Critique of Games メモと寸評

http://www.critiqueofgames.net の人のブログです。あんまり更新しません。

ダニエル・キング、ポール・デルファブロ『ゲーム障害 ゲーム依存の理解と治療・予防』(2020,福村出版)

下記は、ダニエル・キング&ポール・デルファブロ(2018)の翻訳についてのメモ。

 

 

 非常によく調べられていて勉強になる箇所と、センシティブであるべき論点について、説明が雑になってしまう記述が混じっている本ではあるが、基本的には、労力をかけて書かれた本である。このテーマについて興味があり、研究についてのある程度のリテラシーのある読者に対しては、他のリソースと併せて読むこと込みで、一読をおすすめする。他方で、特に統計的な処理を伴う研究を行ったことがあまりない読者や、あまり注意深く読むつもりのない読者に対しては、あまりおすすめしない。

以下、「#」から先は内容紹介ではなく、私のコメント。IGDはInternet Gaming Disorder(インターネットゲーム障害)の略である。

■特筆すべき点

本書の良い点はかなり多い。いくつか挙げる。

  • 多数の研究についてのメタ研究を行っている点が挙げられる。これは、本書全体を通しての極めて優れた点である。#この水準の本を「まったく科学的な手続きに則っていない」本だとは私は思わない。もちろん、ツッコみたいところはたくさんある
  • まず、第二章では、複数のモデルの比較を行っている.Davis 2001のPIUのモデル、Dong & Potenza 2014のIGDのモデル、Brand et al., 2016のI-PACEモデルを紹介している#私もI-PACEモデルは因子レベルでは、重要な因子をかなり挙げられているとは思う。Dong & Potenzaのモデルは、比較的素朴な報酬系のモデルという感じだが、Brand et al., 2016は、社会的サポートや、生得的な因子等も組み込まれている。もっとも「個人の中核的特性」という潜在変数の設定については、今後仮説の更新はありうるだろう。
  • p69「ゲームはそもそも不健康な活動ではなく、先に述べたような利点のある活動なのである(Przyhbylski, Weinstein, & Murayama, 2016)」など、ゲームを遊ぶことの全体を問題としているわけではないことは繰り返し記述されている。
  • 第三章では、ゲーム障害に関わる多数の因子が細かく記述されている。
  • 第四章は、ゲーム障害の特徴ギャンブル障害と、ゲーム障害では病気の機序がかなり違っていることについて述べている。ゲーマーは金銭にこだわったり、運による勝利という点について興味を抱かないことが多いと整理されている。
  • 第五章は、重要な議論をしている。明確なゲーム障害のガイドラインによって偽陽性の診断がくだる率は上昇するのではなく、いい加減な診断されるよりも偽陽性は減るのではないかという指摘がある。これは重要な指摘ではある。
  • 第六章は、事例定式化ということで、IGDが対象としている患者の典型例がいくつか示されている。この点については、世間的なーー新聞レベルの雑なゲーム障害への報道レベルーーと、IGDの想定する「患者」の差を明確に示している箇所であり、ただの「長時間ゲームをやっているだけの子供」とのIGDの想定事例の違いみたいなのは、ここを読んでくれればわかるだろうと思う。抑うつ状態で、自尊心が低く、認知の偏りが強くあり、社会的な孤立感のある状態で……そこにゲームをやりつづけている状態というようなのが入り込んでいるケースが想定されている。 
