#ネタバレを含みます
- 話題になっていたので読んだが、たしかにこれはクズいなと言われているのはよくわかった。いろいろと酷い。
- ネット上だと『闇金ウシジマくん』と比較しての議論が多いが、『じゃりン子チエ』のテツや、『こち亀』の両津勘吉と比較して個人的には読んだ。
- 『じゃりン子チエ』の場合、「ろくでもないクズ」とされがちな人間に対するポジティブな読み替えが何重にも計られていて、あれはかなり「クズ」に対する救いのある話であるし、じゃりン子チエのテツは連ちゃんパパと比べると相対的にはかなりマシだろう。現実には、かなりヤバいタイプの人物だとも思うのだが、連ちゃんパパに比べれば子供に対する愛情表現もわかりやすいし、レイプとかもしない。
- 一方で、『連ちゃんパパ』は、まあ、だいたい救いがない。ただ、それでもパチンコ依存症の人に対するポジティブな読み替えがまったくないかというと、そういうわけでもなく、そこのところは、いくらか部分的にはなされている。基本的には「だいぶ酷いクズ」なのだが、それでも、そこには希望をもつことが可能なエピソードがいくつか挟まれている。これは、「クズの物語」のなかで見られる救いであると同時に「あの人本当はやさしいのよ」的な、いわゆる「共依存」とか「イネイブラー」系の概念を導くタイプの話でもある。息子の浩司くんは、ACの息子だが、これが連チャンパパの息子ではなく、DVされている妻か何かだったら、これは「クズに居場所を与えてしまう物語」として読まれただろうな、という気がする。(つまり、倉田真由美の『だめんず・うぉ~か~』にしばしば出てくるような女性たちとかを想像するとよい)
- ただし、それを「クズに居場所を与えてしまう」ことは単に断罪すればいいわけでもなく、「酷いクズ」の中にのこっている優しさや善意は、やはりそれでも最後に残る人間に対するギリギリの希望のようなところがあり、そこのところを「共依存」とか「イネイブラー」的な概念と類似のロジックで否定するのもなあ、という難しい側面を語っている物語であるようにも思えた。
- 暴力金融の借金取りのおっさんと、浩司くんがいなかったら、確実にこのパパはさらに酷いクズになっているわけで、わずかに残る善意は周囲の人間からの善意を期待するまなざしによってわずかに支えられている。浩司くんいなかったら、この人はどこまで堕ちるのか、底が知れない。
- 「クズをどう救い出すか」というのが難しい話だよな、ということをしみじみと思う。
- 『こち亀』の両津勘吉を思い出したのは、あまり説明はいらない気はするが、まあ、両津勘吉も、コメディタッチで書かれているものの、あれがギャグ漫画でなければ、両津勘吉も大概なクズのおっさんでありうるわけで、両津を「下町にいる、愛すべき優秀なこまったおじさん」ぐらいのトーンで描き続け、しかもこれだけ長くメジャーな影響力を保てている『こち亀』というのは、本当にすごいマンガだなあと思う。『こち亀』の両さんも、ヒドいことはいろいろとやっているが、まあ、あんまり陰湿なのとかはない(ハズ)
- 「クズ」に対して、ステレオタイプとしての「クズ」ではなくて、「愛すべき困った人」という枠組みで対応しようとしているのが『こち亀』や『じゃりン子チエ』といったマンガである(ある意味、『ドラえもん』ののび太くんなんかも広い意味では同じ)。ただ「愛すべき困った人」という眼差しで、回収可能な範囲の限界を突きつけてくる試練を与えてくるような話が、この「連ちゃんパパ」だと思う。
- そのような側面、つまり、この作品が単にエグい作品だということではなく、主人公の連ちゃんパパが「唾棄すべき人物」でありながらも、なお僅かながらも「愛すべき側面」があるという描写があることを考え合わせると、この作品がなぜ、コミカルな絵柄であるのかということも理解可能なように思う。もちろん、作者の人の絵柄がこれしかないから、というどうしようもない理由もありうるのだろう。しかし、単にそういう問題だけでもなかろう。「コボちゃんの絵柄でウシジマくんなのが、むしろエグい」というタイプの感想もわかるが、これは、単にエグいということを狙っていたというよりも、「愛すべき側面」が僅かにでも残っているからこそ、この絵柄を維持する意味はあるのだろうと思う。
- 敬虔なクリスチャンの家庭が、一時期、連ちゃんパパをいかにして受け入れうるかというところで、ご苦労をされる話がでてくるが、私は多分あのクリスチャンのご家庭の方が感じたであろう苦労みたいなものを、特に感じ取りながら読んだのだと思う。
- 昔、学生がダベっているのを横から聞いていて、いわゆるコミュ障っぽい他の学生をディスりまくっていたのを横で聞いて「いや、まあ、でもねえ。そういった人も、社会的にきちんと生きていけるためのサポートっていうのをみんなでしていかなきゃいけないからね。」と、一言だけ言ったら、キョトンとされたことがあったが、そのときのことを思い出した。
