Critique of Games メモと寸評

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私の査読の書き方メモ(人文・社会科学)

 査読の書き方について書いている記事というのが、ネットを探してもあまり、情報量が多くないので、個人的にこころがけている程度のことを書いておく。

 特に、この書き方を守るべきだとか、そういうわけではない。個人的なメモ程度のものだと思ってお読みいただきたい。(なお、国際的なトップジャーナルの査読とかは、下記の基準とは全く違うだろうと思う。)

 

 

そもそも自分が査読を引き受けるかどうかを決めるポイント

・査読を引き受けるかどうかの判断は非常に重要。

・査読を依頼してきた編集委員の人が、適切でない査読者に割り振ることはよくあるので、査読を引き受ける際に、(1)自分が適切な査読者ではないと感じた場合、もしくは(2)示された期限内に査読を返すのが困難である場合は、なるべくすぐに査読を引き受けられない旨を伝えること。「捜査における初動がだいじ」みたいなところで、引き受けるかどうかの判断はとても重要。

・とはいえ、自分のジャストの分野そのものというより、「まあ、知らんわけではない分野」ぐらいの専門のお隣ぐらいの査読依頼が来ることも多い。その場合の基準として、「これだったらXXさんに査読してもらうのが良いのでは?」と思ったら、その誰かを推薦して、自分は辞退する。

・また、ダメ出しはできるが、方法論的に内容を良くするコメントをあまり思いつきそうにないときも、なるべく辞退する。

・「自分が査読するのが一番いいかどうかは正直わからないけど、じゃあ誰が推薦できるかというと難しいな………。まあ、自分が査読するのは、まあ、マシな選択肢の一つかもな……」と思えたら、査読を引き受ける

 

書く前に

・該当の論文誌の査読ポリシーを確認しておく。院生のゆるめの論文でOKなのか、それともキツめの線引きなのか。

・読みながら、気になったところは、ページ数、指摘等のコメントをまとめておく。(あとで、査読フォーマットの指定する項目別にコメントは振り分ける)

・正直、「再録可」「微細な修正の上再録」の論文は、査読コメントをあまり気にしなくてもよい。問題は「大幅な修正」と「リジェクト」である。

・「大幅な修正」にしたときに、査読者と執筆者の双方が地獄を見ることがある。特に、学際系の学会誌だと、査読者と執筆者の間にディシプリンの違いがある場合は、単純にうまくコミュニケーションがとれないことがある。そうなるとお互い地獄なので、なるべく丁寧に、早めにリジェクトをお送りするのが結局一番いいと思う。

 

<「リジェクト」と、「大幅な修正」の分水嶺

 リジェクト基準は「2回め以後のやりとりでこの論文を、なんとか著者と一緒にパスところまで、もっていくことができそうだと思えるかどうか」だと思う。

 より具体的にいえば、なんとかいけそうだと思える「大幅な修正」にあたるのは下記

  • データのとり方をちょっと直せばいけそう(ちょっと不安だけど……)
  • 分析手法を変えるなり、分析手法に誤解がある部分を修正してくれればいけそう
  • 結論と前提の主張を調整すれば、論文の骨格を変えなくても良さそう
  • 論理展開の微調整(脇の甘い箇所の論点を追加、補うといった程度。具体的に読むべきものの読むべき箇所が指定できるとなお良し)

 こういうレベルの話は「大幅な修正」の中ではかなりラクなほうだと思うし、まあ、いけるんじゃないかと思う。

 だが、次のようなのは、「2、3回目以後のやりとりでなんとかなる」ということがない可能性が高いと判断している。

  • 序盤の研究の基本設計からしてだめ →査読では面倒見きれないから、指導教官に頼って!としか言えない。リジェクト。
  • 前提となる理論がぜんぜん抑えられていない →少なくともあと半年はテーマを絞って勉強して!それから再投稿をたのむ!すまんがリジェクト。
  • 論文の重要な論理展開に致命的な問題が2点以上ある →片方がなんとかなっても、2点目以降が直るのはいつになるのか目処がつかない……指導教官に頼って!……ということでリジェクト。