     また、p161で、認知行動療法(CBT)がおそらく有効と思われる可能性を示しつつ、その証拠については「依然として充分とは言えない」と注意深い言及がなされている。
  • 第七章は、臨床家にとっては、もっとも重要な章だと言えるだろう。Young(1998)の剥奪的な治療に対する、適度なツッコミもある(p202)。
     そして、RCTの行いにくさについて実感を込めて論じている(#これは事情がよくわかる)。
     また、現在のIGD研究の問題点を挙げている点は有益な指摘である。「多くのIGD治療研究には、基本的なデザインの欠陥が見られる。その改善策として、次の4つを挙げることができる。(1)追跡調査の期間を1か月から3~6月に延長する(2)症状スコアの平均値の差ではなく、診断に関する(つまり臨床的な)変化の評価を組み入れる、(3)より広範囲に及ぶ治療アウトカム(生活の質など)の評価と、CBT研究での認知評価を行う(King & Delfabbro, 2014を参照)、(4)社会的変化や環境的変化など、治療後の適応状況を調査する。また、臨床試験に登録することにより、事前にアウトカムの評価方法を定義して、報告バイアスの発生を抑える必要がある」(p191)
     治療法としては、心理教育(ゲーム使用の標準化など)、個人にあわせた治療の実施、行動アプローチ(自己モニタリング、活動スケジュール法、随伴性マネジメント、暴露反応妨害法)、認知アプローチ(ソクラテス式問答法、日常思考の記録)などが紹介されているが、この章の結論としては、「臨床試験で最もよく用いられているCBTを含め、IGD治療の「ゴールドスタンダード」はいまだ存在しないということである」(p214)と結ばれている。
  • 第八章は予防について述べられている。ほとんどの人は「安全な」レベルでのゲームプレイにとどまっていることをきちんと確認(p220)した上で、少数の問題のあるプレイヤーがいることを述べる。それは、Fergusonら2011でゲーム人口の3%、Przybylski2016でゲーム人口の0.5%~1%として紹介されている。そして、IGDの発生リスクをさげるためには(単一の手法ではなく)「複数のシステム(家族、知人のネットワーク、教育など)が協力して断続的に取り組む必要があるということである(Chambers, Tayloar & Potenza, 2003)」としている。そして、残念ながら、予防についての研究は、介入実験として充分なものはほとんどないことが述べられる。一件、RCTと言える研究としてWalther et al., 2014が挙げられるが、複数の研究を横断的に評価しても、予防プログラムの効果について一貫した効果は充分には観察できるとは言えない状況だという。
     この章の終わりに、このような研究状況を前進させるための前向きな提言がなされている(p253)に、ゲーム業界との産学連携で、「(1)ユーザー行動の共有(2)調査を目的としたユーザーへの連絡と、ユーザーアカウント情報との照合。(3)ゲーム内での安全対策の施行(ポップアップ通知など)(4)ゲーム内機能の心理的影響の調査(5)開発中のゲームのデザインとテストに関する研究者との協議」の5点が挙げられている。
  • 第九章では、反論者として、Ferguson et al., 2011のメタアナリシスや、 Przybylski et al.,2016については本書の著者らも高く評価をしている。Fergusonや、Przybylski らの議論あたりが、議論可能な経路として示されているのは有益な態度の開示と言えるだろう。