- 話の観点は変わるが、ここまで来てしまっただいぶ酷いギャンブル依存の患者をどうすればいいかと話になった場合、家族などがDVだとかウツだとかの被害を被っているのであれば、家族から切り離すという判断が妥当なんだろう。しかし、悩ましいのは、息子の浩司くんに対してはいろいろとひどいけれども、DVはなく、しかも浩司くんは、パパと切り離されたくないと思っているわけで、連ちゃんパパもあれでも、まあ息子を大切にはしている(300万でアレしたエピソードはホントに酷いとは思うけども)。こういう状況だと、息子と親を切り離すという判断は難しいケースであるように思う。これで、連チャンパパがDV・虐待とかも役満でやっていたら、待ったなし児相案件だと思うんだけれども。
- まあ、そこらへんの外部からの強制介入が難しそうだというボーダーライン感も含めて、この親子関係は、難しい話だと思う。まあ、レイプの話とかは、警察が介入して逮捕にもっていけると思うので、そこで捕まってたらもうちょっと話はボーダーライン状態とは違う状態にはなったろうと思う。しかし、こういう酷い親であっても、浩司くんにとっては、養護施設に行くのとどっちがよかったのだろうか。
こまかいツッコミとか
- あと、精神医学系の概念がいくつか登場するが、パチンコ依存の際に精神科医がDSMではなく、クソみたいな心理テストをやっているのはまだいいとして、息子の浩司くんが何も喋らなくなったときに「自閉症」と言ってしまうのは、さすがにアカンだろうと思う。まあ絶版になった昔のマンガにこう言うのも詮無いことではあるが。あれは、順当に考えたら何かしらの強いウツ症状ではないか。いまだに自閉症児に対して「育て方が悪かった」系の誤解がされることが多いけれども、そういうタイプの誤解を育んでしまう。自閉症も、ウツも、躁鬱も、統合失調症もすべて「精神病」というレッテルで処理してしまうタイプの雑さだなあと思う。
- 和菓子屋の跡継ぎ話はけっこう絶句した。連チャンパパとママがクズいのは、もう仕方ないが、そこでさらにあんなクズ一家が登場するのもすげー話だなとおもったが、ああいうタイプの旧い血統的な「家」意識をもった家庭は、昭和の時代には、おそらく私の感覚よりは相対的に多かったのだろうとは思うが……。
- 『ウシジマくん』の場合は、西洋的バイオレンスホラー的な直接的暴力を描くと同時に、ウシジマくんの内面はほとんど描かれずウシジマくんという人間の全体像を描かない。それによってウシジマくんという人間を「人間」として理解することができず、何かそれが妖怪か何かであるような不可視の領域をもった存在としての日本ホラー的な「不気味さ」をも描いている。(まあ、単にあえて、語りすぎないタイプのバイオレンスものっぽいということもできなくはないのかもしれないが……)。いずれにせよ、ウシジマくんは基本的によくわからん。それに対して、「連チャンパパ」はもともとは、教育者だった人の人格が依存症によっていろいろと壊れていく話なので、ちょっと方向が違う。
- しかし、依存症の話とかをいろいろと聞いていると、何かしらの強いストレス要因が幼少期なり、現在形なりで存在するような人でないと、パチンコにせよ薬物にせよ快感を得る度合いは低いという話をよく聞く。連チャンパパの場合は、それが妻の疾走と突然の借金が契機になったのだと思うが、弁当屋の主人がパチンコ狂いに唐突になっていく下りはよくわからん。連チャンパパの世界観だと「それまで遊びを知らない人間は、一挙にハマる」(&チョロい)となっているが、そういうもんだろうか?そういうタイプの症例も確かに少なくないとは思うが、隠れた要因として、別のストレス因子とかが必要な気がするので、「それまで遊びを知らない」というだけで、そこまでハマるとは思わんのだけれども、ここらへんは、実証的にはどうなんだろうか。
ゲームは「クズ」を描けるのか?
もう一つ、ゲームの人間としては、こういうタイプのクズってゲームはどう描写してきたっけな、ということを思った。
ざっくりメモしておこう
1.プレイヤーキャラクターがクズ
1A:一周目から、クズプレイ前提:GTAシリーズ、トロピコ
1B:クズプレイも可能だが、2周め以後にクズプレイが多め:ギャルゲーのハーレムエンド、MGSの殺しまくりプレイ、UNDERTALEのジェノサイドルート。
2.敵NPCがクズ
いくらでもあるし、勧善懲悪パターンの物語においては普通すぎるので省略。
3.味方NPCないし、そのボーダーラインのキャラがクズ
・「たらし」系のイケメンキャラはそこそこに出てくる印象。(そんなにクズというほどかどうかは謎だが)
・あと、ヤクザとかマフィアとか、ブラックコミュニティものの話は必然的にそういう人も登場するが、それは、個人の資質としてクズというか、「ブラックコミュニティの人」ってか感じだからなあ……。そういった、コミュニティの慣習や、コミュニティによって正当化されるタイプの暴力というのは、ごく個人的な動機に貫かれた暴力と比べると「クズ」感は薄い。
・ウィッチャー3の、地方領主のあの人は、なかなかに深みのある「クズ」。
メディア的な特性ということになると、やはり、ゲームのもつ「安全な場所」感というか、「虚構の活動」的な側面というのは、プレイヤーキャラクターのクズ行為をそれなりに楽しませてしまう側面があるのは確かで、それについて書いている人は誰かいるのだろうか。