<「大幅な修正」で引受けてよいと思えるライン>

  • 明確に論文として世に出すことの意義が明確なポイントが一つ以上ある。なんだったら、その他の問題となる箇所は全部削ってもらえば、論文としての形式が成り立つ。
  • 論文の全体的な内容から、研究者として明確に一定のトレーニングを受けているであることが推測され、具体的に指摘すれば、きちんと修正されたものが返ってくるであろうという期待がもてる。(論文のテーマや手法上、本来、期待されるべき専門性を見につけていない著者あるいは査読者の場合、査読コメントのやりとりで、トンチンカンな答えがかえってきがちなので、そういう人とやりとりするのは、お互いに疲弊しがち)
  • 2回め以後のやりとりで、致命的な箇所が直っているかどうかをきちんと議論できる明確な修正基準を、こちらから示すことができる。(基本的に、2回目以後の査読で条件の後付けはできないので。)

 

書くこと

1.まずは投稿者に対して感謝の念を述べる。

2.問題意識として共有できる点をのべ、そのほか、高く評価できる点を可能な限り述べる

3.問題点を具体的に指摘する。

 A.再録条件:確実に修正が必要と思われる点 ※でかいやつが2点も3点もあるようならリジェクト

 B.参考意見1:論争的なポイントなので、言及に注意を要する点 ※まあ、手を入れてもらったほうがいいだろうが、本人に強い意見があるなら、まあ放置でも可。 

 C.参考意見2:事務的な修正(書式、誤字脱字など) 

 

<大幅な修正>

  • 明確な修正基準を伝える。
  • 可能なら、「一緒に論文をよくしていけると嬉しいです」ぐらいの挨拶があってもよいように思う。
  • また、論文の「良い点」について、改めて強調する。

<リジェクト>

  • 明確なリジェクト理由。
  • 加えて、できれば、(あくまで参考意見として)「どのような研究活動つづけたら、論文として、評価可能なものに発展する可能性があるか」を伝える。
  • 論文(というか、問題意識)の「良い点」について、改めて強調する。

 

その他のポイント

  • 二回目の査読で大きな新しい論点の指摘は可能な限りすべきではない:特に「大幅な修正」をおねがいする場合が面倒なのだが、一回目の査読でクリティカルな大きなポイントは可能な限り「全て」指摘するようにこころがけたほうがよい。なぜなら、二回目以後の修正のタイミングで、大きな修正を指摘する場合、査読・修正のプロセスがどこまで続くのか先が見えない状態に陥る可能性があり、査読者・執筆者双方に関係性が悪化する可能性があるためである。その点を考慮すると、二回目以後の修正で新たな「大きな論点」が発生しそうな著者の場合は、リジェクトしたほうがよいというところはあるが、論文の根本的な書き直しを含めて、二回目でさらに新たな大きな指摘をせざるをえない可能性が高い場合は、一回目のコメントのなかで、その可能性があることを予め著者に伝えるという手もあるだろう(個人的には、そういうケースは、最初の段階でリジェクトしたほうがいいとは思う)。
  • 厳しくしすぎないポイント:私自身もそうだったのだが、「はじめての査読」をする場合、だいたいの場合、そこまで格の高いジャーナルでないことが多いと思う。しかし、博士課程を出たばかりの査読者に一般に言えることとして、かなり厳しめの査読をすることが多い(自分が厳しく言われてきたばかりだし、まあ仕方ない)。もちろん、ジャーナルによっては、ある程度ゆるくしても良いポイントというのがある場合が多い。たとえば、論文著者が「実証した」という強い主張をしているが、実際には「まあ、探索的研究としては、おもしろい議論かな」ぐらいの話は多い。そういった場合に、リジェクトをするのではなく、結論の主張を少し後退させてもらったりすることで、書き直してもらう方向にすることは多い。もちろん、ここらへんの基準はジャーナルによってそこそこ変わるので、それまでのジャーナルの掲載論文の方向性を見たり、論文の編集委員の先生に尋ねることで、確認すると良い。