 

■問題のある点、論争的な点

下記はほぼ、私(井上)のコメントである。

  • p57で紹介されている Kardefelt-Winther(2014)の「補償モデル」あたりの議論に対して、筆者らは反論している。 Kardefelt-Wintherらは、「病的」という概念を否定し、問題のある行動嗜癖に対する提案を行っている。Kardefelt-Wintherらの議論に対しては一定の評価を下しつつも、Kardefelt-Winterらのモデルについては 1.定義の範囲が広すぎること 2.臨床的に意味のある弁別性のあるモデルになっていないことから退けている。この点については、5章で詳しく論じられているので、後述。
  • 全体に注意深く書かれている箇所のほうが多いのだが、第三章での多数のゲーム障害に関わる因子の紹介のされ方が、しばしば媒介変数や、同時性を考慮しないような記述になっている。#これは正直、記述の仕方として残念である。せっかく二章では、Brand et al ., 2016のような、パス解析的な関係図を用いた説明を紹介し、他にも階層的な分析を多数紹介している箇所が多いのに、ところどころ、雑な説明になっている。具体的に言うと、たとえばp75の記述だけ読むとかなり問題がある。「低い自尊感情は、アイデンティティとグループへの帰属欲求を満たすための過剰なオンラインゲーム使用につながる危険因子になりうる。」というだけで説明が終わっているが、こう読むと、オンラインゲームはコーピングの手段としての価値が一切ないかのように読めてしまうが、このコーピングとしてのゲームをどのように評価するか/しないのかについての議論はかなり離れたところにいくつか分散した形で記述が見られる(例えば、p192などでは、「コントロールされたゲーム使用」を一つの治療の目的とすることを検討している)。研究者向けの書籍としては、これでも良いが、一般の人も一応想定していると冒頭にうたっているので、こういった記述はせめて、関連する記述を注で参照できるようにするなど、丁寧に行ってほしいと思う(3章全体のまとめをしているp86-87の記述などは、概ね注意深い記述になっていると思うが)。
  • 第四章 p109の表4.1に関わる話は、丁寧なレビューをしたということはわかったのだが、著者らの主張しようとしている内容が単純によくわからない。
     同じく第四章の「図4.1 禁ゲームの後に見られた、ゲーム使用に関連する信念の弱化」(p115)という図表説明あたりも、本文を注意深くよめば、誤解はないのだが、図表名の付け方などにもっと注意を払ってもらいたい。紹介されている King et al. 2017では、<本人の同意のもと>ゲームを絶ったという9人の被験者とそれ以外の被験者を比較実験して、ゲーム断ちをすることでゲームに対する認知の偏りが変化したということを示している研究である。しかしだが、図表の記述を短絡的に読むとだ、雑にゲームを取り上げるような剥奪型の治療が臨床的に有効であるかのような誤解を与えかねない。
  • 第五章p123の「「偽陽性」の出る確率は低下するのではないだろうか。優れた臨床家であっても間違えることはあるが、基準を満たしていない事例に疾患を押し付けるケースはあまり見られない(Saunders et al., 2017)」あたりの話は、評価が難しい。私は基本的には、多数の診断基準が乱立しているよりは、統一されたほうがいいという主張には賛成している(そうでないと研究がすすまない、というのはよくわかる)。しかし、Ferguson(2017)などでは、これに対立する結果が出されており、この論点については、著者らはより強い証拠を示す必要があるだろう。
  • 第八章の予防の話は、予防について充分な研究結果がないと認めているのは重要な論点だろう。予防について充分な研究結果がない、というのなら、やはり、ゲーム障害をめぐるモラル・パニックとの間のトレードオフを考慮しつつ、予防措置は過剰にならないように慎重に実施されるべきという論点がもっと検討されてよいだろう。
  • 第九章、pp263-266あたりで、Aarsethら(2016)などの「ゲーム障害の概念は、モラル・パニックを引き起こしているのではないか」という主張に対しては、充分な証拠が示されていない(p264)と反論している。だが、そのすぐ後にp269あたりで、Ferguson(2015)や、Ferguson&Colwell(2017)において、専門家の予測が、エビデンスによらないゲームに対する否定的バイアスをもちうること(つまり、ゲームの経験がない年長者はゲームに対してネガティブ)などを紹介していて、証拠がないと先程言っていたのは、何なんだという感じがある。その後にFergusonらの議論について「特筆に値する興味深い発見を含んでいるが、これらの結果だけで、IGDに関する研究や臨床実験に固有の体系的バイアスを示す証拠になるとは限らない。ゲーム使用に対する否定的な態度が強硬であっても、それが常に、臨床家と研究者の客観性を保とうとする意欲や能力、あるいはそれに関連する修練や行動規範を無効にするわけではない」(p269)と、Fergusonらの議論について論評しているが、この論評は正直、肯定しがたい。確かに、いままでのIGDに関する研究を全て無効にするとまでは言えないかもしれない。しかし、この論評はFergusonらの議論を過小評価しすぎだろう。順当に考えたら、Fergusonらの研究について「否定的なバイアスが成立するメカニズムを解明し、否定的なバイアスによって過剰診断されてしまいかねないケースをきちんと除外していく必要があるだろう」と結ぶのならば、まあ順当だと思うが、本書の著者らのこの態度は、自分の立場を正当化するための強弁と受け取られかねない記述であるように思う。これは単に不注意というよりも、不誠実な主張の組み立てだろう。(これで、Fergusonを紹介すらしていなかったら、cherry pickingだと思うが、Fergusonにきちんと言及しているのは、評価されるべきだろうとも思う)
  • なお、モラル・パニックについては、正直なところ、我が国における香川県の事例とか、モラル・パニックなのでは……?としか思えない。アルコール依存などと比べても、まあ社会的な「誤解」の状況は我が国でデータをとっても示すことができるだろう。

