコンテンツ制作の先端技術応用に関する調査研究報告書』財団法人デジタルコンテンツ協会発行)などに詳しい

ジットレイン話の続き。この人は汎用品信者なんじゃ疑惑。


 ちなみに、さっきのジットレインの「生みだす力」のツールの例は、ゲーム/おもちゃ以外には次のようなものが挙げられている。












生みだす力が強い例生みだす力が弱い例
工具/建築ダクトテープ、金づちアンカーボルト、携帯用削岩機携帯用削岩機は解体作業で絶大な威力を発揮するが、それ以外の用途にはまず使えない。これに対して金づちはさまざまな用途に使える。順応性とアクセシビリティが高いほか、習熟性にも優れている。
四角いタオル模様タオル四角いタイルは、色違いのものを並べてさまざまなパターンが生みだせる。特殊な色と形をした模様タイルは、一定の組み合わせしかできない。
塗料転写印刷
キッチン用品ナイフポテト用ピーラーこのようなピーラーは作られた目的の食べ物にしか使えない。それに対してナイフは皮をむく以外にも使える柔軟性を持つとともに、料理以外にも使える順応性を備えている。
電気コンロポップアップ式トースターポップアップ式トースターは一般にパン焼き専用である。電気コンロはパンも焼けるし、その他の食品を加熱することもできる。
ヤカンコーヒーメーカーポッドと呼ばれるコーヒーマシンは消耗品もメーカー指定のものしか使えない。一般的なコーヒーメーカーもコーヒーしか淹れられない。それに対してヤカンはお湯をわかし、さまざまな種類の温かい飲み物を作ったり、オートミールやスープなどの食べ物に使ったりすることができる。
スポーツダンベルトレーニングマシントレーニングマシンは高価なものが多く、アクセシビリティが低い。一台のマシンで行える運動もマシンによって規定される。これに対してダンベルは組み合わせてさまざまな負荷の運動が行える。ただし、トレーニングマシンの方が安全であるし、特に初心者にとっては抵抗感が少ないと思われる。
料理/食べ物"ウォッカ
米、塩"
"ワインクーラー
スシ"
スシの方が高価であるため、アクセシビリティが低い。米と塩は主食であり、さまざまな料理と組み合わせて食べることができる。
コーン電子レンジ用ポップコーン


2chふうに表現すると、つまり

  • ナイフ>>>>>(超えられない壁)>>>>ピーラー
  • ヤカン>>>>>(超えられない壁)>>>>コーヒーメーカー
  • ダンベル>>>>>(超えられない壁)>>>>トレーニングマシン


 とかって、アナタ、どんだけ汎用品マンセーなんだって。


 ゲーマー的に言うと、この超絶汎用品マンセー的な姿勢っていうのは、けっこう微妙な話をはらんでいる。ジットレインの話だと、単なる紙とペンのほうが、塗る絵帳よりも、「生成力に優れた」ツールだ、ということになるわけだけれども、ツールの段階的デザイン・習熟速度の高い初歩的ツール、としては実は汎用品なんかよりも、専用品のほうがよっぽど使いやすくて、わかりやすい場合が多い。ここは、けっこうトレードオフ構造をはらみやすい。

 これについては最近読んだものから孫引きしてくると、佐伯胖が〈使いやすさ〉(=オハシ型)と〈わかりやすさ〉(=ナイフ・フォーク型)のトレードオフとして、まとめている。*1

 佐伯(佐伯1992a)は、わたしたちがインタフェースについて望むものには、〈オハシ型〉と〈ナイフ・フォーク型〉があるのではないかという問いを立てる。オハシ型/ナイフ・フォーク型というのは、もちろん食事をする時に使われる道具における代表的な二つのものである。では佐伯はそこに何を代表させているのか。それは、〈使いやすさ〉(=オハシ型)と〈わかりやすさ〉(=ナイフ・フォーク型)である。日本人にとって、オハシは明らかに使いやすいものであろう。オハシさえあれば、煮付けた大根を切ることもできれば、炊いたごはんを掴むこともできる。肉に向かって突き刺すような使い方もできる。しかし、「肉をキレイに切り分ける」や「アイスクリームを丁寧にすくい上げる」といった高度な動作までは保証しない。