参考

早川智. (2019). 査読の作法. 日大医学雑誌, 78(4), 207-211.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/numa/78/4/78_207/_pdf

 

渡辺博芳、情報処理学会「査読を依頼されたら─より良い査読報告書の書き方─」

https://www.ipsj.or.jp/magazine/9faeag000000yx8j-att/6101ronbun.pdf

 

Chad Musick, PhD, and Caryn Jones「効果的な査読(ピア・レビュー)を行うには」ThinkSCIENCE株式会社|英文校正・学術論文翻訳

 

阿部幸大,2020,

アートとしての論文 人文系の院生が査読を通すためのドリル - Write off the grid. (hatenablog.com)

 

因果効果の推定は、創発的現象の機序の解明に寄与するのか?

学生と話していて、混乱を生みがちなポイントだと思ったので、メモ。

 

1.統計的にそれなりにきちんとした手続きを踏んで、因果効果が推定できることと、

2.創発的現象の機序を明らかにすること

 の間には、ダイレクトな関係はない。あたりまえだけれども。

 RCTなり何なりの話というのは、あくまで帰納的に因果効果を推定することであって、それは、創発的現象(ここでは、弱い創発主義的な立場を想定している)の機序を直接的にあきらかにするわけではない。それはRCTがいかに強い因果効果の推定をしえたとしても、機序の問題はやはり、理論的なモデルをたてないと無理である。

 

  • 「AとBが組み合わさった時に新しい性質Xが付与されるか」(創発)という説明と、
  • 「Aに対して、Bという介入があったときに、Aに変化Xが発生するか」(因果効果)という説明

 の2つの違いの話なので、正直、けっこう混乱を生む話だよな、とも思う。まあ、「変化X」が新しい特性として生まれるものなのか、それとも、単なる新たな特性の獲得ではない単なる「変化」なのか。

 

 参照先があれば、下記にメモする。

 

 

Kim の定式化(Kim 1999, pp. 20-22)

 

 

余談:

RCTといえば、ランダム化比較試験 RCT:Randomized Controlled Trialだろうと、思っていたが、ぐぐっていて気がついたが、合理的選択理論 Rational Choice TheoryもRCTなんだな……。

 

 

久保明教『機械カニバリズム』、東浩紀『哲学の誤配』

 

 

 どちらの本も、ゲームをめぐる議論がかなり全体の議論をめぐる骨格部分で重要なものとなっている。

 

1.

 久保,2018は基本的には、将棋の電脳戦について書かれた本である。つまみ読みをした範囲だと、理論的には、技術決定論と技術の社会的構成論を止揚するものとしてのサイボーグ論、みたいな議論に近いタイプの話のような印象をうける。大筋の議論も興味深いが、、特に第5章の「強さとは何か」は、個人的にもかなり関心と重なるところが大きい。(ただ、人類学内部の細かな議論は、正直なはなし、原典を読んでいないので、細かく検討する能力は私にはない)

 

  • きちんと読み込めていないだけかもしれないが、「技術決定論 vs 社会構成論」的な構図で話をしているのは若干気になった。たとえば、綾部(2006)などでは、社会構成論は、社会決定論とは言い切れず、中間的な側面があるよね、という話がされている。

 

ref:

綾部 広則, 技術の社会的構成とは何か, 赤門マネジメント・レビュー, 2006, 5 巻, 1 号, p. 1-18,

https://www.jstage.jst.go.jp/article/amr/5/1/5_050101/_article/-char/ja/

 

 