 
 以上、本書は首肯しかねる点もあるのだが、ゲーム障害について根拠が不十分である点については、根拠が不十分であることを積極的に認め、今後の研究の前進のための前向きな議論をしている研究書である。私にとっても、傾聴すべき指摘も決して少なくない。こういった研究者を香川県の条例と同列に扱ってしまうような批判には、私は賛同しない。
 この論点は、非常に論文が多くなっているため、議論の全体像をつかむのが、難しくなってきており、こういう本の存在は、たとえ同意できない主張がいくつかあったとしても貴重なものであり、著者らの姿勢に敬意を表したいと思う。

 

追記 2020-12-29:

本書への重要な反論をしていく戦略は、概ね2点になるのかな、というように思う。

 

(1)一つは、「ゲーム障害」「インターネットゲーム障害」の概念を持ち出さなくとも、臨床的に意味のある診断はできるだろうという基準を提示し、それを今よりもさらに実証的に示すことになる。Kardefelt-Winther 2014*1の目指す方向性に近い。現状でも、「ゲーム障害のような概念を作らなくても、問題のあるゲーム行動を招く、そもそもの因子になっているのは、心理的なストレスや社会的なサポートがないといったような要因のほうなのでは」みたいなことを示す実証研究はある (例:「問題のあるオンラインゲーム使用のうち使用時間などネット使用に関するもので説明できるのは2%程度と軽微 - 井出草平の研究ノート」)。こういったデータは充分、反例になっていると思うのだが、基本的には、本書(Daniel &Paul 2018)はこういうところの評価がやたら渋い。Daniel & Paul側の反論である「じゃあ、<ゲーム>に関わる質問項目をなしで、現場で使える尺度を提示してくれ」という要求は、言いたいことはわかる。ただ、これは、ほとんど行動依存そのものの研究のブレイクスルーをつくってくれみたいな、要求なので、えらく話をでかいところにもってこられたな、という感があるが、こういうことを言い出したら、この話はとても長い話になってしまうが、数十年ごしの論争案件だよなあ、という感じがする。

 そして、そういう研究は、依存症に関わる臨床の現場と深い関係のある医療関係者でなければ、実施の難しいタイプの研究になるだろう。国内で言えば、依存症の拠点病院の医師と、データの判別モデルなどに詳しい研究者が連携することで何らかの成果は出るだろうが、複数の信頼のできるRCTが世界各国で行われて、システマティックレビューも含めて、話を覆さなければ、納得されなさそうな話なので、まあ、長くかかる話である。行為依存の研究の全体が進展していくなかで、ゲーム障害の議論も影響を受けていくのだろうが、行為依存の研究全体をすすめてくれ、という感触が個人的には強い。行為依存の研究の枠組みがもう少しすすんだ段階で、「ゲーム」に関わる評価があらためて位置づけなおされることを望みたい。

 

(2)もう一つは、いわゆるスティグマとか、レイベリングに関わる話で、文中だと、Ferguson 2017 などが触れられていた*2

レイベリング効果みたいなタイプの社会的な再帰性の測定というのは、あまり詳しくないが、ある程度の効果の提示・推論まではできても、強い比較調査が難しいタイプの領域だろうと思う。前向き研究はかなり厳しいし、後ろ向きの因果推論をどこまでやれるのか……という話だろうと思う。

 

ちなみに下記はFergusonの本。買っておこう……。

www.amazon.com

 

 

 「この程度のデータでは弱い」とか言い始めたら、いくらデータを出しても水掛け論になってしまうと思うが、そうやって、着地点がなくなってきているのがこの論点の現状だよなあ、という気がする。

 <真実希求のための科学的プロセス>という意味では、このプロセスは正常だと思うのだが、他方で<意志決定のための「エビデンス」>としてのデータの扱いというのは、学問的プロセスとは違うところがある。とにかく何かを決定しようというインセンティブが強い人々が大量にいる状況だと「弱いエビデンス」で言い合う論争になってしまう不毛な状況が招かれてしまう。

 Daniel & Paul 2018は、このような状況のなかで「より強いエビデンス」を提示しようという強い意志を感じられる内容もっていて、そこは本当に立派なことだと思う。……のだが、主張の一貫性を保持するために「現時点で意味のあるエビデンス」を過小評価しかねない言説をいくらかばらまいてしまっている感があり、そこのところは、なんだか党派的な発言に聞こえてしまって残念だなあ……という感触がある。まあ、対立的な立場をちょい過小評価すれば、主張はクリアになるんだが、それでいいのか、という……。

*1:Kardefelt-Winther, D. (2014). A conceptual and methodological critique of internet addiction research: Towards a model of compensatory internet use. Computers in Human Behavior, 31, 351-354.