 それに対して、豪華レストランのテーブルに並べられた多種多様なナイフとフォークは、習熟コストがかかる、複雑なものである。しかし、ひとたび覚えてさえしまえば、「まずどんなことをやってもできないことはない」ようなものになる。レストランのマナーをじっくりと学べば、長期的にはモトが取れるだろうという発想がここでは可能だ。


 もちろん、ジットレインは、汎用品と、習熟のしやすさが別々の指標として重要である、という視点には気づいているのだろうが、この人の文脈だと、習熟のしやすさ、よりもツールの汎用性のほうがだいぶ強く重み付けされているような印象を受ける。ここらへんは、洋ゲーマーが「ルナティック・ドーン最高!Oblivion最強!JRPGとか、カス!」とか言ってるような文脈に近い印象を受ける(笑)。


 また、特にコンピュータ・ゲームの、典型的な作り方として、Sandboxタイプのゲームを作るにせよ、当初のゲームのゴール設定みたいなことをやる、というのは常套手段だ。ゲームというのは、多くの場合、「ゲームである」ということそれ自体が、道具の使い方の状況設定をもつ。コスティキャン的に言えば、これがゲームgameとおもちゃtoyの違いだということになる。「おもちゃ」はそれを使用する目的を明確に与えられたとたんにgameになる、という。ジットレインの区分だと、toyの生成力の高さは認めても、toyをgameとしてあつかったとたんに、それは生成力が「低い」ということになってしまう。


 だけれどもgameという、状況を与えられるということは、ツールや状況へのコミットメントをブーストするという点において極めて大きな意味をもっている。ゲームとしての明確な構造を与えられれば与えられるほどに、ゲームへのコミットメントのしやすさは、上昇していく。明確なルール/フィードバック/努力可能な範囲の段階的な拡張…こういった、ゲームプレイヤーの状況に対する動機付けをうまく与える仕掛けは、道具の中に秘められた豊かさみたいなものを大きく花開かせることに貢献する。

 たとえば、単に「ナイフ」を与えられて「さぁ、使いなさい」と言われるよりも、「ナイフ」を与えられたあとに、よくデザインされたアナログゲームで、リンゴの皮むきから、千切り、輪切り、みじん切りといった使い方を覚えるチャンスを的確に与えられたプレイヤーのほうが、「ナイフ」に関わる微細な感覚を習得していく速度は極めてはやいだろう。ゲームとはそういうものなのだ。

 gameである、ということは、toyである、ということと大きく隔たっている。gameである、ということをいかに構築できるか、によって「生みだす力」のアーキテクチャの議論はまったく違う側面を見せることになる。


 そんなわけで、ジットレインは、「ゲーム」というものをわかってないなー、もー。ということを思ってしまったわけだけれども、こういう話は日本語圏では、すでに濱野くんとかが、ニコ動とかについてはある程度きちんと書いている。ツールアーキテクチャがゲーム的構造を持つ、ということが「生成力」についてのキーポイントである、ということは、ある種の前提として共有しておきたいなー、と。


 まあ、あと、ゲームとは、という問題だけじゃなくて、ここらへんの各要素のトレードオフみたいな部分は、もう少しきちんと論じられておきたいよね。とか、おもった。


 なんか、われながらひどく適当な文章をかきなぐってしまったけれど、あとで少し文体だけ修正しよう…

追記:2010/02/18 0:07 twitter経由で id:inflorescenciaさんと、stshnrhrさんにコメントもらった。上記のような、generativityの理解は大概にミスリーディング気味なんじゃないか、とのことです。申し訳ない…