 東,2020は、特に後半で出てくるリオタールについの講演パートで、物語に関係する概念として「ゲーム」の概念を重要なものとしておいている。ここで言われているゲーム概念は、やや細かな検討を要する点もあるが、魅力的な問題提起がなされている。

 p149で、ゲームの成立のために「観客が必要」と論じているあたりは面白い。

 「観客」(の期待)みたいなものに重要性を見出すという場合、ここで言う「ゲーム」はある意味で、ショーとして機能しうるゲームなので、ゲームの中でもデジタルゲームのようなものとは、やや異なるタイプの「ゲーム」概念を前提にしていると見たほうが良さそうである。

 デジタルゲームの場合は、「審判」としてソースコードが機能して、文字通りの意味での「観客」は必ずしも必要ない(自分が「観客」を兼ねる)。デジタルゲームというのがすごかったことの一つは、桝山さんも言う通り「一人でできる」ことだった。観客というシステムから、切り離されてlaborに近いゲームを大量発生させることに成功したのが、デジタル化されたゲームであり、比較的、実現のしやすいゲーミフィケーションである(ref:uber eat)。

 本書を読みつつ、自動化された審判ではなく「観客」を必要とするゲームのことは、やはり別の呼び名が必要だろうという気がした。誰かがすでに名付けているかも知れないが、たとえば「ショーゲーム」とでも名付ければいいだろうか?二人遊びでも、審判でもなく、観客の期待によって続行することを期待されるようなゲームであり、観客とプレイヤーが相補的な関係にあるゲームというものをどこまで普遍化可能な「ゲーム」概念の内側に入り込ませることが可能かを考えてみたほうが良さそうだ。

 

 また、エコーチェンバーやフィルターバブルが小さな物語であって、ゲームではないという議論などは、魅力的な文だと思うが、論理構造はちょっと追えなかった。

 

 双方の本について、どこかで少し時間をつくってもう少し詰めた議論をしたいところだ。

 

 

 また、一応、備忘録的に書いておくと、ゲンロン vol.8と、ゲンロン vol.9の他に、ゲンロン vol.7でも実は、ゲームについての話がなされている。

 

 

 

 

尾原和啓,2020『ネットビジネス進化論』NHK出版

 

 尾原さんの新著。

 尾原さんの本を読むのは、『ITビジネスの原理』『アフターデジタル』につづいて三冊目。

 『ITビジネスの原理』と同じく、 なぜ、Googleのビジネスモデルが強いのか、といったようなある意味で、IT業界の関係者であれば、当然わかっているであろう内容を、(1)基本的なことからしっかりと (2)なるべくITビジネス全般を網羅的に 示そうとした、「ITビジネスの教科書」とも言える内容。前著よりも、内容がアップデートされると同時に、ページ数も増えている。

 実業の人の本なので、学者の書く本よりも、基本的にエピソードベースであり、わかりやすい内容。

 もっとも、学者的な観点から言えば、記述が柔らかすぎるという評価もありうる。たとえば、インターネットと経済というようなものであれば、実積寿也『通信産業の経済学』や、ジャン・ティロール『良き社会のための経済学』の第14章~16章あたりなど、しっかりとした学者による知見は徐々につみかさなっており、そういった本の方が、たとえば大学のテキストにするには向いている。ただ、、インターネット関連ビジネスの論点は経済・経営学的な議論もあれば、情報工学的なものまで拡がっているおり、学者が書こうとするとどうしても、一人の研究者が書ける内容ではなくなる。学者が書くと、この内容はどうしても複数人が手分けして書いた教科書のようなものにならざるを得ない。学者による教科書的な本のなかでしっかりと論じられている内容というのは、どうしてもトピックの網羅性という点だと、現場の第一線に近い人よりも論じられている内容のひろがりに限界があるという問題もある。

 そういったことを「現場の第一線に近いところにいる人が書いた教科書」というのは、単純に意義があるといっていい。

 インターネットのビジネスモデルの基本的なことをわかっていない人が最初に手に取る一冊としては、おすすめできる本だと思う。

 