*2:Ferguson, C. J., & Colwell, J. (2017). Understanding why scholars hold different views on the influences of video games on public health. Journal of Communication, 67(3), 305-327.

私の査読の書き方メモ(人文・社会科学)

 査読の書き方について書いている記事というのが、ネットを探してもあまり、情報量が多くないので、個人的にこころがけている程度のことを書いておく。

 特に、この書き方を守るべきだとか、そういうわけではない。個人的なメモ程度のものだと思ってお読みいただきたい。(なお、国際的なトップジャーナルの査読とかは、下記の基準とは全く違うだろうと思う。)

 

 

そもそも自分が査読を引き受けるかどうかを決めるポイント

・査読を引き受けるかどうかの判断は非常に重要。

・査読を依頼してきた編集委員の人が、適切でない査読者に割り振ることはよくあるので、査読を引き受ける際に、(1)自分が適切な査読者ではないと感じた場合、もしくは(2)示された期限内に査読を返すのが困難である場合は、なるべくすぐに査読を引き受けられない旨を伝えること。「捜査における初動がだいじ」みたいなところで、引き受けるかどうかの判断はとても重要。

・とはいえ、自分のジャストの分野そのものというより、「まあ、知らんわけではない分野」ぐらいの専門のお隣ぐらいの査読依頼が来ることも多い。その場合の基準として、「これだったらXXさんに査読してもらうのが良いのでは?」と思ったら、その誰かを推薦して、自分は辞退する。

・また、ダメ出しはできるが、方法論的に内容を良くするコメントをあまり思いつきそうにないときも、なるべく辞退する。

・「自分が査読するのが一番いいかどうかは正直わからないけど、じゃあ誰が推薦できるかというと難しいな………。まあ、自分が査読するのは、まあ、マシな選択肢の一つかもな……」と思えたら、査読を引き受ける

 

書く前に

・該当の論文誌の査読ポリシーを確認しておく。院生のゆるめの論文でOKなのか、それともキツめの線引きなのか。

・読みながら、気になったところは、ページ数、指摘等のコメントをまとめておく。(あとで、査読フォーマットの指定する項目別にコメントは振り分ける)

・正直、「再録可」「微細な修正の上再録」の論文は、査読コメントをあまり気にしなくてもよい。問題は「大幅な修正」と「リジェクト」である。

・「大幅な修正」にしたときに、査読者と執筆者の双方が地獄を見ることがある。特に、学際系の学会誌だと、査読者と執筆者の間にディシプリンの違いがある場合は、単純にうまくコミュニケーションがとれないことがある。そうなるとお互い地獄なので、なるべく丁寧に、早めにリジェクトをお送りするのが結局一番いいと思う。

 

<「リジェクト」と、「大幅な修正」の分水嶺

 リジェクト基準は「2回め以後のやりとりでこの論文を、なんとか著者と一緒にパスところまで、もっていくことができそうだと思えるかどうか」だと思う。

 より具体的にいえば、なんとかいけそうだと思える「大幅な修正」にあたるのは下記

  • データのとり方をちょっと直せばいけそう(ちょっと不安だけど……)
  • 分析手法を変えるなり、分析手法に誤解がある部分を修正してくれればいけそう
  • 結論と前提の主張を調整すれば、論文の骨格を変えなくても良さそう
  • 論理展開の微調整(脇の甘い箇所の論点を追加、補うといった程度。具体的に読むべきものの読むべき箇所が指定できるとなお良し)

 こういうレベルの話は「大幅な修正」の中ではかなりラクなほうだと思うし、まあ、いけるんじゃないかと思う。

 だが、次のようなのは、「2、3回目以後のやりとりでなんとかなる」ということがない可能性が高いと判断している。

  • 序盤の研究の基本設計からしてだめ →査読では面倒見きれないから、指導教官に頼って!としか言えない。リジェクト。
  • 前提となる理論がぜんぜん抑えられていない →少なくともあと半年はテーマを絞って勉強して!それから再投稿をたのむ!すまんがリジェクト。
  • 論文の重要な論理展開に致命的な問題が2点以上ある →片方がなんとかなっても、2点目以降が直るのはいつになるのか目処がつかない……指導教官に頼って!……ということでリジェクト。