http://twitter.com/inflorescencia

  • この文章を読んで、"generativity" に「生成力」や「生み出す力」という訳語があてられてしまったのは、かなりミスリーディングだという危惧が現実化してる気がしてきた
  • 私の理解するところでは、ジットレインのいう"generativity"は、魅力あるコンテンツがぽこぽこ生まれてくることやアプリケーション層の話だけをしているのではなく、より下位のレイヤに関する自由度と設計の話も、憲法的価値と絡めて提示している(たぶんエリクソンのとも違っている)
  • つまり、構築できることの多様さとか、コミットできる対象の豊富さを確保できること、プラットホームみたいに利用できるか否かの指標であって、その自由の領域で何かにコミットしたり設定を組み込んでいく自由を謳歌するのが目的となっている。
  • そして、この世では「ナイフ」は調理にも凶器にも手品にも使えるけれど、サイバースペースでは様々な用途のうち「凶器」を禁止するということが、コードと法によって可能であるということを提示したのがレッシグで、ジットレインはその問題意識を承継している。
  • 彼のいう"generativity"が「汎用」性の重視に見えるというのは、コードと法によって規制され、限定されてしまいがちな情報環境において(キャリアによる公式サイト・フィルタリング・ネットワークの中立性などと関連)、自由を残すとはどういうことかを考えているから。
  • というわけで、魅力あるコンテンツの土壌の話をするときに、"generativity" を「生成力」とか「生み出す力」と訳すのはいいのだろうけれど、ジットレインのいうところはもう少し広範。メインである自由のプラットフォーム的なニュアンスが零れおちてしまう点が心配。
  • お時間があるときに "A History of Online Gatekeeping" などを読まれると理解しやすいかと思います http://technewsreview.com.au/article.php?article=350

http://twitter.com/stshnrhr


  • ZIttrainのいうgenerativityというのは、自由で多様な生成を可能にするプラットフォームの性質のことなので、generativityの高さは、そこから優れた創造の連鎖が行われることやそれがプラットフォームとして成功することを必ずしも約束するものではないんだよね。
  • ある製品なりサービスのgenerativityが(相対的に)低くても、それを使って面白くて優れたコミュニケーションなり創作の連鎖が生み出されることは(創造の自由の幅が限定されているとはいえ)ありうるし、その製品なりサービスがビジネスとして成功を収めることも十分ありうるはず。
  • 逆に、ある製品なりサービスのgenerativityが(相対的に)高くても、それを使ったコミュニケーションや創作が盛り上がらずに、ビジネスとして失敗する可能性も十分あるはず。


 ということで、「ジットレインに対する批判としてはぜんぜん成立しないよ!」という、的確なツッコミをいただきました。

 こういうコメントを、書いた直後にさらっといただけるのはありがたいですね!

追記2:しかし…

 ヒッペルとジットレインを並べるというのは確かに、ミスリーディングな文脈を誘うけれど、

 しかし、ジットレインのXboxが「生む力generativityがない」という批判は、もちろん文脈はわかるけれど、ぼくの「ゲーム」概念理解の問題とは、やはりいろいろな意味でスレ違うのよね。批判はわかるけれど、そういう批判に対する対抗策もぼくとしては、そりゃ「ゲーム」だろう、的な発想になるからなあ…まあ、一周して言いたいことは同じなのかもしれない。 

 ナイフの例でいえば、「十徳ナイフ」と「最高級の中華包丁」のどちらをよしとするか。アフォーダンスの例としてしばしば引き合いに出される<椅子>で言えば、多種多様な座り方を支えてくれる「アーロンチェア」と、すわりごこちが本格派な「ソファ」。そして、それらの「使用目的の多様性」「使用方法の多様性」の問題の違いとかを考えてみるとよいのではないか、と…。

 あと、まあ、いろいろあるけれど、もうちょっとまとまったところで、きちんと書こう。

*1:高橋志行,2010,「状況への適応、不問、再編――意味論的転回以降における人工物と社会」一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻人間行動研究分野 2010年提出修士論文