 #上にも書いたが、この本を読んで、次にすすむべき、より学者めいた情報通信産業の教科書としては次の本がおすすめできると思う。

 

 

 

 

植原亮 2020,『思考力改善ドリル』:大学生向けの教科書として使いやすい内容。

ご恵投いただいた。感謝。

植原さんとは、関西大学総合情報学部に勤務していたときにお世話になり、何度かお話したが、哲学と認知科学の両方に興味がまたがっているという点で実は、けっこう興味がかぶる方だということがわかり、仲良くさせていただいた。

 

この本の中身は、哲学の本というよりは、タイトルのとおり、科学リテラシー育成のためのドリルという感じで、いわゆる「学問的な思考」みたいな頭の使い方をしたことがあまりないという学生向けに、考えてもらうとちょうど面白そうな問が、100問以上つまっており、研究の初歩みたいなことを考えてもらう上でも、役にたちそうな問がたくさんある。

 

 追記:この本の内容をnocobonみたいな感じにして学生に問いてもらえないだろうか?

 

 

Player Type Model

リチャートバートル的なものの、研究の積み重ね。

メモは随時更新。

 

Marc Busch, Elke Mattheiss, Rita Orji, Peter Fröhlich, Michael Lankes, and Manfred Tscheligi. 2016.

Marc Busch, Elke Mattheiss, Rita Orji, Peter Fröhlich, Michael Lankes, and Manfred Tscheligi. 2016. Player Type Models: Towards Empirical Validation. In Proceedings of the 2016 CHI Conference Extended Abstracts on Human Factors in Computing Systems (CHI EA '16). Association for Computing Machinery, New York, NY, USA, 1835–1841. DOI:https://doi.org/10.1145/2851581.2892399

 

下記、Richard Birtle的なゲームプレイヤーのモデルを質問紙と因子分析によって、4分類ではなく、6分類にしたもの。

(PDF) Player Type Models – Towards Empirical Validation | Rita Orji, Marc Busch, and Elke Mattheiss - Academia.edu

 

下記アブストの訳(DeepL)

BrainHexモデルのようなプレイヤータイプモデルは、デジタルゲームをプレイヤーの好みに合わせてパーソナライズするための人気のあるアプローチです。いくつかのプレイヤータイプモデルが開発され、現在ゲームデザインプロジェクトで使用されていますが、その妥当性に関するデータはまだ不足しています。この研究のギャップを埋めるために、現在進行中のプロジェクトでプレイヤータイプモデルBrainHexのサイコメトリック特性(因子構造、信頼性、安定性)と予測妥当性(プレイヤータイプスコアがプレイヤー体験を予測できるかどうか)を調査しています。2つのオンライン研究(n1=592, n2=243)の結果から、BrainHexモデルの心理測定特性が改善される可能性があることがわかりました. 今後の研究では、質問票の改良を提案し、予測の妥当性を調査することを提案します。

 

 

Nacke, L. E., Bateman, C., & Mandryk, R. L. (2014)

上記の論文で言われている「BrainHexモデル」の論文というのは、多分これのことか?

Nacke, L. E., Bateman, C., & Mandryk, R. L. (2014). BrainHex: A neurobiological gamer typology survey. Entertainment computing, 5(1), 55-62.

 

BrainHex: A neurobiological gamer typology survey - ScienceDirect

 

 

プレイヤーの7つの異なるタイプとして、下記の7つがあるとされている。

 

シーカー、サバイバー、デアデビルマスターマインド、征服者、社交家、達成者

Seeker, Survivor, Daredevil, Mastermind, Conqueror, Socialiser, and Achiever

 

 著者の一人のBatemanは、私も翻訳で解説(?)を少し書いている21st Century Game Designこと『 「ヒットする」のゲームデザイン』のクリス・ベイトマンさんである。なんだか、懐かしい名前に出会ったという気分。