<「大幅な修正」で引受けてよいと思えるライン>

  • 明確に論文として世に出すことの意義が明確なポイントが一つ以上ある。なんだったら、その他の問題となる箇所は全部削ってもらえば、論文としての形式が成り立つ。
  • 論文の全体的な内容から、研究者として明確に一定のトレーニングを受けているであることが推測され、具体的に指摘すれば、きちんと修正されたものが返ってくるであろうという期待がもてる。(論文のテーマや手法上、本来、期待されるべき専門性を見につけていない著者あるいは査読者の場合、査読コメントのやりとりで、トンチンカンな答えがかえってきがちなので、そういう人とやりとりするのは、お互いに疲弊しがち)
  • 2回め以後のやりとりで、致命的な箇所が直っているかどうかをきちんと議論できる明確な修正基準を、こちらから示すことができる。(基本的に、2回目以後の査読で条件の後付けはできないので。)

 

書くこと

1.まずは投稿者に対して感謝の念を述べる。

2.問題意識として共有できる点をのべ、そのほか、高く評価できる点を可能な限り述べる

3.問題点を具体的に指摘する。

 A.再録条件:確実に修正が必要と思われる点 ※でかいやつが2点も3点もあるようならリジェクト

 B.参考意見1:論争的なポイントなので、言及に注意を要する点 ※まあ、手を入れてもらったほうがいいだろうが、本人に強い意見があるなら、まあ放置でも可。 

 C.参考意見2:事務的な修正(書式、誤字脱字など) 

 

<大幅な修正>

  • 明確な修正基準を伝える。
  • 可能なら、「一緒に論文をよくしていけると嬉しいです」ぐらいの挨拶があってもよいように思う。
  • また、論文の「良い点」について、改めて強調する。

<リジェクト>

  • 明確なリジェクト理由。
  • 加えて、できれば、(あくまで参考意見として)「どのような研究活動つづけたら、論文として、評価可能なものに発展する可能性があるか」を伝える。
  • 論文(というか、問題意識)の「良い点」について、改めて強調する。

 

その他のポイント

  • 二回目の査読で大きな新しい論点の指摘は可能な限りすべきではない:特に「大幅な修正」をおねがいする場合が面倒なのだが、一回目の査読でクリティカルな大きなポイントは可能な限り「全て」指摘するようにこころがけたほうがよい。なぜなら、二回目以後の修正のタイミングで、大きな修正を指摘する場合、査読・修正のプロセスがどこまで続くのか先が見えない状態に陥る可能性があり、査読者・執筆者双方に関係性が悪化する可能性があるためである。その点を考慮すると、二回目以後の修正で新たな「大きな論点」が発生しそうな著者の場合は、リジェクトしたほうがよいというところはあるが、論文の根本的な書き直しを含めて、二回目でさらに新たな大きな指摘をせざるをえない可能性が高い場合は、一回目のコメントのなかで、その可能性があることを予め著者に伝えるという手もあるだろう(個人的には、そういうケースは、最初の段階でリジェクトしたほうがいいとは思う)。
  • 厳しくしすぎないポイント:私自身もそうだったのだが、「はじめての査読」をする場合、だいたいの場合、そこまで格の高いジャーナルでないことが多いと思う。しかし、博士課程を出たばかりの査読者に一般に言えることとして、かなり厳しめの査読をすることが多い(自分が厳しく言われてきたばかりだし、まあ仕方ない)。もちろん、ジャーナルによっては、ある程度ゆるくしても良いポイントというのがある場合が多い。たとえば、論文著者が「実証した」という強い主張をしているが、実際には「まあ、探索的研究としては、おもしろい議論かな」ぐらいの話は多い。そういった場合に、リジェクトをするのではなく、結論の主張を少し後退させてもらったりすることで、書き直してもらう方向にすることは多い。もちろん、ここらへんの基準はジャーナルによってそこそこ変わるので、それまでのジャーナルの掲載論文の方向性を見たり、論文の編集委員の先生に尋ねることで、確認すると良い。

参考

早川智. (2019). 査読の作法. 日大医学雑誌, 78(4), 207-211.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/numa/78/4/78_207/_pdf

 

渡辺博芳、情報処理学会「査読を依頼されたら─より良い査読報告書の書き方─」

https://www.ipsj.or.jp/magazine/9faeag000000yx8j-att/6101ronbun.pdf

 

Chad Musick, PhD, and Caryn Jones「効果的な査読(ピア・レビュー)を行うには」ThinkSCIENCE株式会社|英文校正・学術論文翻訳

 

阿部幸大,2020,

アートとしての論文 人文系の院生が査読を通すためのドリル - Write off the grid. (hatenablog.com)

 

因果効果の推定は、創発的現象の機序の解明に寄与するのか?

学生と話していて、混乱を生みがちなポイントだと思ったので、メモ。

 

1.統計的にそれなりにきちんとした手続きを踏んで、因果効果が推定できることと、

2.創発的現象の機序を明らかにすること

 の間には、ダイレクトな関係はない。あたりまえだけれども。

 RCTなり何なりの話というのは、あくまで帰納的に因果効果を推定することであって、それは、創発的現象(ここでは、弱い創発主義的な立場を想定している)の機序を直接的にあきらかにするわけではない。それはRCTがいかに強い因果効果の推定をしえたとしても、機序の問題はやはり、理論的なモデルをたてないと無理である。

 

  • 「AとBが組み合わさった時に新しい性質Xが付与されるか」(創発)という説明と、
  • 「Aに対して、Bという介入があったときに、Aに変化Xが発生するか」(因果効果)という説明

 の2つの違いの話なので、正直、けっこう混乱を生む話だよな、とも思う。まあ、「変化X」が新しい特性として生まれるものなのか、それとも、単なる新たな特性の獲得ではない単なる「変化」なのか。

 

 参照先があれば、下記にメモする。

 

 

Kim の定式化(Kim 1999, pp. 20-22)

 

 

余談:

RCTといえば、ランダム化比較試験 RCT:Randomized Controlled Trialだろうと、思っていたが、ぐぐっていて気がついたが、合理的選択理論 Rational Choice TheoryもRCTなんだな……。

 

 

久保明教『機械カニバリズム』、東浩紀『哲学の誤配』

 

 

 どちらの本も、ゲームをめぐる議論がかなり全体の議論をめぐる骨格部分で重要なものとなっている。

 

1.

 久保,2018は基本的には、将棋の電脳戦について書かれた本である。つまみ読みをした範囲だと、理論的には、技術決定論と技術の社会的構成論を止揚するものとしてのサイボーグ論、みたいな議論に近いタイプの話のような印象をうける。大筋の議論も興味深いが、、特に第5章の「強さとは何か」は、個人的にもかなり関心と重なるところが大きい。(ただ、人類学内部の細かな議論は、正直なはなし、原典を読んでいないので、細かく検討する能力は私にはない)

 

  • きちんと読み込めていないだけかもしれないが、「技術決定論 vs 社会構成論」的な構図で話をしているのは若干気になった。たとえば、綾部(2006)などでは、社会構成論は、社会決定論とは言い切れず、中間的な側面があるよね、という話がされている。

 

ref:

綾部 広則, 技術の社会的構成とは何か, 赤門マネジメント・レビュー, 2006, 5 巻, 1 号, p. 1-18,

https://www.jstage.jst.go.jp/article/amr/5/1/5_050101/_article/-char/ja/

 

 

 東,2020は、特に後半で出てくるリオタールについの講演パートで、物語に関係する概念として「ゲーム」の概念を重要なものとしておいている。ここで言われているゲーム概念は、やや細かな検討を要する点もあるが、魅力的な問題提起がなされている。

 p149で、ゲームの成立のために「観客が必要」と論じているあたりは面白い。

 「観客」(の期待)みたいなものに重要性を見出すという場合、ここで言う「ゲーム」はある意味で、ショーとして機能しうるゲームなので、ゲームの中でもデジタルゲームのようなものとは、やや異なるタイプの「ゲーム」概念を前提にしていると見たほうが良さそうである。

 デジタルゲームの場合は、「審判」としてソースコードが機能して、文字通りの意味での「観客」は必ずしも必要ない(自分が「観客」を兼ねる)。デジタルゲームというのがすごかったことの一つは、桝山さんも言う通り「一人でできる」ことだった。観客というシステムから、切り離されてlaborに近いゲームを大量発生させることに成功したのが、デジタル化されたゲームであり、比較的、実現のしやすいゲーミフィケーションである(ref:uber eat)。

 本書を読みつつ、自動化された審判ではなく「観客」を必要とするゲームのことは、やはり別の呼び名が必要だろうという気がした。誰かがすでに名付けているかも知れないが、たとえば「ショーゲーム」とでも名付ければいいだろうか?二人遊びでも、審判でもなく、観客の期待によって続行することを期待されるようなゲームであり、観客とプレイヤーが相補的な関係にあるゲームというものをどこまで普遍化可能な「ゲーム」概念の内側に入り込ませることが可能かを考えてみたほうが良さそうだ。

 

 また、エコーチェンバーやフィルターバブルが小さな物語であって、ゲームではないという議論などは、魅力的な文だと思うが、論理構造はちょっと追えなかった。

 

 双方の本について、どこかで少し時間をつくってもう少し詰めた議論をしたいところだ。

 

 

 また、一応、備忘録的に書いておくと、ゲンロン vol.8と、ゲンロン vol.9の他に、ゲンロン vol.7でも実は、ゲームについての話がなされている。

 

 

 

 

尾原和啓,2020『ネットビジネス進化論』NHK出版

 

 尾原さんの新著。

 尾原さんの本を読むのは、『ITビジネスの原理』『アフターデジタル』につづいて三冊目。

 『ITビジネスの原理』と同じく、 なぜ、Googleのビジネスモデルが強いのか、といったようなある意味で、IT業界の関係者であれば、当然わかっているであろう内容を、(1)基本的なことからしっかりと (2)なるべくITビジネス全般を網羅的に 示そうとした、「ITビジネスの教科書」とも言える内容。前著よりも、内容がアップデートされると同時に、ページ数も増えている。

 実業の人の本なので、学者の書く本よりも、基本的にエピソードベースであり、わかりやすい内容。

 もっとも、学者的な観点から言えば、記述が柔らかすぎるという評価もありうる。たとえば、インターネットと経済というようなものであれば、実積寿也『通信産業の経済学』や、ジャン・ティロール『良き社会のための経済学』の第14章~16章あたりなど、しっかりとした学者による知見は徐々につみかさなっており、そういった本の方が、たとえば大学のテキストにするには向いている。ただ、、インターネット関連ビジネスの論点は経済・経営学的な議論もあれば、情報工学的なものまで拡がっているおり、学者が書こうとするとどうしても、一人の研究者が書ける内容ではなくなる。学者が書くと、この内容はどうしても複数人が手分けして書いた教科書のようなものにならざるを得ない。学者による教科書的な本のなかでしっかりと論じられている内容というのは、どうしてもトピックの網羅性という点だと、現場の第一線に近い人よりも論じられている内容のひろがりに限界があるという問題もある。

 そういったことを「現場の第一線に近いところにいる人が書いた教科書」というのは、単純に意義があるといっていい。

 インターネットのビジネスモデルの基本的なことをわかっていない人が最初に手に取る一冊としては、おすすめできる本だと思う。

 

 #上にも書いたが、この本を読んで、次にすすむべき、より学者めいた情報通信産業の教科書としては次の本がおすすめできると思う。

 

 

 

 

植原亮 2020,『思考力改善ドリル』:大学生向けの教科書として使いやすい内容。

ご恵投いただいた。感謝。

植原さんとは、関西大学総合情報学部に勤務していたときにお世話になり、何度かお話したが、哲学と認知科学の両方に興味がまたがっているという点で実は、けっこう興味がかぶる方だということがわかり、仲良くさせていただいた。

 

この本の中身は、哲学の本というよりは、タイトルのとおり、科学リテラシー育成のためのドリルという感じで、いわゆる「学問的な思考」みたいな頭の使い方をしたことがあまりないという学生向けに、考えてもらうとちょうど面白そうな問が、100問以上つまっており、研究の初歩みたいなことを考えてもらう上でも、役にたちそうな問がたくさんある。

 

 追記:この本の内容をnocobonみたいな感じにして学生に問いてもらえないだろうか?